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第三十ニ話 静かなる継承

 清洲の朝は静かだった。


「兄上、温度、少し下げますか?」

「ああ。今日は細身の刃だ。強く叩きすぎると筋が荒れる」


 庄三郎の声に鉄之助は頷いた。

 金槌が振り下ろされるたび、赤が橙へ、橙が桜色へと息を変える。

 火の呼吸に合わせて、鉄之助の胸も静かに上下した。


(……信勝様の眼。あの夜の光が、まだ消えない)


 あの眼は、怒りでも悲しみでもなかった。

 ただ、自分の道を決めた者の眼だった。

 金槌を置き、額の汗をぬぐう。


「なあ鉄之助」

 背後から与一の声。

「信勝様、もう清洲にはおられねえらしいぞ」


「え?」


「丹羽様から聞いた。家中の調整とかで、美濃へ行かれたってさ。……でも、戻る気はないような言い方だったな」


 鉄之助は小さく息を呑んだ。

「……殿の弟君が、いなくなるなんて」


「ありえるさ」与一が苦く笑う。

「武家の世は情より秩序。信長様の天下取りには、あの人みたいな優しさは危ねぇのかもな」


 庄三郎がふと槌を止めた。

「……あの方がいなければ、織田家はどうなる。まとめられるのか?」


 三人の間に沈黙が落ちた。

 炉の奥で赤くなった鉄だけが、静かに呼吸していた。



 その時、戸口から重い足音が響いた。

 丹羽長秀だった。鎧の肩には泥がこびりつき、夜通しの使いの帰りとわかる。

 眉の奥に、言葉にできぬ疲労と憂いが滲んでいた。


「精が出るな」

「丹羽様!」


 三人が頭を下げる。丹羽は工房を見渡し、まっすぐ炉を見据えた。


「尾張はいま静かに見えて、内では荒れている。

 信勝様のもとに旧臣たちが“相談”と称して集まっておる。……その中には、よからぬ者も混じっておる」


「それは……殿の敵に?」


「敵と決まったわけではない。だが、殿が慎重になっておられるのも確かだ。

 ……あの方は、人の情を切り捨てられぬお方だからな」


 丹羽は小さくため息をついた。

「殿にとって信勝様は、ただの弟ではない。若い頃から互いに支え合った。どちらが欠けても織田は立たぬ――殿はそう思っておられるのだ」


 鉄之助が口を開く。

「なら、どうして一緒に動かないんですか?」


「それができれば苦労はせぬ。兄弟でも、背負うものが違う。

 信長様は“上に立つ者”。信勝様は“支える者”。……どちらも正しいが、交わることは難しい」


 丹羽は炉の前に立ち、赤い光を見つめた。

「お前たちは刀を打つとき、同じ鉄でも芯を分けるだろう。

 硬すぎれば折れ、柔らかすぎれば曲がる。二つの性を合わせねば、強い刃にはならん。

 ――あの兄弟も、同じことだ」


 鉄之助は拳を握った。

「……折れない刀にするには、どうすればいいんでしょう」


「誰にもわからん」

 丹羽の答えは短く、それでも重かった。


 彼は踵を返し、出口で立ち止まる。

「だが、一つだけ言える。お前たちの打つ刃が、殿の心を保たせている。

 鉄は、持つ者の覚悟を映す。……決して侮るな」


 そう言い残し、丹羽は去った。

 扉が閉まると、赤い灯だけが残った。



 その夜、清洲城。

 信長はひとり、灯明の下に座していた。

 机の上には一本の刀――父の形見であり、弟・信勝が愛した古備前光忠。

 兄弟の気配を確かめるように、柄をそっと撫でる。


 鞘を抜くと、刃が灯を吸い込み、冷たい光が揺れた。

 その映り込みに、自分の顔と、遠い日の弟の笑みが重なる。


「……静かだな。まるで息を潜めているようだ」


 笑いながらも、その声はかすかに震えていた。

 机の端には、信勝が書きつけた“兄弟記”がある。

 「兄が表を、弟が裏を。」

 その文字の上に、灰が音もなく落ちて、崩れた。


「お前の刀は、あいつに似ている。静かで、まっすぐで、何も言わずに人を動かす。

 ……まるで見透かされているようだ」


 信長は刃を納め、腰に佩いた。

 決意というより、弟の声を背負うように。



 翌朝。

 工房では、新しい刀が完成していた。


「兄上、これ……名をどうします?」


 庄三郎が少し考えて言う。

「名はつけん。この刃は、ただ“今の想い”の証だ。誰に渡るかで意味が変わる」


 鉄之助が頷いた。

「そうだな。これは誰かに渡すためじゃなく、“繋ぐため”の一本だ」


 与一が照れ隠しのように笑う。

「そりゃ、俺たちの仕事も同じさ。どんな戦になっても、続けなきゃ意味がねえ」


 その時、戸口の向こうに椿が現れた。

 外の光を背に、微笑みながら言う。


「信勝様が見たら、きっと喜ぶわ。あの方は、古備前の刀――光忠の流れを好まれてたもの」


 鉄之助が顔を上げる。

「……あの人の刀、光忠って言ってましたね。古備前の作」


「ええ。信勝様はね、あの刀を“兄上と父上の心が宿った刃”って言ってたの。

 静かな刀だけど、手に取ると胸の奥が熱くなるって」


 庄三郎が静かに頷く。

「なら、この刃もきっと誰かを支える」


 椿は少しだけ目を伏せた。

「……優しすぎる人ほど、誰かを守るために壊れてしまう。

 でも、その人が信じたものは、残るのよ」


 鉄之助は無言で頷いた。

 炉の奥で、新しい刀身が赤く光った。



 同じ頃、清洲の外れ。

 信長は城を見上げ、静かに呟いた。


「信勝……戻ってこい。俺たちは、二人で尾張を治める」


 腰には光忠。

 握る手に力が入る。

 刃が朝日に細く光った。


 ――まるで、まだどこかで弟が見ているように。


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【次回更新】明日17時予定!

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