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第四十一話 無傷で勝て ―風と火と地の理―

 弘治三年(1557)春。

 尾張の空は、柔らかい霞の中にあった。

 しかし、その霞の向こうに、いくつもの火種がくすぶっている。


 稲生の戦から一年。

 織田信長は清洲に本拠を置き、ようやく尾張全土を手中に収めつつあった。

 だが北では、斎藤道三亡き後の美濃が揺れ、国境には残党が群れ、

 東の知多では旧勢力がなおも燻っていた。


 兵の数、およそ三千。

 信長直属の兵はそのうち八百。

 残りは各地の土豪と、近在の町民兵。

 統一の火は灯ったが、まだ風は荒れている。


 ――そんな中、清洲の書院で、ひとりの男が静かに膝をついていた。



 「殿。美濃との国境に、三つの村がございます。

  尾張に背く者どもが立て籠もり、道を塞いでおります」


 報告する丹羽長秀の声に、信長は顎を引いた。


「村人は何人ほどだ」


「三ヶ村合わせて三百ほど。武装は粗末ですが、周囲に砦も築いております。

 戦にすれば、数十の犠牲は免れませぬ」


「犠牲、か」

 信長は眉を寄せ、筆を止めた。


「……ならば、戦わずに勝つ方法を探せ」


「戦わず……?」


「弟が遺した理を、実にしてみせよ」


 丹羽が息を呑む。

「――信勝様の、理を」


 信長はうなずき、窓の外を見た。

「風が変わった。

 いま尾張は、戦より理で動く。

 ならば、“風の理”を使う者を連れてこい」


 丹羽は一瞬迷い、そして口を開いた。

「……明智十兵衛光秀、あの放浪の男を」


 信長の目が細められる。

「あの“風の医者”か。――面白い」



 翌日、清洲城の中庭に、兵たちが集められた。


 藤吉郎は地図を広げて叫ぶ。

「殿の命は“勝て! でも殺すな!!”やそうです!!」


「はぁぁ!? どうやって!?」

 与一が火縄を巻いたまま叫んだ。


「槍も振るな、弓も撃つなって、そりゃ戦やない!!」

 前田利家が吠える。


「……静かに」


 風のような声が、それらを一瞬で沈めた。

 明智光秀。白い衣に細身の刀、淡い微笑を浮かべたまま立っていた。


「戦わずして勝つとは、相手の“理”を崩すこと。

 火を使わず、風で囲い、水で流す」


 藤吉郎が顔をしかめる。

「またわけ分からんこと言い出したぁぁぁ!!」


「わからなくて良いのです。見れば、分かります」


「見たら分かるとか、鍛冶屋かあんたは!!」

 鉄之助が突っ込み、与一が吹き出した。


「鍛冶も、戦も、火を扱う術です。――ただ、私は風で打つだけ」


 そう言って光秀は、地図の上に小石を並べ始めた。


「尾張の兵は三千。美濃は四千。

 ですが、その半数は農兵で、三日の兵糧も持ちません。

 勝つには、力より“流れ”を読めばよい。

 この三ヶ村の地形……ここに“風の窓”があります」


 光秀の指が谷筋をなぞる。

「風が北から南へ抜ける。そこに鏡を並べ、日の光を反射させなさい」


「鏡ぃ!?」


「はい。鏡で“火”を映すのです。

 兵は光を見れば、天の炎が降ると思う」


「……そんなバカな」勝家が唸る。


「バカでいいのです。戦とは、信じ込ませた者が勝つ」


 藤吉郎が頭を抱えた。

「風に火ぃ映して勝て言われてもなぁ……!!」


「大丈夫。あんた、顔が明るいから」

「それ関係あります!?」



 その夜。


 光秀はひとり天幕で筆を走らせていた。

 紙の上に描かれる線は、川の流れ、風の方向、そして陽の角度。

 まるで天と地の息遣いを写し取るようだった。


 丹羽が覗き込み、息を飲む。

「まるで……地図が呼吸している」


「はい。風の通り道を読むのです。

 戦も、病も、風の滞りから始まります」


「……あんた、本当に戦の医者だな」



 翌朝。


 三ヶ村の一つ、亀ノ尾村。

 丘の上に野武士たちが陣を張る。

 その下の谷に、尾張軍が姿を現した。


 光秀の声が響く。

「始めなさい」


 前田の騎馬が一斉に動く。

 砂煙が上がり、槍隊が風に乗るように駆ける。

 だが、突入はしない。囲むだけ。


 その周囲で、与一の鉄砲が一斉に空へ向かう。


 ――パンッ! パンパンッ!!


 弾はすべて空を裂いた。

 しかし、その音は風に乗り、谷間で反響し、

 まるで十倍の兵が撃っているように響いた。


「な、なんだ!? 敵は何人だ!?」

 野武士の叫び。


 その頭上、丘の頂で太陽の光がきらめいた。

 鉄之助と庄三郎が作った鏡板が、風でゆらめく。


 光が跳ね、火のように広がる。


「天火だ! 天火が降るぞ!!」


 叫びが伝染し、兵が逃げ出す。


 藤吉郎が笑いながら叫んだ。

「ほら見てみぃ! 光秀はんの天の火、バッチリや!!」


「ま、まじで効いてる!! 火使ってへんのに燃えとるやん!!」


「それは心が燃えているからです」光秀がさらりと答える。


「カッコえぇけどムカつくぅぅぅ!!」



 三ヶ村、次々と降伏。

 一人の死者も出さず、尾張北境は静まり返った。


 光秀は馬を下り、手を合わせた。

「風と陽、そして人の心。

 戦は、誰の血も要らぬのです」


 利家が槍を支えながら笑った。

「……お前、神か?」


「いえ、ただの医者です」


「医者て言うなや!!」

 与一と藤吉郎が同時にツッコむ。


 鉄之助は火のない鏡板を見上げ、

 ぼそりと呟いた。


「火を使わず、火を見せる……。

 これが、“理”ってやつか」


 光忠が腰の奥でかすかに鳴った。

 その音は、まるで“認めた”ようだった。



 夕刻。清洲城・政務室。


 丹羽が報告書を抱え、膝をつく。

「殿。……尾張北、三ヶ村とも無血で降伏いたしました。

 敵兵三百、死者ゼロ。こちらの損害、ゼロ。」


「ゼロ……?」

 信長は筆を止めた。


「はい。火を使わず、鏡で太陽を……」


「鏡で太陽?」


「詳しい理は、光秀殿が……」


 信長は立ち上がる。

「理はどうでもいい。結果だけ聞こう。

 ――面白い」


 丹羽は額の汗を拭った。

「また報告書が増えますな……」


 信長は笑う。

「増やせ。理は積めば積むほど、火になる」



 その夜、光秀は静かに筆を取った。

 紙の端に書き記す。


《戦、風にて癒ゆ。》


 月が雲を割り、清洲の屋根を照らした。

 その光は、まるで信勝の理が天へ昇ったように柔らかく、

 尾張の夜風は、静かに吹き抜けていった。


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【次回更新】明日17時予定!

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