第三十九話 兄弟記・付録の地獄(下)
半年。
清洲の風が変わった。
焦げと血の匂いは消え、かわりに墨と汗、そして火の匂いが町を包む。
兄弟記の“付録・地獄篇”――。
信勝が遺したその膨大な書き物は、尾張全土を鍛え直す魔書と化していた。
書庫は学問所となり、訓練場は兵の理の場となる。
町では商人が帳簿片手に学び、農夫までもが“作物の理”を語った。
――尾張が呼吸を始めていた。
まるで、ひとつの巨大な鍛冶場のように。
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天守の一室。
信長は机に向かい、無言で筆を走らせていた。
五百を超える巻物の山。そのすべてに、弟の筆跡がある。
「……弟め、書きすぎだ。」
ぼやきながらも、信長の口元には微笑が浮かぶ。
障子が開き、丹羽長秀が書類を抱えて現れた。
以前よりも痩せ、頬はこけていたが、瞳の奥には確かな光が宿っている。
「殿。各地の年貢高、昨年比で二割増し。
商人たちは南蛮の商を取り込み、銭の流れは三倍。
清洲の町では、昼夜問わず勉学の声が響いております。」
「丹羽……死にかけの顔でよく喋るな。」
「殿のおかげでございます。いえ、“信勝様のせい”と申すべきかと。」
「正しいな。」
二人の間に、疲労と笑いが並んだ。
清洲は静かに、だが確かに生まれ変わりつつあった。
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訓練場では、風が唸る。
前田利家が鋭く声を張り上げる。
「突け! 風を読め! 気を合わせろ、風槍衆!」
整列した槍兵たちが、一糸乱れず突き出す。
槍先が日光を弾き、空を裂くような音を立てた。
利家は額の汗を拭いながら、満足げに頷いた。
「信勝様。“槍は風に従え”……あの教え、やっと形になりました。」
隣では与一が火縄銃を抱えてうなっていた。
「おーい、風と槍はええけど、火縄は風が吹くと消えるんですけどぉ!」
利家が吹き出す。
「風を読め、与一! 吹いた瞬間に点け直せ!」
「点け直せって、どんな無茶振りですか!? おれ人間ですよ!?」
周囲の兵士たちが笑いながら銃を構える。
「おい、また的を馬の後ろに置くなよ! 前回、馬が暴れたろ!」
「誰のせいですか!? あれ、信勝様の馬だったんですよ!?」
訓練場に笑いが広がる。
与一は汗だくになりながらも銃を構え直した。
「よし……今度は、風と火、両方友達になってやる!」
引き金を引く。
轟音と共に、銃弾が風に乗り、的のど真ん中を貫いた。
利家が口笛を鳴らす。
「やるじゃねえか、与一!」
「へっ、あれから半年、火薬の味には慣れました!」
与一は胸を張り、歯を見せて笑った。
――尾張一の“ドジで強い鉄砲兵”。
それが、彼の新しい異名になった。
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一方、勝家の声が訓練場の端で響く。
「馬を恐れるな! 風を読め! 敵より速く、己より強くあれ!」
その号令の下、騎馬隊が矢のように駆け抜ける。
砂煙の中、槍の穂が太陽を切り裂いた。
「……見事だ。」
信長が城壁からその様子を見下ろして呟いた。
「勝家の軍はもはや“力”ではなく、“理”で動いている。」
隣にいた丹羽が頷く。
「理の軍、風の軍、そして火の軍……。
尾張は、弟君の理想通りの姿になりつつあります。」
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城下の一角、商人街では、藤吉郎の声が響いていた。
「――ええか、おぬしたち! 商いは銭を動かすだけやない、人の心を動かすもんや!」
集まった商人たちがどよめく。
「藤吉郎さん、また“心の商い”とか言うて……儲かるんかいな。」
「儲かる! 心が動けば財布も動くんや! 戦の勝ち負けも結局は人の心や!」
藤吉郎は笑いながら、帳簿を開いて見せた。
「信勝様の書に書いてあった。“学は火のごとし。絶やせば闇、燃やせば道”。
なら、商いも火や。燃えんうちは儲からん!」
周囲に笑いが広がる。
「よう言うわ!」「藤吉郎は口だけや!」
「口で天下を取るんや! おれは尾張一の喋り商人になるで!」
笑い声の中で、彼の目だけが真剣だった。
――信勝が遺した「交渉と策の理」。
それを体で覚え始めていたのだ。
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夜。
椿が天守に入ると、信長はまだ筆を取っていた。
机の上には、半年の学びが積み上がっている。
「殿。皆、立派に成長しましたわ。」
椿の声は柔らかいが、どこか誇らしげだった。
「利家は風を掴み、勝家は軍を理で動かす。
与一は火と風を一つにし、藤吉郎は人を動かす。
鉄之助と庄三郎は技を極め、丹羽は国を支え……」
信長が微かに笑う。
「そして、お前は風を繋いだ。」
椿は小さく首を振った。
「私はただ……信勝様の風を伝えただけです。
でも、あの方の教えは、もう殿の中にあります。」
「……ああ。弟の筆が、俺の刃を磨いた。」
信長は光忠を抜いた。
刃が灯に反射し、部屋に淡い光が広がる。
「半年の地獄は、尾張の再生だった。
火は消えぬ。風は止まらぬ。」
椿は微笑む。
「なら、この国はもう大丈夫ですね。」
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夜明け前。
信長は兄弟記の最後の頁を開き、静かに筆を取った。
《兄上。火を絶やさず、風を恐れず、理を持て。》
その下に、新たに記す。
――尾張、再び一つとす。
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その日、清洲の鐘が鳴った。
丹羽が政を整え、
藤吉郎が市を開き、
鉄之助と庄三郎が武具を揃え、
与一が鉄砲隊を率い、
前田と勝家が槍と馬を束ね、
椿がその全てを見守った。
尾張は、火と風と理の国として生まれ変わった。
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天守の上で、信長が光忠を掲げる。
朝日が刃を照らし、風が頬を撫でる。
「――弟よ。お前の教えは生きている。
この火で、この風で、この国を鍛える。」
椿が隣で微笑む。
「殿。信勝様は、きっと笑っています。
あなたが、火と風の真ん中に立っているから。」
信長は頷いた。
「ならば、笑って進もう。」
風が鳴り、鈴が揺れる。
それは、清洲の空に残る“信勝の笑い声”のように響いた。
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その翌日。
藤吉郎が清洲の市場で叫んだ。
「丹羽様ーっ! また変な浪人が地図見せてくれ言うて来ましたーっ!」
――明智光秀、尾張へ。
(つづく)
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