第三十一話 兄弟記 ― 信勝の誓い ―
清洲の夜は、息を潜めていた。
工房には、金槌の音もふいごの唸りもなく、ただ炉の底で赤い火が静かに脈を打っている。
鉄之助は灰をならす手を止め、煤けた掌をじっと見つめた。
指先に染みついた焦げの匂いが、ふと胸の奥を掠める。
「……信勝様って、どんな眼をしてたんだろうな」
独り言のようにこぼすと、傍らの椿が顔を上げた。
灯の揺らめきが、彼女の瞳の中で金色に滲む。
「あなたにしては珍しい質問ね。火よりも人の“眼”を気にするなんて」
「いや……忘れられなくてさ。あの眼、優しいのに、底の方で何かを決めてる気がした」
椿はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「――あの方は、ずっと昔から決めていたの。兄を信じ、影として生きるって」
「影……として?」
鉄之助が問い返すと、椿の声が少し柔らいだ。
「そう。春の日の約束。あれがすべての始まりだったのよ」
ぱち、と炭が弾ける。
その小さな音が、夜気を震わせる。
記憶の扉が、ゆっくりと軋みながら開いた。
⸻
十二年前の尾張・那古野の春。
あの日の光は、あたたかく、やさしかった。
縁側に腰をおろした織田信秀は、庭の槙の木を見上げながら湯呑を傾けている。
五十を目前にした堂々たる体躯。その眼には、戦場を幾度も渡った男には珍しい穏やかさがあった。
「春はええな。新しい枝が出る。どれも真っすぐとは限らんが、それでええのだ」
膝の前には、二人の幼子が並んでいた。
兄・吉法師(のちの信長)十歳。
弟・勘十郎(のちの信勝)七歳。
幼いながらも、兄の瞳は火のように、弟の瞳は水のように澄んでいた。
信勝が枝を指差す。
「父上、この枝、曲がってます」
「そういう枝ほど、折れずに生きるもんだ」
「まっすぐが良いとは限らねぇな、な、父上?」と信長が笑う。
「ほう、よう見とるな」
信秀は満足げに頷く。
「真っすぐすぎる枝は折れやすい。曲がりがあるからこそ、風を受けられる。人の生き方も同じじゃ」
信勝は真剣に頷き、信長は口を尖らせた。
「でも俺は、まっすぐ進む方が性に合ってる」
「兄上、曲がって見える道が正しい時もあります」
「理屈っぽいなぁ」
兄弟の小競り合いに、信秀は堪えきれず笑った。
「どっちも正しい。それでええ。お前らは二つの刃じゃ。
片方は斬り、片方は守る――それで一つの刀になる」
その言葉に、幼い兄弟の瞳が一瞬だけ、同じ光を映した。
そのとき、廊下を駆ける足音。
白い小袖に紺の袴、肩で切り揃えた少女が現れた。
渡り巫女見習いの椿。吉法師と同い年の幼馴染。
巫女の母に手を引かれ、少しおずおずと顔を出す。
「お邪魔してもいい?」
「おう、椿か。よう来たな」信秀が笑う。
「信長様、今日は木登り勝負なんてどうですか?」
「“様”なんて言うなよ。勝負なら、俺が勝つに決まってる」
「じゃあ今日こそ証拠見せてよ、うつけ殿」
「うつけ!?」
兄弟が吹き出し、信秀も腹を抱えた。
「ふふ……椿、よう言った。こやつはうつけの仮面が似合う」
信長がぷいと顔を背けると、椿はいたずらっぽく笑う。
その横で、信勝は兄の背を見ながら静かに微笑んでいた。
夕暮れが迫り、信秀は二人を庭へ呼んだ。
空は薄紅に染まり、槙の枝が春風に揺れる。
「よう聞け。尾張はまだ小さい。民もまだ形を持たぬ。
だが、心があれば育つ。育てるのは我ではなく――お前たちじゃ」
兄弟は背筋を伸ばし、真っすぐ父を見つめた。
「兄が風を起こし、弟が形を守れ。どちらが欠けても、織田は半分だ」
信長は拳を握る。
「俺と勘十郎で、尾張を守ります!」
信勝はまっすぐ兄を見上げる。
「兄上が前を照らすなら、ぼくは後ろで道を整えます」
信秀は満足げに微笑んだ。
「それでええ。それが“織田を継ぐ”ということじゃ」
その夜。
灯明の下で兄弟は寄り添うように眠り、信秀はそっとその寝顔を見つめた。
月光が庭を渡り、風が槙を揺らす。
(どうか、争うことなく……)
その願いは、夜風に溶けて消えた。
少し離れた柱の陰で、椿は小さく息を吐き、手を胸に当てる。
(なら私は――この流れを記す者になる)
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それから幾年。
あの春の枝は成長し、だがそれぞれの向きに伸びはじめた。
父が信じた「二つの刃」は、やがて運命の分かれ道に立つ。
⸻
父・織田信秀の葬儀。
清洲の空に、細い煙が昇っていた。
香の匂いとともに、屋敷には重い沈黙が満ちている。
若武者がひとり立ち上がる――織田信長、十七。
絢爛な衣をまとい、髷は無造作。
線香の束を火のついたまま香炉に放り込むと、灰の上を火花が走った。
香の匂いが強く立ち、すぐに焦げた煙へと変わる。
彼の指先は微かに震えていた。
(……これで、また尾張が割れる)
父の死は、家を裂く楔となる。
弟・信勝を担ぎたい者、古い縁にしがみつく者、うつけを憎む舌。
それらが渦巻く未来を、彼は見てしまっていた。
(もっと生きていてくれ、父上。兄弟が争う未来を、どうして置いて逝く)
胸の奥で叫びを押し殺し、信長は香炉を見下ろした。
葬儀が果つるころ、夜風が廊下を渡る。
香の煙がほどけ、板戸の向こうから柔らかな声がした。
「……兄上」
弟・信勝、十四。喪服の袖を正し、深く頭を垂れる。
「さきほどは……やりすぎです」
「わかっている。だが、怒らずにはいられなかった」
信勝は静かに兄の隣へ並び、夜気の中で言葉を紡ぐ。
「兄上が怒るのは、父上を想うからです。……でも、怒りだけでは人はついてきません」
懐から取り出したのは、薄い冊子。
稚い筆で「天下統一」と書かれた、幼い日の“兄弟記”だった。
「覚えてますか。あれ、父上が茶を吹いたやつです」
思わず、信長の口元がゆるむ。
その笑みに、信勝はわずかに安堵した。
「笑い話で終わらせません。――尾張を治めるのは兄上です。父上も、私も、そう信じている」
信長は目を伏せる。
「……お前は、昔からそう言うな」
「兄上が前に立つなら、私は後ろで支えます。兄上が刃を抜くなら、私はその理由を整えます。
二人で歩けば、尾張は安定します。――それが父上の言葉の続きです」
「……危うい橋を渡るつもりか」
「承知の上です」
信勝の微笑は澄んでいた。
「兄上が進めば、それでいい。父上の遺志を継ぐのは兄上ですから」
信長は拳を握りしめる。
「……俺はそんな未来は望まぬ。お前と二人で尾張を治めたい。それが父上の夢だった」
「もしそうできたら、どれほどよかったでしょう」
その声は、ごくわずかに震えていた。
「兄上。私はもう決めています。兄上を“真の当主”として立てる。だから兄上は、まっすぐに進んでください。私は――後ろで支えます」
二人は、幼い日のように笑い合った。
けれど、その笑みの奥には、すでに別れの影が差していた。
⸻
ぱち、と火床が鳴いた。
鉄之助は我に返り、ふいごに手を添えた。
椿が火に手をかざしながら、静かに言う。
「兄と弟――ほんとは同じ刃なのよ。折れぬ芯と、よく切れる冴え。
離れれば弱る。だから、どちらかが無理をする」
鉄之助は拳を握った。
「じゃあ、その無理を少しでも軽くする刃を、俺が打つよ」
炎の奥で、古の声が低く笑う。
『ほうよ、坊主。言うだけならタダだ。やるなら芯を増やせ。嵐ァ前触れもなく来るぞ』
風がふいごを抜け、火が青く締まった。
清洲の夜は静かに――けれど確かに、次の時代の音を孕んでいた。
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【次回更新】明日17時予定!




