第三十六話 稲生の戦い(1556年)2
稲生の丘を、泥が流れていた。
午後の雨がまた強まり、地面は滑り、足音が吸い込まれていく。
「右、崩れます!」「左、もう持ちません!」
伝令の声が次々に飛び込む。
信勝は座したまま、首だけを上げた。
「――列を崩すな。交代を細かく。傷兵は後ろへ。死なせるな」
声は低いが、陣中の誰より通った。
「しかし殿! 兵は我らが上――今こそ押し返せます!」
老臣のひとりが前に出る。
「勝家殿が中央を抑えております。突くなら今――」
「……数だけで勝てるなら、戦は要らぬ」
信勝は短く息を吐く。
「退けぬ戦こそ、いちど退くべき時がある」
老臣は口を噤んだ。雨音だけが幕を打つ。
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中央。
勝家が槍を振り、泥の中で踏みとどまっていた。
「柄を合わせろ! 足を止めるな!」
「前列、膝を落とせ! 後列、押せぇ!」
二列半の槍衾。
束ねた穂先が、押し寄せる清洲勢をわずかに押し返す。
「この杭、抜かせるなッ!」
前列がよろめくや、勝家は自ら槍を取り替え、空白を埋める。
「持て! ここで折れたら殿が討たれる!」
叱声に、兵の目に光が戻る。
中央――二十歩。勝家隊が地を奪い返した。
「勝家様が立て直した!」
「中央、まだ持つ!」
その声が広がったのも、つかの間だった。
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左翼。
老臣らが功名を焦り、勝手に前へ出た。
「押し返せぇ!」「今こそ名を上げる時だ!」
ぬかるみを踏み抜いた瞬間、横合いから清洲勢の槍が差し込む。
突撃は半ばで止まり、列がほどけた。
「右へ回れ! 抜けたぞ!」
「与一、突けぇ!」
前田と与一の突入が左側面に走り、列は一気に砕ける。
泥と血が跳ね、逃げ戻る兵が後方を詰まらせた。
「退け! 並べ! まだ折れん!」
勝家の声は届くが、崩れは波のように広がる。
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信勝は太鼓の拍を保たせながら、全体を見た。
(右は三刻で交代、左は――持たぬな)
「右、三刻で替え。左は勝家に兵を回せ。中央の列は崩すな」
「殿! 勝家殿、孤立しかけます!」
「構わぬ。中央を支えよ。それでいい」
「しかし、このままでは――」
「――退くのも戦だ」
短い指示が、規律だけを保たせた。
だが兵の顔には、疲れが濃い。
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夕刻。
雨はやみ、空が紫に沈む。
旗は折れ、声も細る。
それでも中央だけは、勝家の槍列が前を向いていた。
「……あれが最後の杭だ」
信勝は空を見上げ、拳を握る。
「――ここは持つ。問題は、この先だ」
誰に向けたでもない一言。
勝家の背が、応えるようにひと揺れした。
泥の中で、残った旗がかすかに揺れる。
戦は、終わりの形を取り始めていた。
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清洲本陣。
信長は膝に一本の刀を置いていた。古備前・光忠。
弟が清洲に残していった“忘れ物”。
刃に灯が揺れる。
信長は刀を包み、振り向く。
「――椿」
「なに、殿さま」
「これを返せ。“忘れ物だ”と伝えろ。命は張るな。白布を高く掲げろ」
椿は無言で頷き、刀を受け取る。
白布を掲げて幕を出ると、陣が一瞬静まった。
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戦場。
前田・与一は右の溝道から柵を崩し、藤吉郎は側背から押し上げる。
若い声がうねるその間を、白布がまっすぐ進んだ。
「渡り巫女だ! 矢を止めろ!」
声が飛び、道が開く。鈴が小さく鳴る。
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信勝本陣。
泥に汚れた鎧の肩、頬には血の筋。
それでも、瞳は澄んでいる。
「信勝さま。清洲より“渡り巫女”」
椿が入り、刀を差し出した。
「信勝。――“忘れ物”を返しに来た」
信勝は鞘を撫で、刃を少し抜き、また納めた。
「……兄上らしい。言葉は少ないのに、心だけは重い」
「“まだ形見にする気はない”って」
椿が目を細める。
「怒ってる顔して、ほんとは優しいんだから」
信勝は短く笑みを見せる。
「椿。“忘れ物、確かに受け取った。形見にはしない。生きて兄上に返しに行く”と伝えてくれ」
「うん。きっと、あの人、嬉しそうに怒るよ」
外から勝家の声。
「信勝さま、中央、限界です!」
「いい。退くなとは言わぬ。だが、兵を死なせるな」
信勝は袖を裂いた白布を椿の腕に巻く。
「道はお前が通すんだ」
椿は頷いた。
太鼓が三度、そして一度――退きの合図。
陣が静かに息を止める。
「兄上に伝えてくれ。“兄弟記は、まだ続いている”とな」
「うん、約束する」
白布が風を受け、鈴が鳴った。
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清洲本陣。
追撃に移ろうとした兵を、信長の一声が止めた。
「やめよ」
丘の上から、白布と退いていく弟の列を見送り、
信長は小さく呟く。
「……形見にするには、まだ早い」
光忠の鞘が、わずかに鳴った。
やがて椿が戻る。裾は泥、腕には白布の跡。
「渡した。“生きて返す”って」
信長は頷いた。
「……あいつらしい」
「“兄弟記は、まだ続いてる”ってさ」
信長の喉が一度だけ動いた。言葉は出ない。
刃がひとつ、鳴った。
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信長は丹羽を呼ぶ。
「使者を立てる。弟に伝えよ――『これ以上の血は要らぬ。兵を退け。命は取らぬ』」
「はっ」
丹羽の使いはすぐに信勝陣へ。
勝家が殿を務め、最後の兵を守っている。
「殿(信長)より。『尾張を乱すな。命は取らぬ』」
丹羽の言葉に、勝家は深く頭を下げた。
信勝は短く息を吐く。
「……兄上らしい。勝っても誇らず、負けても責めぬ」
「――分かった。兵を退かせろ。これ以上は尾張の恥だ」
誰も声を上げない。
武具を収め、焚き火に火が入る。
ようやく、戦場に人の息が戻った。
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夜。
丹羽が清洲本陣に戻り、膝をつく。
「信勝様、降伏を受け入れ。兵の撤収、始まっております」
「そうか」
外の風はもう温かい。雨の匂いだけが残る。
「戦は終わりだね」椿。
「いや。ここからが始まりだ」信長。
「弟を討たずに済んだ。父上の願いは、まだ生きている」
椿は白布を握り、鈴の音を小さく鳴らした。
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翌朝。
折れた槍と旗だけが泥に半ば埋もれ、陽を浴びていた。
藤吉郎は巻き上げた地図を抱え、与一と前田と並んで歩く。
「終わったな」
「……長い一日だった」
清洲へ戻る列の背に、金色の朝日が差す。
こうして――稲生の戦は終わった。
尾張は再びひとつに戻り、丘には静かな風が吹いた。
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