【間話】 椿 ― 火を抱く女
工房の朝は、いつも火の匂いが濃い。
ふいごを押す鉄之助の額から、汗がとぷんと落ち、赤い炭にじゅ、と吸い込まれる。火床は息をしているかのように膨らみ、吐息のように熱を返す。
「――今日もいい音を立ててるじゃない」
障子をするりと開け、まるで自分の家のようにずかずか入ってきたのは、渡り巫女・椿であった。
腰に手を当て、ひらひらと袖を振る。火花がちらついても、眉ひとつ動かさない。彼女は涼しい顔で工房の一番風通しの良い席にどかりと腰を下ろした。
「ちょっと! そこ俺の休憩場所! 汗で酸欠になったらどうするの!」
「祈りを供給してあげてるんだから、酸素より高級でしょ?」
「いや祈りは酸素代わりにならないから! つーか請求される予感しかしないんだけど!」
与一がげらげら笑い、庄三郎は「……作業の邪魔だ」とぼそりとつぶやく。
母・お咲が奥から顔を出し、「椿さん、朝っぱらから図々しいねえ」と笑った。
「図々しい? 違うわよ、“祈りの先物取引”ってやつ♡」
「ほらやっぱり銭の話だ!」
「だって坊やの未来に投資するのよ? タダより高いものはないでしょ?」
「いちいち正論なのがタチ悪いんだよ!!」
賑やかな笑い声に包まれ、工房は一瞬、戦国の不穏さを忘れる。
――これが誰もが知る椿の顔。華やかで、図々しく、祈りと笑いを振りまく渡り巫女。
けれど、渡り巫女には「表」と「裏」の顔がある。
椿の本当の姿は、まだ家の者すら知らない。
⸻
◆渡り巫女という存在
渡り巫女は、本来は村々を巡って舞と祈りを届ける女たちだった。
豊作祈願、病の祓い、戦で荒れた魂を鎮める鎮魂の舞。これが表の顔だ。
だが、もう一つの側面がある。裏の顔である。
渡り巫女は道の上で噂を拾い、物資の流れを調え、人の縁を繋いだ。
どこで塩が足りていないか。
どこで布が余っているか。
祭礼をいつ行えば人の往来が最大になるか。
渡り巫女はそれを読み、商人や武士に伝える。
つまり、渡り巫女は人と物の血流を通す存在だった。
旅の途中で一杯の酒を飲むかのように、さりげなく噂を渡し、それが大名の戦略を左右することもある。
椿も、幼い頃から母にそう仕込まれてきた。
「人は血を流して戦う。でも国は、物の流れで生きている。巫女はその流れを整えるの」と。
⸻
◆椿の血筋 ― 伊勢と熱田と草薙剣
椿の母は伊勢神宮に連なる巫女筋の端を担っていた。
伊勢の神は天照大神。三種の神器の一つ、八咫鏡を祀る地だ。
一方で、熱田神宮には草薙剣――天叢雲剣が祀られている。
本来は伊勢の御神宝である草薙剣を、熱田が預かる形となった。
だから伊勢と熱田の巫女たちは、古来より強く結ばれていた。祭礼や神事で人の往来もあれば、経済の手配もあった。
椿の母は、熱田と伊勢を結ぶ重要な役割を果たしていた。
草薙剣の祈祷に関わり、同時に熱田の市の経済人脈を握る――その二重の顔を持っていたのだ。
幼い椿は、母に連れられて神事に立ち会ったことがある。
火を鑽金でおこし、細い火を草のように撫でる祈り。
母はそこでこう教えた。
「椿。火は奪うものじゃない。火は帰る場所を灯すもの。祈りとは、帰り道を残すことよ」
草薙剣が「草を薙いで火を避けた」という伝承も、実はそこに意味があった。
炎を敵に回さず、風と刃で人を救う。
その精神が椿の家系の祈りの根っこにあった。
⸻
◆信長と椿の母
やがて時代は大きく動く。
織田信長の父・信秀は、今川から那古野城(現在の名古屋城)を奪取し、嫡男・信長に与えた。まだ十代の若造に城を託すのは異例だった。
だが信秀には信長を抜擢するに至った裏付けがあった。
それが、伊勢―熱田を結ぶ巫女筋の後ろ盾である。
熱田は尾張最大の経済の要。市の利権を握れば軍資金も流れる。
信長を那古野に置けば、熱田の市と城下を直結できる。
さらに祈りの後ろ盾があれば、家中も市井も「信長を守る風」が吹く。
椿の母は、この配置転換を裏で支えた。
市場の商人に声をかけ、祭礼の日程を動かし、物資の流れを止めないようにした。
信長はまだ粗野でうつけと呼ばれる若武者だったが、母はその眼を見抜いていた。
「あの子は火種だ」と母は言った。
「燃え尽きるかもしれない。けれど、大きな火を抱えるかもしれない」
信長は椿母の力を正面から頼んだわけではない。
だが彼女は信長の才を値踏みし、支えてやろうと決めた。
それは信秀に仕えるためではない。
――信長その人に見込んだからである。
⸻
◆椿の決意
母は伊勢へ戻ったが、椿は尾張に留まる道を選んだ。
命じられたからではない。自ら残りたいと思ったのだ。
草薙剣を祈った血筋に生まれた椿にとって、尾張は火と刃が交差する土地に見えた。
そして工房の火床で、鉄之助が必死に火を読む姿を見たとき――
胸の奥で何かが強く共鳴した。
(この子の火は、草薙剣の祈りに似ている。
奪うためではなく、灯すための火だ……)
渡り巫女は旅を続けるもの。ひとつの土地に根を張ることは「掟破り」に近い。
だが椿は構わなかった。
火を読む子の傍に居たい。その直感が、血より強く彼女を動かした。
⸻
「……で? また祈り代の請求ですか?」
「安心なさい、坊や。今月は三回払いでいいから」
「結局払わせるのかよ!!」
庄三郎が「……計画的に使え」と肩をすくめ、与一は爆笑した。
お咲はお茶を持ってきて、「まあまあ、祈り代ぐらいで破産しないでしょ」と笑う。
椿は盃をくるりと回し、火床の赤を映した。
誰も気づかないが、その目の奥には伊勢の火がまだ燃えている。
そして、鉄之助の焔を見つめると、ふっと笑みを深めた。
(この火は、まだ小さい。けれど――折れない。
いずれ草を薙ぎ、人を救う刃になる)
⸻
渡り巫女・椿。
その正体は、伊勢と熱田を結ぶ祈りの血筋にして、草薙剣の祈祷を担った家の娘。
裏の顔は人と物の流れを読み解き、経済と祈りを結びつける才覚。
そして今は、火床の子に惹かれ、掟を破って尾張に根を下ろす女。
――だが、そんな裏話を誰が信じるだろう?
「ねぇ坊や、今日の祈りは気分で割引してあげるわ」
「気分!? つまりゼロ割の可能性もあるやつ!?」
「そういう裏話があるかもしれないし、ないかもしれないわね♡」
工房に笑いが広がる。
祈りと笑いと赤い火の息遣い――椿という女は今日も、火を抱いて尾張を渡っていく。




