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黒い魔獣の襲撃

(大好きな人と触れ合えるなんて、夢のようだけれど……!)


 こんな姿を彼の想い人に見られてしまえば、大きなトラブルに発展する。

 ラシリネはこのまま、滅多に感じられない大好きな人の暖かなぬくもりを感じていたい気持ちでいっぱいになりながらも、慌ててその腕から抜け出ようと試みた。


 しかし――。

 強い力で抱きしめられてしまえば、叶わない。


「俺の預かり知らぬところで、君がこの帝国を守護する聖女になると決めていたら……どうしようかと……」


 さらに、明らかに弱っているとわかるようなか細い声が耳元から聞こえてきたのだ。

 このままここで拒絶を続ければ、陛下はもっと悲しむ。


(陛下がこんな行動に出たのは、私を心配してくださったからなのね……)


 ラシリネは優しく口元を綻ばせると、無理に腕から抜け出ようとするのは諦め、彼を諭す方向へ舵を切った。


「陛下は私にとって、命の恩人ですから……。その時は、きちんと相談をしてから決めるつもりです」

「本当は聖女になど、なってほしくなかったんだ……。これからは、1人の女性として、幸せになってほしい。なのに……」

「そんなふうに思って頂けるなんて……。私は、果報者ですね」


 冗談めかして微笑んだのは、あまりよくなかったようだ。

 ラシリネの背中に回す腕を外した彼は、「心外だ」と言わんばかりにこちらへ凄む。


「嘘じゃない。本心だ」

「はい。疑ってなど、おりません。そのお言葉、ありがたく頂戴いたします」


 ムキになると、幼い頃の愛らしさが増すような気がする。


(こういうところも、素敵よね……)


 ますます彼に対する好意を強めながら、ゆっくりと身体を離した。


「俺がいない時に外出をする際は、使用人に一言伝えてからにしてくれ」

「わかりました」


 激昂した状態で姿を見せた時は、どうなるかと思ったが……。

 こちらを抱きしめて満足したのか、陛下は普段通りの様子に戻っている。


(前皇帝が何を言いかけたかについては、気になるけれど……。ここで長い間立ち話をするべきでは、ないわよね……)


 ダリウスが再び怒り出しては堪らない。

 ラシリネは会話に入る様子もなく、静かに事の成り行きを見守っていた男性へ向け、頭を下げた。


「貴重な助言を頂き、誠にありがとうございました」

「我は、何もしとらんよ」

「父上はラシリネと、何を話していたんだ」

「ああ……。大したことではない。この間、妻と話題になった件を……」


 前皇帝がダリウスに向かって、先程まで行われていた会話の内容を掻い摘んで説明しようとした時、ある異変が起こる。


「ガウゥウ!」


 黒いオーラを纏った1匹の魔獣が、勢いよく飛び出して来たのだ。


「ラシリネ!」

「わふ!?」


 皇帝の怒声を耳にし、目を閉じていたスノーエルも驚きを露わにしながら臨戦態勢に入る。

 だが、魔獣がこちらに向かって襲いかかってくるほうが早かった。


「く……っ」

「ダリウス!」

「加勢はいい! 騎士団を呼んでくれ!」


 前皇帝は踵を返し、訓練場の中へと消えていく。


「ダリウス様……!」


 ラシリネは悲痛な叫び声を上げて、スノーエルとともに戦う想い人の姿を見つめた。


(陛下が、押されているわ……!)


 南の森で獣達を討伐した際は、危なげなく華麗に斬り伏せていたのに――。

 今回の獣は、黒いオーラを纏っているからだろうか。

 一筋縄では、いかないようだ。


(ダリウス様がただの魔獣に、遅れを取るはずがないもの……。あの黒いオーラを、払わなければ……!)


 自分は今、聖女見習いという特殊な立場に置かれている。

 本来であれば国を守る時しか聖なる力は発動できないはずだが、なぜか今のラシリネは自由に異能を発揮できた。


(お願い……っ! 陛下を、恐ろしい魔物の脅威から守って……!)


 聖女は身に纏うドレスが汚れるのも厭わずにその場で膝をつき、胸元で両手を組む。

 その後、祈りを捧げた。


「わふーん!」


 ラシリネの祈りを「聞き届けた」とばかりにスノーエルが雄叫びを上げた直後、危機に陥っていた陛下の周りにキラキラと光り輝く障壁が展開される。


「ギャウ!?」


 ダリウスに襲いかかろうとしていた魔獣は眩い光を放つ壁に阻まれ、勢いよく後方へ吹っ飛んだ。


「ふん……っ!」


 陛下はしっかりと大地を踏みしめ、これ幸いとばかりに空中でバランスを崩した獣に向かって剣を振りかぶった。


「ギャワウゥ!」


 魔獣は障壁に阻まれたのがよほど堪えたのか、皇帝の一閃を真正面から受けてしまう。

 勢いよく吹き飛ばされていく獣から黒いオーラが薄れ、鍛錬場へ向かって落ちていく。

 その姿を目にした彼は剣を鞘に収めると、血相を変えながらこちらへやってきた。


「ラシリネ! 怪我は!?」


 聖女はすぐに胸元で指先を重ね合わせるのを止め、優しく口元を綻ばせて告げる。


「陛下のおかげで、なんともありません!」

「俺は何もしていない。君がいなければ、今頃……」


 彼は己の無力さを嘆き、悲しそうに目を伏せた。


(少し押されたくらいで、大袈裟だわ。無事に魔物を退けたのだから、そんな表情をする必要はないのに……)


 ラシリネは少しでも陛下に自信を取り戻してほしくて、ダリウスにそっと寄り添った。


「先程の魔物は、明らかに様子がおかしかったではありませんか。無事に退けられただけ、よしとするべきです」

「だが……」

「今は己の力不足を嘆くよりも、今後どうするかを決めるべきかと」


 障壁がきちんと張り巡らされていれば、彼らの侵入を防げる。


 しかし――。


 この帝国は、ほかの国とは違って聖女がいない。

 今のままではあのような漆黒のオーラを身に纏った獣の大群が攻めてきた場合、王立騎士団でも対応できない可能性が高かった。


「私が結界を張れば、この帝国で暮らす人々が恐怖に怯える必要はなくなります」

「それだけは、止めてくれ」

「エヴァイシュ帝国の聖女になるべきだと、神も望んでいるのですよ?」


 この領土と民を守れるのが自分しかいないのならば、喜んでその身を差し出すべきだ。

 そんなこちらの主張を、陛下はどうしても受け入れられないらしい。


 紫色の瞳が、切なげに潤む。

 どことなく、唇から紡ぎ出される低い声も震えているような気がした。 


「その身を犠牲にして、民を守る必要はないんだ」

「帝国民が傷ついてからでは、遅いのです」

「帝国民を、舐めないでくれ。アデラプスの民なんかよりもずっと屈強で、何度も修羅場をくぐり抜けている。聖女などいなくても、平気だ」

「陛下……」

「あの日の出来事を後悔しているのなら、今度こそは聞き入れてほしい」


 彼は胸元からあるものを取り出し、ラシリネに差し出す。

 それは10年前にも目にした覚えのある、聖なる力を発揮できなくさせる制御魔具だった。


(これを受け取れば、聖女にならなくて済む……)


 聖なる力を身に宿した聖女が、神の意思に背くことは重罪だ。

 いつか必ず、天罰が下る。


(彼に想いを通じ合わせられる確証があれば、陛下の手を取ったかもしれない……)


 たとえどれほど恐ろしい目に遭おうとも、ダリウスさえいればほかにはいらない。

 そう思えるほどに、ラシリネは陛下を愛していたからだ。

 しかし――。


(ダリウス様には、想い人がいるもの……。ここまま彼の手を取ったところで、陛下と結ばれる可能性は低い……)


 彼と夫婦になれないのであれば、皇帝が治めるこの帝国を守るために、聖女としてすべてを捧げるほうが、よほどダリウスに喜んでもらえるだろう。


「私は母国でハズレ聖女と呼ばれる程に、障壁をうまく張り巡らせられませんでした」

「駄目だ」

「そんな自分が、どこまで陛下のためにお力になれるかはわかりませんが……」

「やめてくれ」

「1度目の失敗を活かし、今度こそ立派な聖女になってみせます!」

「ラシリネ……!」


 だからどうか、今にも泣き出しそうに紫色の瞳を潤ませないでほしい。

 そんな思いを込めて優しく微笑んだのだが、今の彼にはまったく意味をなさなかったようだ。

 陛下は魔具を握りしめ、どうにか考え直してもらえないかと言葉を尽くす。


「君の決めたことに、俺が口出しする権利はない。そうやって無理やり己を納得させた結果、ラシリネはアデラプス王国で汚名を着せられた……!」

「陛下のせいでは、ありません」

「違う。俺が無理やりにでも、この魔具を嵌めればよかったんだ。そうすれば、君は傷つく必要などなかった」

「この帝国に結界を張れるのは、聖女だけです。自分が傷つきたくないからと、人々が苦しむ姿から目を背けるなんてできません」

「どうして君はいつも、自分よりも他者を優先するんだ……!?」


 陛下の言う通りだ。

 本来であれば聖女は、己の意思よりも他者を優先しなければならない。

 清らかで、美しく、慈愛に満ちた女性の総称だった。


 なのに――。


 ラシリネが国の防壁の担う人間としてあるまじき思いをいだいてしまったせいで、ハズレ聖女と呼ばれるようになった。


(誰が一番悪いのか……。今なら、断言できるわ……)


 ラシリネは己の罪を懺悔するように、静かに語り出す。


「私は今まで、自分本位に生きてきました」


 ずっと、後悔していた。

 大好きな人と離れ離れになり、彼のいない国を守護しなければならない状況を。


「離れ離れになっても、ダリウス様のことを忘れられなかった……」


 自国はダリウスにとって敵でしかない。

 帝国に聖女がいない以上、自国の武力が伴えば攻め落とされる危険性だってあった。


『大好きな人が、私のせいで死ぬかもしれない……! そんなの、耐えられないわ!』


 幼いラシリネには、聖女として人々を無償の愛で包み込む覚悟が足りなかったのだ。

 見ず知らずの民よりも愛する人を優先した結果、無数の穴が開いた結界しか生み出せなかった。


(自国では、聖女としての役目をほとんど果たせなかった……)


 だが、今は違う。

 この帝国には、最愛の人がいる。

 心優しい彼はここで暮らす民達が傷つけば、きっと悲しむだろう。


「2度も同じ失敗は、繰り返しません。他国に自慢できるような、立派な聖女になってみせます!」

「わかっているのか!? 聖女になれば、君は……っ!」

「問題ありません。想い人が私を好きになることは、きっとないので……」

「な……っ!」


 陛下は紫色の瞳を大きく見開き、絶句した。

 一体、何を驚く必要があるのだろうか。

 ラシリネは、不思議で仕方がない。


(陛下をお慕いしていると伝えたところで、迷惑になるだけですもの……。言えるわけがないのに……)


 離れていた時間こそ長いが、彼とは仲がいいほうだ。

 もしかすると「好きな人がいるなら相談してほしかった」と疎外感を感じているのかもしれない。


「私は10年前のあの日、陛下と別れた時に決めました。生涯、神に操を立てると。ですから、なんの問題もありません」


 こちらがどれほど言葉を尽くしたところで、彼はまったく納得する様子がない。


(最悪の場合は、怒鳴りつけられるかもしれないわね……)


 陛下は悔しそうに唇を噛み締め、拳まで握りしめ始めた。

 これは、よくない傾向だ。


「陛下が愛し、自ら剣を振るって守り続けるこの帝国を――。私にも守護させて頂きたいのです」


 自国の国王に言われたら、震え上がるほど恐ろしかった。

 しかし、相手は最愛の皇帝だ。

 それほど怒りを露わにされたとしても、自分を心配しているからだとよくわかっている。


 だからこそ――。

 ラシリネは怯えることなく、自然体でいられた。


「駄目、でしょうか……?」


 これまでにこやかに口元を綻ばせていたが、彼がいつまで経っても許可をしてくれないためだんだん不安になってきた。

 ラシリネは金色の瞳を潤ませ、陛下の顔色を窺う。


「好きにしろ」


 ダリウスは紫色の瞳を苛立たしげに細めると、こちらに向かってぶっきらぼうに吐き捨てる。

 その後、勢いよくマントを翻してその場をあとにしてしまった。


「わふ?」


 事の成り行きを見守っていたスノーエルは、「あいつはなんでこんなに怒ってんだ?」と不思議そうにしている。


 聖女はそんな神獣を抱きしめ、白くてもふもふとした胴体に顔を埋めた。


「大好きな人に苛立たしげな視線を向けられるのって、思っている以上につらいのね……」


 自分でも、思っている以上に傷ついている。

 そんな己の心を癒やすべく、ゆっくりと目を閉じた。

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