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第三十八話 兄弟記・付録の地獄(上)

 ――兄弟記には、付録があった。


 信長が受け取ったあの夜、椿はもう一つの包みを懐に抱えていた。

 手渡されたのは、兄弟記の“追伸”。


 いや――追伸というにはあまりに重い。

 文束の厚みは椿の腕ほどあり、紐で縛ってもなおはみ出すほどだった。

 題にはこう書かれている。


 「兄弟記・付録――この国を立て直すための地獄篇」


 信勝は笑っていた。

 あの穏やかな微笑のまま、灯明の下で椿に言ったのだ。


 「これは、兄上に渡してくれ。

  でもね――椿、これを読ませたら終わりじゃない。

  “終わらせないように”見張るんだ。

  燃え尽きる火に、風を送り続けるのはお前の役目だ。」


 椿はその夜の笑顔を、今も忘れられなかった。

 あの人の笑みは、どんな祈りよりも静かで強かった。


 そして今――。


 清洲城は、燃えるような静寂に包まれていた。



 机の上、信長は無言で筆を走らせていた。

 その傍らに置かれているのは、信勝の付録。

 表紙の一行目に、こうある。


 《兄上は、まず読むことを怠るな。読まずして天下を掴もうとする者は、砂の上に楼を立てるに等し。》


 信長は苦笑した。

 「……まるで説教じゃな。」


 目の下には隈。唇は乾いている。

 それでも書物を開く手は止まらなかった。


 丹羽長秀が障子を開け、呆れたように頭を下げる。

「殿……もう三日、ろくにお休みを取られておりませぬ。

 読み終えた巻物、すでに三十を超えております。」


「まだ三百ある。」


「はあああああっ!? 三百っ!? そ、それは……」


「“序の口”と書いてある。」


「なにゆえそんな地獄を笑って書けるのですか、信勝様はぁ!」


 丹羽が顔を覆う。

 だが信長は、淡々と新たな巻物を開いた。


「丹羽、各城の蔵から古書を集めよ。地誌・経書・算術書、何でもいい。

 それと、領内の年貢高と商人の売買記録を一月ごとにまとめて出せ。」


「殿、それでは私は……」


「寝る暇がなくなる。」


「仰る通りでございます……!」


 丹羽の背が消えると同時に、信長は筆を止めて呟いた。

「……弟め、俺の息まで鍛える気か。」



 一方その頃――。


 廊下の端では、藤吉郎が巻物の山に埋もれていた。

「《商いの心・全十巻》《交渉の法》《人を動かす言葉》……なんで俺だけ“話術篇”ばっかなんだよぉ! 字が多すぎて喋る暇もねえ!」


 鉄之助が笑う。

「信勝様が言ってました。“お前は口で天下を取る男だから、まずは言葉を磨け”って。」


「その磨き方が拷問だっつの!」


 そこへ椿が姿を現した。

 灯明の光を受けて、彼女の黒髪が金のように輝く。


「ふふ、藤吉郎。筆が止まってるわね?」

 唇の端が艶やかに上がる。

「信勝様の“付録”を怠るのは、弟殺しより重い罪よ。」


「ひ、ひぃっ! そ、そんな言い方しねえでくださいよ! 俺ぁ真面目に読んで……読んでたところで……寝落ちしただけで!」


 椿が微笑んで、指先で頬をつつく。

「なら、目を覚まさせてあげましょうか? ――のろいの鈴で。」


「もう覚めてるッス! すんごい覚めてるッス!!」


 鉄之助が笑いながらも、手元の紙を見つめる。

「俺の課題は《兵と鉄の理》。信勝様が残した“戦場における鍛冶の心得”……これ、哲学書じゃないですか。」


「読むのよ。」椿が言った。

「信勝様は、刀の火を“心の鏡”と呼んでた。

 人の心を知らずに鉄を打てば、刃は折れる。

 ……鉄之助。あなたの火は、まだ若いわ。」


 鉄之助は真剣に頷く。

「若いなら、打ち続けて強くなります。」


「それでいい。」

 椿の声は甘く、それでいて凛としていた。

 「この国の刃は、あなたたちが打ち直すのよ。」



 その頃、訓練場。

 前田利家と柴田勝家は、槍を構えていた。

 足元には汗、頭上には太陽、そして巻物。


「戦の“理”を覚えよ、だと? 信勝様め、戦場を算盤で測るつもりか。」

 勝家がぼやく。


「理を知らぬ槍は、ただの棒だとよ。」利家が笑う。

「ほら、兄貴。風を読め。風の向きを槍の延長に感じるんだと。」


「そんなことが出来るか!」


「やってみなって。ほら、軽く構えて――風が左から来る。槍をほんの指一本ぶん寝かせろ。」


 勝家は半信半疑で構えを直す。

 ひと突き。


 空気が鳴り、木の的が真ん中から裂けた。


 勝家が目を見開く。

「……理屈の分からぬ理とは、こういうことか。」

「だろ? 兄貴も“風と仲良く”なりゃ、もっと強くなるぜ。」


 そこに与一がやってきた。背には火縄銃。

「俺の課題、鉄砲と槍の“合一”だってよ。火と風を同じに扱えって書いてある。……無茶言うよなぁ。」


「それ、やれたら化け物だぜ。」利家が笑う。

「だからやるんだろ?」与一は銃口を空に向けた。

「信勝様は、“鉄は人を選ぶ”って言ってた。なら、選ばれるまで握ってやる。」


 勝家は満足げに頷く。

「いい心だ。――我らの信勝様は、死してなお軍を動かす。」



 夕暮れ。

 城の廊下を椿が歩く。鈴の音がひとつ鳴るたび、怠け者が背筋を伸ばした。


 廊下の隅では庄三郎が火薬の分量を測っている。

 「《火を制す書・四巻》……お、おれこれ理解できんのか?」


 椿が覗き込み、優しく微笑む。

「できるわ。あなたは“火を恐れない人”だから。

 信勝様があなたに書き残してた。“火を愛する者が、火に焼かれぬ世をつくれ”って。」


「……そんな難しいこと、俺にできるのか。」


「できるわ。信勝様が信じたんだもの。――あとは、あなたが信じるだけ。」


 椿の笑みは妖しくも優しい。

 庄三郎は深く息を吸い、火薬壺を持ち直した。

 「……やってやるさ。」



 そして、夜。


 信長の部屋には灯明がいくつも灯っていた。

 机の上は山のような書物と巻物。

 その中心に、付録の一節。


 《この学びを半年続けよ。学び終えたとき、尾張は新たな形を持つ。》


 信長はその一行を見つめ、ぽつりと呟いた。

「半年か……長いな。」


 背後から鈴の音。

 椿が入ってきた。

「殿。みんな、命を削って励んでますわ。」


「見ていたか。」


「ええ。与一は銃と槍の呼吸を合わせようとしてた。

 前田と勝家は風を斬る稽古。

 藤吉郎は寝ながら南蛮書を暗唱してた。

 鉄之助は……あの子、炎に向かって呟いてました。“火は理を映す鏡”って。」


 信長は筆を置き、微かに笑う。

「弟の風が、まだこの城を吹いているようだ。」


「その風が消えぬように、私が見張ります。

 サボる者には、少し“祈り”を。」


「呪いではないのか?」


「祈りと呪いは、同じものですよ、殿。」


 椿が笑うと、鈴が揺れた。

 その音は不思議と柔らかく、しかし確かに胸の奥を震わせた。



 半年に及ぶ地獄の始まり――。


 藤吉郎は言葉を覚え、

 鉄之助は火の理を悟り、

 与一は火と風を操り、

 前田と勝家は風の武を掴み、

 庄三郎は火薬の理を極め、

 丹羽は胃薬を抱えながら政を回した。


 そして椿は、その全員を見守り、

 時に笑い、時に呪い、時に涙した。


 信長は天守に立ち、夜の城下を見下ろす。


「信勝……お前の“付録”は、まるで鍛冶場だ。

 火にかけられ、叩かれ、削がれて――皆、光ってきた。」


 風が吹いた。

 その風は、まるで弟の笑みのように穏やかだった。


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【次回更新】明日17時予定!

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