第三十七話 兄弟記・終章
シリアスな回ですので、苦手な方は飛ばしてください。
清洲城・奥御座
稲生の戦いから、二日後。
信勝は白衣のまま、静かに座していた。
傷は浅い。痛むのは身体ではなく、胸の奥だった。
障子の外では、丹羽長秀と柴田勝家の声が交わる。
「殿は、信勝様の処遇をどうなさるおつもりか」
「結論を急がれぬ。……ただ、情に流されてもおられぬ」
勝家は唇を噛み、目を伏せた。
泥と涙の跡が、そのまま頬に残っている。
(――生きろ。死ぬな。お前が生きていれば、兄上は人を殺さずに済む)
信勝が戦場で告げた最後の命令が、まだ耳の奥で響いていた。
やがて、障子が音もなく開く。
黒羽織の信長が入った。甲冑はなく、背に炎ではなく深い影を背負っている。
「……兄上」
信勝が立ち上がろうとした瞬間、信長が手で制した。
「いい。そのままでよい」
短い沈黙。視線だけが交わる。
信長は丹羽を一歩だけ振り返った。
「長秀、見届けよ」
「はっ」
信長は正面に座し、言葉を絞り出した。
「――信勝。今回の一切、そなたの罪には問わぬ。
扇動の老臣、外の尾張衆の暴走、こちらを咎とする。
そなたは、俺の弟だ。赦す」
控えていた勝家が、思わず床に額を打ちつけた。
「御寛恕……痛み入ります!」
信勝は静かに目を伏せ、そして顔を上げた。
「兄上……」
信長は続ける。
「処断は俺が受け持つ。だが、むやみに血は流さぬ。
家を乱した首謀のみ厳しく改易し、兵は赦す。
勝家。お前は謹慎。身を清め、家を保て」
「ははっ! 必ずや、ご恩に報じます!」
儀としての赦しは、ここで終わった。
丹羽が小さく息を吐く。張っていた糸が、わずかに緩む。
信長が立ちかけ――ふと、振り返る。
「……二人きりで話そう」
丹羽と勝家が下がる。障子が閉まり、
部屋には、兄弟だけが残った。
灯明が二つ。
その揺らめきが、兄弟の影を畳に落としている。
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信長はしばらく黙っていたが、
やがて深く息を吸い、低く言った。
「……信勝。俺は、赦す。どんなことがあっても、お前を見限ることはしない」
信勝が顔を上げる。
信長の瞳はまっすぐに彼を射抜いていた。
「お前の戦は、俺を責めるためではなく、尾張を守るためのものだ。
その想いを、俺が気付かないはずがない」
言葉は強かったが、声は震えていた。
信勝は、ほんの少し笑った。
「……兄上らしいな。赦して、背負って、それでも自分を責める」
「それで構わん。俺はお前を守る。
尾張を割ったのは、外の輩と、老臣どもの慢心だ。
裁くのは俺だ。お前ではない」
「兄上……」
信勝は静かに首を振った。
「ですが、それではケジメがつきません。
私は戦を起こした“名”の上に座っている。
そのまま赦されては、尾張に筋が通らない。
けれど――」
彼は目を伏せ、静かに息を整えた。
「――兄上がそうおっしゃるなら、今は受け取ります。
この赦しは、私の務めを果たすための“猶予”といたしましょう」
信長が一歩、近づく。
「信勝……」
「兄上、どうか顔を上げてください」
信勝の声は不思議なほど穏やかだった。
「兄上がいる限り、尾張は一つになります。
私はただ、その通り道を整えるだけです」
「……お前は、火の中に入っても微笑むのか」
「鍛冶の火を見てきました」
信勝は穏やかに笑う。
「火は、燃えている時より、消える直前のほうが澄んで見えるんです。
兄上の火は、これから本当に燃える。
だから私は、その風になります」
信長は何も言えなかった。
胸の奥で、固いものがほどけていく音がした。
二人の間を、静かな風が抜けていく。
それは、戦の夜にはなかった優しい風だった。
「……生きろ、信勝」
信勝はうなずき、微笑んだ。
「ええ。兄上のために」
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夜更け
信勝は一人、筆を取った。
白紙に向かい、墨を含ませる。
筆の動きに、迷いはなかった。
その筆跡は、戦よりも穏やかで、まるで祈りのようだった。
書き終えた手紙を折り畳み、
障子の外に立っていた椿にそっと渡した。
「これを……殿に」
「“兄弟記”の続きです。
兄上が読む時には、きっと尾張の風も変わっているでしょう」
椿は受け取り、微笑んだ。
「……あなたの風は、きっと届く」
「ええ。兄上なら、必ず叶えてくださいます」
灯明の火が、最後のひと揺れを見せた。
その光の中で、信勝の横顔は、もう何の迷いもなく澄み切っていた。
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夜明け前の清洲
霧が白く立ちこめ、城下をやわらかく包んでいた。
瓦の上に露が光り、遠くで鳥が鳴く。
椿は白布を羽織り、静かに廊下を進んでいた。
懐には、一通の手紙。
封には墨で、ただひと文字――「兄上」。
歩みのたびに鈴が小さく鳴り、
まだ眠る城の空気に溶けていく。
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書院
信長はまだ眠っていなかった。
灯明の火が細く揺れ、筆は途中で止まったままだ。
「……椿か」
顔を上げるより先に、声でわかった。
「はい。信勝さまから、これを」
椿は膝をつき、両手で手紙を差し出す。
封の「兄上」の字を見た瞬間、信長の指がわずかに震えた。
静かに封を切る。
墨の香がふわりと立ちのぼり、まだ温もりを帯びていた。
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手紙:兄弟記の続き
――兄上へ
ここに、兄弟記の続きを記します。
兄上は、この戦に加わった兵たち、そして柴田勝家を赦し、
忠義を恐れず尽くせる者たちを従えます。
兄上は、うつけの仮面を外し、尾張をひとつにまとめます。
私はその政の端に置かれ、しばし静かに閉居いたします。
それでよいのです。兄上が前へ進むためには、
古き血の結びを一度断たねばなりません。
やがて、時が過ぎれば――
再び、尾張の外と内から、影が寄るでしょう。
そのとき、兄上は私に疑いの刃を向けることになります。
どうか迷わず、斬ってください。
それは、この国を守るために必要な“理”です。
兄上は、どんな裏切りにも、どんな仕打ちにも、
心を迷わされずに進みます。
この世の悪を断つために、情を超える強さを持ち、
この国を変える人です。
古いものを壊し、新しい秩序を築きます。
兄上は、誰よりも強く、
そして民に対して誰よりも優しい未来をつくり、
父と私の願いを叶えてくださいます。
最後に――
兄上の弟であれたことを、私は心から誇りに思います。
兄上の天下の礎となれるのなら、それで十分です。
――弟・信勝
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信長は手紙を胸に押し当てた。
墨の香が、まるで弟の息遣いのように残る。
「……信勝。お前は、最後まで俺を導くのか」
灯明の炎が小さく揺れた。
信長は立ち上がり、障子を開け放つ。
朝霧が流れ込み、
東の空が白みはじめていた。
「信勝。お前の願い、確かに受け取った」
椿が静かに目を伏せる。
「殿……あの方は、穏やかでした。
言葉ではなく、静けさで、すべてを伝えた方です」
信長の拳が震えた。
「……穏やか、か。そんな顔を俺に見せて、ひとりで決めたのか」
椿は涙をこらえながら首を振る。
「いいえ。あの方は“風に消える”とおっしゃいました。
形を失っても、兄上のもとで息づくのだと。
それが、最後の願いでした」
信長は膝の上で拳を握りしめた。
「……俺は、そんな風など望んでいない。
生きて、叱って、また笑い合いたかっただけだ」
椿はそっと微笑んだ。
「殿。それでも、あの方は笑って去りました。
だからこそ、その笑みを裏切らないでください」
信長は何も言わず、ただ頷いた。
光忠の鞘が、かすかに鳴いた。
まるで弟の返事のように。
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そして――
清洲は、しばらく沈黙に包まれた。
信長は政を執ることも少なく、
ひと月のあいだ、誰にも会わずに籠もったという。
椿だけが、毎朝、灯明の火を絶やさず、
静かにその部屋の空気を保った。
やがて春が過ぎ、信長は再び筆を取った。
最初に記した言葉は――
「尾張、再び一つとす」
それからの彼は、まるで別人のように歩み出した。
うつけを脱ぎ、鋭く、静かに、天下の礎を築いていく。
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天守の上、朝日を浴びながら、
信長は尾張の空を見渡した。
「……見ているか、信勝」
手にした光忠が、陽を反射してきらめく。
「お前の言葉が、俺の刃をまっすぐにする。
その願いで、この国の形を整える」
その声が、静かな空に吸い込まれていく。
椿が後ろで微笑んだ。
「殿。あの方はきっと笑っています。
朝のどこかで、同じ空を見上げながら」
信長はうなずいた。
「ならば、俺も笑おう。
兄弟記は、まだ終わらん」
朝日が清洲の城壁を照らし、
瓦が金色に染まっていく。
尾張の空に、静かな約束だけが残った。




