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第三十五話 稲生の戦い(1556年)

弘治二年(1556年)七月十二日。


尾張の空に、薄い靄がかかっていた。

夜明けと同時に狼煙が立ち上がる。


清洲と稲生――わずか三里の丘陵を隔て、

二つの織田の旗が向かい合った。


――兄と弟。

尾張の行く末を分ける戦の始まりだった。



発端は、ほんの小さな綻びにすぎなかった。


父・織田信秀の死から一年。

家中の古参たちは、新たな主・信長のやり方に反発を隠さなかった。


「うつけの若殿に尾張は任せられぬ」


そう囁く声が、一人、また一人と、

弟・信勝のもとへ集まっていった。


信勝は何度も諫めた。

「兄上に弓を引くな」と。


だが、周囲の者たちは聞く耳を持たず――

「兄上を正すのは弟の役目」と言い出し、ついに兵が動いた。



清洲に報せが届いたのは、三日前の夜。


信長は灯明を見つめ、長く黙し、

やがて低く呟いた。


「……尾張を二つに割る愚だけは、許せぬ」


その夜、清洲の天守に黒煙が昇る。

出陣の合図だった。


稲生の丘にも応じる狼煙が上がり、

尾張は今、兄弟の旗で裂かれた。



稲生の丘を、湿った風が渡る。


昨夜の雨が地を重くし、草の根がぬかるみに沈んでいた。

谷を覆う朝霧の中で、兵たちの息が白く漂う。


「狼煙三つ確認! 敵は丘の北に布陣!」


物見の報に、丹羽長秀が頷いた。


「南の高台に信長様、中央に前田。

 右手の溝道に藤吉郎小隊。後衛は鉄砲衆と鉄之助たち。理にかなっております」


信長は地図を覗き込み、短く問う。


「敵の構えは?」


「信勝様は北の丘に本陣、勝家殿が後衛。

 老臣らが先陣――勝ちを急いでおります」


信長は静かに目を細めた。


「古き者ほど血が熱い。

 だが、熱すぎれば火はすぐ尽きる」



その横で、藤吉郎が布地図を広げていた。


粗布に墨で描かれた線は、丘の起伏、ぬかるみ、湿地の範囲、

風向きまでも記してある。



「殿、この溝道がええと思いますわ。

 昨夜の雨で足は取られますけど、ここ抜けたら敵の横っ腹がガラ空きです」


与一が首をかしげる。


「おい藤吉郎、お前の地図、字が多すぎる。“ぬかるみ注意”“転ぶな”って書いてあるぞ」


「読めたらええやろ、役に立つんや!」


藤吉郎が指を叩くように示す。


「お前と俺で十人ずつや。泥に足取られた敵を突く。

 鉄之助は援護に回ってや。火縄隊が来る前に片付けるで!」


鉄之助は苦笑して筆を取り、地図の端に書き足す。


「“転んだら起こす役:与一”」


「やめてくれや」


「似合うけどな」


「からかうなや、ほんま」


兵たちの間に小さな笑いが走る。



「右手! 湿地を突けぇぇッ!!」

藤吉郎の声が響く。


泥の溝道を、十人二十人と滑るように進む。


背後で与一が、泥に埋まった兵の腕を掴み引き上げた。


「焦るな! 踏み場を探せ!」


「沈んだ!」「置いてくな!」


「足を残していくな、アホ!」


笑い声と怒号が入り混じる中、

藤吉郎が前へ出た。


「見ぃ! ここからやったら敵の横っ腹が丸見えや!」


「……お前の字はもう泥で読めねえけどな!」


「覚えてるからええんや!」



「……古い戦やなぁ」

藤吉郎が呟くと、与一が笑う。


「こっちは若い分、軽ぇんだよ!」


「ほな、突けぇぇ!!」



「押せぇッ! もうちょいで丘の中腹や!」


藤吉郎が声を上げ、与一が泥を払う。


「その顔じゃもう限界やぞ!」


「鉄之助、火薬は!」


「あと一筒!」


「使い切れ! 泥ごと焼いたれぇ!!」


兵たちの間に小さな笑いが走る。

その笑いが、霧を少しだけ薄くしたようだった。


信長はその空気を見て、口元をわずかに緩めた。


「戦の前に笑える者が勝つ。気を抜くなよ、三人とも」


「はっ!」


三人の声がそろう。


丹羽が小さく息を吐いた。


「……殿。若い者がいるうちは、家はまだ倒れませぬな」


「そうだな。風は、まだ止んでおらぬ」



信長は馬に跨がり、陣の外へ出た。


湿気を含んだ風が髷を揺らし、鎧の継ぎ目を鳴らす。

兵たちは整列し、太鼓の初打を待っていた。


信長は全軍を見渡し、声を放つ。


「敵は我が弟、織田信勝。

 だが、討つために来たのではない。尾張を守るためだ。


 誇りを失うな。

 刃は人を斬るためにあるが、腐った欲を断つために振るえ!」


沈黙。


そして、太鼓が三度鳴る。


「出陣――!!」


旗が一斉に翻り、槍の列が波打つ。

藤吉郎小隊が前田隊の影にぴたりとつき、右の溝道へ。


与一が短槍を掲げ、泥を蹴って先行する。


「転ぶなよ!」


「お前こそ!」


泥の飛沫が霧を切り裂き、笑い声が戦場にこだまする。


鉄之助は後方で火縄を灯し、静かに呟いた。


「……行け、藤吉郎。あの地図、燃やすなよ」



稲生の丘が、うなりを上げた。


太鼓の音が止むより早く、兵が駆け出す。

矢が飛び、槍の穂先が光を散らす。


「右手! 湿地を突け!」

藤吉郎の声が響く。


泥の溝道を、十人二十人と滑るように進む。


背後で与一が、泥に埋まった兵の腕を掴み引き上げた。


「焦るな! 踏み場を探せ!」


「沈んだ!」「置いてくな!」


「足を残していくな馬鹿!」


笑い声と怒号が入り混じる中、

藤吉郎が前へ出た。


「見ろ! ここからなら敵の側面が丸見えだ!」


「……お前の字はもう泥で読めねえけどな!」


「覚えてるからいいんだ!」



彼らの前に広がるのは、信勝軍の先鋒――

鎧の古い老臣たちの列。


その動きは重く、まるで鉄塊のようだった。


「……古い戦だな」


藤吉郎が呟くと、与一が笑う。


「こっちは若い分、軽ぇんだよ!」


「突けぇぇッ!!!」


若い足軽たちが一斉に飛び出し、槍が鎧を貫く。

火花が散り、泥が跳ね上がる。


「押せぇッ!」前田利家の声が中央から響く。

「若いもん、死ぬ気で踏ん張れ!」


利家の兜の角が陽を受け、金の閃光を放った。



後方では鉄砲隊が構えていた。


「火縄つけ! 湿気を恐れるな、風を呼べ!」


丹羽の声に、鉄之助が応じる。


火縄を胸に押し当て、息を吹きかける。


「……寝るなよ」


小さな火が、じわりと赤く灯る。


庄三郎が弾を込め、肩越しに笑った。


「お前の火、すぐ怒るな」


「俺に似たんだよ」


「なら長持ちさせろ」


「心得た!」


「距離五十間、柵の向こうを狙え!」


「撃てぇぇ!!」


閃光、轟音、白煙。


湿った空気を裂くように硝煙が漂い、

盾列が崩れた。


庄三郎の声が重なる。


「再装填! 焦るな、焦らず早く!」


鉄之助の指は確かに動いていた。


だが、耳に届くのは鉄ではなく“呻き”の音。


(……火を点けたのは、俺だ)


胸に重さが沈む。

だが、手は止まらない。


丹羽が肩を叩いた。


「お前の火は正しい。命を奪うためではない。

 殿の刃を鈍らせぬための火だ」


鉄之助は小さく頷いた。

「……はい」



中央では利家が泥を蹴り上げ、声を張る。


「押せ! 退くな!」


与一が背後で敵の槍を弾き、蹴り飛ばす。


「退いたら尾張が泣くぞ!」


「泣かせるな!」藤吉郎が叫び返す。


湿地を抜け、丘の中腹へ。

若い列が、じりじりと押し上げていく。



高台の信長本陣。


丹羽が息を呑んだ。


「藤吉郎、与一、鉄之助……皆、生きて押しておる」


信長はわずかに頷く。


「“生きている”では足りぬ。“生かしている”のだ」


「戦の最中に“生かす”など、諸将は情けと笑いましょう」


「情けで家は立たぬ。

 だが、情けのない家は続かぬ」


信長は光忠の鞘に手を置いた。


「俺はまだ、弟の刃を折るつもりはない」


丹羽はその言葉に一礼した。


「殿……覚悟のほど、恐れ入りました」


「折る時は来る。

 だが今ではない。


 弟の情が、まだ尾張を支えている」



戦場の泥が、再び波打った。


「押せぇッ! もう少しで丘の中腹!」


藤吉郎が声を上げ、与一が泥を払う。


「その顔じゃもう限界だ!」


「鉄之助、火薬は!」


「あと一筒!」


「使い切れ! 泥ごと焼け!」


轟音が再び響き、

白煙が風に裂かれて立ち上る。


丹羽が目を細める。


「この勢い……押し切れますな」


信長は静かに首を振った。


「まだだ。弟はここで退かぬ。勝家がいる」


その時、丘の向こうから別の太鼓。


北の旗が一斉に揺れた。


陣形が締まり、反撃の兆し。


信長は小さく呟く。


「――ここからは、あいつの番だ」


風が吹く。

光忠の鞘が、かすかに鳴った。


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