第四十話 放浪の奇才・明智光秀、尾張に舞う
昼下がりの清洲城。
政務所の片隅で、丹羽長秀は今日も頭を抱えていた。
机の上には、しわしわの梅干しが三粒。
「……藤吉郎。また厄介な顔してるな。」
「えらい言われようやなぁ。今日のはほんまに良い話やで!」
「お前の“良い話”で胃が治まったことは一度もない。言え。」
「“火縄銃と地図と書庫を見せてほしい”言う浪人が来てます。」
「誰だ。」
「明智十兵衛光秀。」
筆が止まる。丹羽の眉が動いた。
「……美濃のか?」
「そうそう。道三様のとこにいたって噂の。
“考えすぎて戦に遅れる”とか“敵を説得して勝つ”とか言われとる、あの変わり者ですわ。」
「胃が死ぬ予感しかしねぇ。」
丹羽は懐から梅干しの包みを出し、一粒をかじった。
顔がしょっぱく歪む。
「……三粒スタートだ。」
「計るなや!!」
「殿は興味持つぞ。変人に弱いからな。」
「それは認めます。」
「よし、通せ。ただし何か燃えたらお前の責任だ。」
「任しといてください。火消し桶二つ持っていきます!」
「最初から燃える前提やめろ!!」
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鍛冶場。
鉄が赤く光り、金槌の音が響く。
若い鉄之助は炉を覗きながら槌を振っていた。
「温度、いいぞ! 打ち入る!」
「ええ感じやなぁ鉄坊。」藤吉郎が後ろでニヤニヤしている。
「顔まで熱気で光っとるで。」
「見物してないで風送ってください!!」
「まぁまぁ。今日は客や。」
「客? また面倒な人ですか?」
「“明智十兵衛”言うてな、美濃の浪人や。」
「……美濃の方ですか。」
「頭だけ回りすぎて人の話聞かんタイプらしい。」
「それ最悪のやつですよ!!」
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「失礼します。」
静かな声が響いた。
浅葱色の袴を揺らして、一人の男が入ってくる。
年の頃は二十代の終わり。落ち着き払った目が、炉の中を一瞥した。
「……いい火ですね。温度が一定している。」
「え、見ただけで分かるんですか?」
「はい。鉄の色と、空気の揺れ方で分かります。」
「え、空気で分かるの!? 僕、三年やっても分かんないのに!」
「続けていれば、きっと分かりますよ。無理に上げすぎないところがいい。」
「……なんか普通に褒められた!? 理屈じゃなくて実際見てる!!」
「現場を見るのが一番早いです。」
「いや、言ってること真っ当なのに腹立つなぁ!!」
藤吉郎が笑った。「せやけどな、ほんまに火見ただけで分かる人は初めてやわ。」
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光秀の視線が横の棚に移った。
そこには、藤吉郎が描いた尾張の地図が立てかけてある。
「この地図……あなたが描いたのですか?」
「おうよ! 半年かけて歩きまわって描いたんやで!」
「とても丁寧で正確ですね。まるで設計図のようだ。」
光秀は地図を持ち上げ、光に透かした。
少し顎に手を当てる。
「ただ、惜しいところが一つ。」
「出たぁぁぁぁ!!!」藤吉郎が頭を抱える。
「高いところと低いところの差が、分かりにくい。
地面には“影”があるんです。」
「影?」鉄之助が首をかしげる。
「山を歩くと、日の当たる斜面と暗い斜面がありますね。
その陰影を描くんです。これだけ正確な地図なら丘の凹凸を強調してあげれば……」
光秀は筆を取り、地図にさっと影を描いた。
丘の形が、浮かび上がる。
「……うわ、これ……立体に見える!」藤吉郎が叫ぶ。
「ほんまや……地面が“起き上がってる”みたいだ。」鉄之助も感嘆の声を上げる。
「これなら、道がどっちへ下るか一目で分かります。
地図は平らですが、戦は平らじゃないですから。」
「すげぇ……。」
与一が息を呑む。「これ、戦でも使える……!」
「美濃では山が多い。こういう工夫がないと道に迷うんです。
尾張のような平野でも、高さを読む力は役に立ちます。」
藤吉郎が苦笑しながら手を上げた。
「半年泥まみれで描いたけど、三十秒で負けた気がする。」
「良い地図だからこそ、活かせるんです。」光秀は淡々と答えた。
「絵描きならすぐ気が付きます。」
「フォローなのかトドメなのか分からん!!」
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訓練場。
与一が火縄銃を磨いているところへ光秀が近づいた。
「この鉄砲、撃たせてもらえますか?」
「えっ、撃つんですか!?」
「撃たなくても、少し見たい。」
光秀は火皿を手に取り、角度を測るように傾けた。
指で蓋を動かしながら言う。
「素晴らしい銃ですね。日の本用に上手く改造されている。
ただ、尾張の火皿は、風が通りすぎる構造ですね。
ここに隙間が多いと、火が風で消えやすい。
美濃では湿気が強いので、もっと低い角度にしています。」
「低い角度?」
「はい。火皿の口を少し寝かせる。風の通りが和らいで、火が安定します。」
与一が恐る恐る火皿を直して、試し撃ちをした。
パンッ――。
風が吹いても、火は消えない。
「うわっ!? ほんとに残ってる!!」
「まじか!? 見ただけで分かるのかよ!!」鉄之助が叫ぶ。
光秀は微笑むだけだった。
「経験です。戦場では“つけ直す時間”が命取りになりますから。」
「……やるなぁ、美濃の浪人。」
「浪人でも、観察はできます。」
「なんかもう悔しいけど納得した……!」藤吉郎が肩をすくめた。
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夜。政務所。
丹羽が報告書を抱え、机に突っ伏している。
梅干しの包みが空になっていた。
「……今日一日で塩分三倍だ。」
藤吉郎が入ってくる。「長秀はん、顔真っ白やで。」
「もう梅干しで血が回らん……。」
「でもな、あの明智はん、ほんまにすごいで。
火も鉄砲も地図も、一発で見抜く。殿、きっと気に入るわ。」
「気に入る……それが一番怖い!!」
そこへ信長が現れた。
「明智十兵衛という男、面白いな。」
「出たー!!!」丹羽が絶叫した。
「実戦に立ち会わせよう。尾張の戦、見せてやれ。」
「殿、それつまり“胃を殺せ”って命令ですよね!?」
信長は笑った。
「梅干しでも食っておけ。」
「もう酸っぱくも感じません!!」
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鍛冶場。
夜の火を前に、鉄之助が光秀を見上げた。
「……こんなにたくさんの知識どうやって覚えたんです?」
「本を読み、見るだけです。」
「見るだけで分かるんですか。」
「見て、考えて、試して。あとは失敗の数です。」
「……失敗の数、か。」
鉄之助がうなずく。
光秀は微笑み、炉の火を一瞥した。
「良い火でした。あの温度なら、刀も折れません。」
「っ……! ありがとうございます。」
「こちらこそ、見事な仕事でした。」
鉄之助の顔がぱっと明るくなる。
その隣で藤吉郎がにやりと笑った。
「鉄坊、初めて素直に褒められたな。」
「うるさいですよ!!」




