第三十三話 朽ちる陣
弘治二年(1556)六月。
末森城の夜は、熱と酒の匂いで重くなっていた。
大広間では、老臣たちが盃を打ち鳴らし、笑い声を上げる。
この日、岩倉の織田信安と斯波の名代から銭と鉄が届いた。
誰もが勝利を疑わず、勝ち鬨の練習まで始めている。
「殿、兵は三千五百を越えましたぞ。清洲の信長勢なぞ二千ばかり、踏み潰せますわ!」
「ははっ、“うつけ”に世の道理を教えてやろうぞ!」
杯が重なるたび、空気は甘く濁った。
信勝は中央で静かに盃を置く。彼の盃は、まだ乾いたままだ。
(……“勝ったつもり”がいちばん脆い)
清洲の兵は少なくとも揃っている。
末森の兵は多いが、足並みがそろわない。
岩倉の援兵、斯波の名代、古い織田の家臣。
語るのは自分の領地と褒美のことばかりで、「尾張のため」と口にする者はいない。
広間の奥、蝋燭が揺れる。
金の盃を掲げた老臣が上機嫌に叫んだ。
「この戦に勝てば、尾張は元の秩序に戻る! 若造どもに好き勝手はさせん!」
笑いがどっと起き、膳が揺れた。
信勝の表情は変わらない。視線だけが冷えた。
(兄上が壊そうとしているのは“若さ”ではない。腐った昔の尾張そのものだ)
盃の底の灯りを見つめ、彼は短く息を吐いた。
その奥に、父・信秀の横顔がよぎる。「二人で尾張を大きくせよ」。
――だがこの広間に、その志を継ぐ声は無い。
⸻
翌朝の軍議。
酔いの残る老臣たちが口々に「先鋒は儂が」と名乗り、地図も開かれぬまま声だけが飛ぶ。
「末森から稲生へ一直線でよい! 数で押せば終わる!」
「殿は若い、我らに任せて下され!」
信勝は黙って硯に筆を落とす。
隣で柴田勝家が腕を組み、低く呟いた。
「……口で勝てるなら、世に刀は不要ですな」
信勝は薄く笑う。
「“勝ったと言うため”の戦だ。いまの尾張の病が、そのまま出ている」
そこへ、商人風の使者が入ってきた。背に革袋。深々と頭を下げる。
「岩倉の織田信安様より補給金にございます。斯波家の御名にて」
ざわめき。老臣らは顔を見合わせ、袋を奪うように受け取った。
信勝の瞳が細くなる。
(……兄上。これは“家の戦”ではない。外の手が、家の中を押している)
尾張はひとつの国でも、織田は幾つもに割れている。
清洲、岩倉、犬山、末森――それぞれが正統を名乗る。
兄が旗を掲げた日から、火種は置かれていた。
⸻
日が落ち、勝家が報告書を携えて現れた。
「殿。岩倉より密書。いざ戦となれば、彼らは兄上の背も狙う構え」
「分かっていたことだ」
信勝は小さく笑った。
「兄上が変わらねば尾張は沈み、変われば古き者が騒ぐ。――避けられぬ流れだ」
「殿、それでもこれは兄弟の戦……」
勝家の声は震えていた。
信勝は硯を引き寄せ、一通の文をしたためる。筆致は静かで、迷いがない。
『兄上へ
この戦の背には、尾張の影があります。
岩倉・斯波、そして古き家臣が、兄上の道を怖れて私を駒にしました。
けれど、彼らの終りこそが尾張の始まりです。
どうか、家を恨まずに進んでください。
――信勝』
乾くのを待ち、封を結ぶ。
「椿に託す。必ず届けさせよ」
勝家が深く頷いた。
⸻
夜明け前。
朝霧が谷を包み、太鼓の低い音が遠くで響き始める。
老臣らは功名に逸り、先陣争いを続けていた。
「わしが行く!」「いや、儂が!」
鎧の緒を締めながら、勝家が嘆息する。
「……このまま出れば、無駄死にが増えます」
信勝は装束を整え、穏やかに告げた。
「前のめりは止まらぬ。止めるほどの筋も通らぬ。――ならば、後ろを固めよ」
彼は勝家をまっすぐ見た。
「勝家。お前は後衛に回れ。隊を厚くし、崩れを拾え」
「はっ」
「そして、お前は死ぬな。負けてもいい。逃げてもいい。
一人でも多く兵を連れ帰れ。……それが、わたしの命だ」
勝家の拳がわずかに震えた。
「承知……いたしました」
「尾張の病を断ち、兄上に渡す。それが、私の役目だ」
信勝の声音は低いが、芯が通っていた。
⸻
出陣。
霧の中へ、老臣らの隊が勢いよく消えていく。
号令は荒く、列は早くも伸びている。
勝家の隊は最後尾に敷かれた。槍列は二列半。足並みを合わせ、間を詰める。
「柄を合わせろ。下がるな、走るな。――拾って返すぞ」
信勝は城門の外で一度だけ振り返り、末森の天辺を見上げた。
その眼差しは静かで、遠い。
(兄上。勝ちは、まだ早い。……兵を生かし、尾張を残す)
太鼓が鳴る。
稲生の丘へ向かう道は、霧の奥で白くほどけていった。
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