第三十四話 測量の才
弘治二年(1556)六月。
稲生の戦を前にした清洲の夜明け。
まだ鶏も鳴かぬ時刻、湿った風の中で、ひとりの小男が地面に這いつくばっていた。
「おい、また泥に顔突っ込んどるぞ、藤吉郎!」
声を上げたのは丹羽長秀。
彼の眼前では、木下藤吉郎が鼻の頭まで泥だらけになりながら、縄を伸ばしては杭を打っていた。
「へへっ、殿の命令でな、ここから丘の傾きまで測っとるんですわ。泥くらい喰わんと、戦は勝てまへん」
「お前なあ……普通の兵なら夜明けに刀研ぐわ。なんで地面撫でとる」
「地を知らずして戦はできまへんやろ? この坂、見た目より二度急ですわ。雨ん時は兵が滑るで」
藤吉郎はそう言って、墨縄を引き、草を分けながら印をつけていく。
腰には筆と板札。そこにすばやく線を走らせた。
線はただの道ではない。丘の傾斜、水の流れ、ぬかるみの範囲――まるで地面が紙に写し取られていくようだった。
「……私が知ってる地図とは別物だ、これは」
丹羽は呟いた。
この時代、地図(絵図)といえば、寺社と川と道を“記号”で描いただけのものだ。
方位も距離も曖昧、山は雲に包まれ、川は蛇のようにうねる。
だが、藤吉郎の描くそれは、線が生きていた。現実の地形そのものをなぞるように、正確で、息づいていた。
「ふん、こいつ……職人の仕事だな」
「知り合いの見よう見まねですが、やってることの意味さえ理解できれば、どんな職人にもなれまっせ」
藤吉郎はにかっと笑い、木の枝で角度を測る。
「でも、戦場は火床と同じです。どこが熱うて、どこが冷えとるか。それを判断するのにはこれくらい細かな地図は必要ですやろ」
丹羽の眉が動いた。
“熱”と“地”を重ねる発想――彼は、思わずある鍛冶屋の少年を思い出していた。
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その日の午後、清洲城の軍議。
広間の中央には、藤吉郎の描いた地図が広げられていた。
「これが稲生か」
信長は低く呟き、膝をついた。
紙の上には丘陵と谷筋、湿地と林が、まるで見下ろすように描かれている。
地の高さが線の濃淡で示され、斜面の向きさえ一目でわかる。
「……これは絵図ではないな」
丹羽が唸る。
「まるで鳥の目で見たようだ。距離も、角度も、狂いがない」
前田利家が身を乗り出した。
「殿、これならどこに伏兵置いても丸わかりですよ! 敵がどこに来るかも、地の形で読める!」
信長は黙って頷いた。
紙の上を指でなぞり、谷の影に触れるように指を止める。
「……この影に、敵は隠れる。ここで迎え撃つ。」
わずかな沈黙。
その空気に、藤吉郎は思わず背筋を伸ばした。
彼の地図が、初めて“戦の道具”になった瞬間だった。
⸻
数日後、鍛冶場では鉄之助たちが矢じりを整えていた。
熱を抜いた鉄の冷たさが、指先を刺す。
「兄上、これで百二十本目ですよ」
庄三郎が汗を拭うと、与一が口笛を吹いた。
「すげえな。戦ってのは、準備だけで骨が折れるぜ」
「でもな」鉄之助は火を見つめながら言った。
「戦ってのは、刀より“地”が勝負だ。……藤吉郎がそう言ってた」
与一が目を丸くした。
「あの泥んこ兄ちゃんがか?」
鉄之助は頷き、工房の机の上に置かれた紙を広げた。
藤吉郎の地図――丹羽が参考にと貸してくれた写しだ。
山の線は緩やかに、川は正確な角度で曲がっている。
まるで生きているような線。
だが、鉄之助は少し首を傾げた。
「……すごいけど、これじゃあ、どのくらい歩くのか、わかんないな」
「歩く?」庄三郎が聞き返す。
「ああ。たとえばここからこの丘まで、徒歩でどれくらいか。
俺は遅いから十町(約1km)で十五分、与一なら八分だろ?」
「なんでそんなこと考える」
「そりゃ戦は歩くもんだろ? どこで誰が間に合うかわかんなきゃ、戦略なんて考えられないでしょ」
庄三郎は腕を組み、にやりと笑った。
「……面白い。じゃあ書いてみろ。」
鉄之助は筆をとり、地図の端に小さく書き込んだ。
“徒歩一〇分=約三〇〇間(約五〇〇m)”
さらに“歩兵・弓兵・荷車”の違いまで矢印で示す。
与一が覗き込み、首をかしげた。
「なんだこりゃ、落書きか?」
「いや、“歩の地図”だ」庄三郎が言った。
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その日の午後、鉄之助からその地図を受け取った丹羽長秀は、目を見開いた。
「これは……距離ではなく、時を測る地図か」
「はい」鉄之助は頭を下げた。
「夜や雨の時でも、どの部隊の兵がどのくらいで動けるか、ひと目でわかります」
藤吉郎が横で驚いた顔をする。
「兄貴分たち、えらいもん考えますな……わしも負けてられへん!」
丹羽は地図を畳み、急ぎ城へと戻った。
「殿に見せる。……お前ら、本当に鉄を打つだけの奴らか?」
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信長は小さく笑い、紙の端を指で叩いた。
「藤吉郎。この図を元に、尾張中の道を測れ。
城も、谷も、村も、すべてだ。
丹羽、手を貸せ。……この国の“形”を、掴む。」
その言葉に、部屋の空気が凍った。
丹羽は一瞬、息を呑み――次の瞬間、腰を抜かすように尻もちをついた。
「なっ……尾張“全部”!? 殿、それは……何年かかると思われますか!」
信長は静かに笑う。
「十年かかろうが構わぬ。だが“形”を知らぬままでは、国は掴めぬ。」
丹羽は額の汗をぬぐい、苦笑した。
「……殿の申すことは、いつも途方もない。だが、やるしかありますまいな」
信長が丹羽に目をやる。
「まずは戦が起こりそうな要地からでいい。美濃境、知多、そして熱田の丘――そこから始めよ。」
藤吉郎が口を開く。
「ほっ……助かった! まさか尾張ぜんぶ描け言われるとは……腰抜かすとこでしたわ!」
丹羽が横目で藤吉郎を睨み、ため息をつく。
「……抜かしておけ。どうせお前が一番はしゃぐくせにな」
信長は笑みを浮かべ、ふたりのやり取りを見つめた。
「よい。お前たちのような“はしゃぐ者”が、この国を動かすのだ。」
⸻
その夜、鍛冶場に戻った鉄之助たちは、炉の火を見つめていた。
火花が跳ね、壁に影を描く。
「兄上、殿はなんて?」
「尾張中の地を描け、だとさ」庄三郎が答える。
「藤吉郎が頼まれたらしい」
与一が口笛を吹く。
「すげえな、あの泥まみれ兄ちゃん」
鉄之助は火を見つめ、ぽつりと言った。
「……兄弟も、地図みたいなもんだよな。
同じ土に立っても、見る角度でまるで違う。」
火床の奥で、炎がふっと揺れた。
光忠の声が、どこか誇らしげに響く。
『坊主。お前ら、鉄より固ぇもんを打ったな。』
鉄之助は静かに頷いた。
――その地図が、のちに“天下布武”の礎となることを、この時まだ誰も知らない。
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【次回更新】明日17時予定!




