【6】猫の大好物なんて大昔から決まっている。【完】
半年後、リリカは無事、高級官僚の採用試験に合格した。
リリカの強みは、シャウムブルク学園で得た知識と王侯貴族へのコネクション、おじ達というチート集団を頼ることができるというバックグラウンドだ。これらを最も生かせる、リリカが守りたいもののためになる働き先として、リリカは宮廷を選んだ。
―――リリカは大事な家族や親族、友人達を自分なりの方法で守れる道を選んだ。今度はリリカ自身の意思で。
正直に言って、リリカの親族達は火力が十分どころか、大きすぎて帝国を滅ぼせるわっ!!! と叫べるメンツである。彼らが国を滅ぼす必要が無いような、毎日を平穏に暮らし、明日を信じられる生活のできる国作りに貢献することがリリカの目標だ。
というか、冷静に考えて、魔獣討伐力よりも、やらかした親族をバックアップする後方支援力の方が圧倒的に不足していた。長たる伯父ルドルフの負担を少しでも減らすため、リリカも宮廷で頑張ることにしたのだ。
***
来年から働くことになる帝国宮殿へと初めて足を踏み入れ、同期となる学生達と事前説明を受けた後のことだ。資料の紙とメモをまとめ終わって帰ろうとしたリリカを、足早に部屋に入って来た中年の女性役人が呼び止めた。
白髪交じりの金髪を後ろで団子にして綺麗にまとめ、耳元には菫色の宝玉でできた通信具を付けた彼女は、迷いなくリリカに近づいた。
「失礼。貴女がリリカ・ファールレン殿でしょうか」
頷いてそうだと言えば、別室で特別講習を受けるように指示された。
(オイゲン伯父さん関連かな……?)
リリカは来年から伯父オイゲンの部下として働くことが既に内定している。
彼が所属する基幹システム構築部局は業務内容が特殊であり、他の新人とは異なる研修内容になるらしい。研修自体はまだ先のはずだが、事前に課題でも出されるのだろうか。そう考えて、リリカは案内役の女性役人の後を素直にテクテクとついていった。
幾つもの施錠扉を女性役人は腕章に嵌った宝玉を翳して開錠し、どんどん宮殿深奥へと足を進めて行く。途中で擦れ違った警備の騎士達が首を垂れて道を譲っていくところ見ると、なかなかに地位が高いようだ。どうしてそんな人物が案内役を、と首を傾げるリリカだったが、厳格な雰囲気の女性に彼女の名すら聞けないまま、目的地に到着した。
思っていたよりも宮廷の奥まった部分にまで連れて来られた。ズラリと扉が並ぶ様子が図書館の自習室を思わせる廊下は、後に知ったのだが小会議室や高官の執務室が並んでいるエリアだった。
「……扉の前に。……ええ。……では、そのように」
等間隔に並んだ扉のうちの一つの前まで来ると、女性役人が通信具でどこかに連絡を入れる。相手の音声は聞こえない。盗聴防止用の機能が付いているようだ。扉の開錠音がしたので、中にいる誰かと話していたのかと一人納得したリリカは、ここまで案内してくれた彼女に礼を言い、何の疑いもなく扉を自分で開いた。
最初に感じたのは、紅茶の匂いだ。いやに嗅ぎなれた匂いに紅玉色の瞳を瞬かせた先、菫色の瞳と目が合った。
―――野ネズミがうっかりと家猫くんの罠にかかった瞬間だった。
***
「役人というのは貴族と帝国の交渉窓口でもあるんです。だから、大抵の高位貴族は子飼いの役人を各省庁に仕込んでいます。同じ役人だからと油断していると攫われますよ、リリカ先輩」
菫色の瞳を細めたユリウスがマホガニーの木机の向こう側で完璧な微笑を浮かべるのに、リリカはぎこちなく笑い返した。今まさに攫われていると言っていいものか悩みつつ、膝の上に置いた両手を所在無げに握りしめる。
蚊の鳴くような声で、リリカは返事をした。
「へ、へえ、そうなんだ……」
この部屋の机は学園の自習室のものよりも小さい。いつもより近く、手を伸ばせば届く距離にいる後輩から目を逸らしてリリカは俯いた。
良い勉強になった、だからもう帰っていいだろうか。そう思うリリカの前に、紅茶がなみなみと注がれた茶碗が音もなく置かれる。次いで角砂糖の入った蓋つき陶器、専用のトング、ミルクピッチャー、ティースプーンが並べられ、更に小皿に乗った栗の糖蜜漬けとデザートフォークがそれに続いた。
「それでは、我々はこれで」
「……えっ」
手際のよい仕事をした従者ベンノは、ティーポットと追加用のお湯を用意すると、もう一人の従者と共に静かに退室していった。初めてのことだった。これまで自習室のような密室をユリウスと利用する時には、必ず従者のどちらかがいた。初めて二人きりにされた室内に気まずい沈黙が降りる。
「そのマロングラッセ……」
ぽつりと、ユリウスが呟いた。
「リリカさんが喜んでたと伝えたら、料理長が張り切って改良を加えたやつです。でも、作ってからだいぶ経ったので風味が変わってしまってるかもしれません。保存が効く菓子だから、腐ってはいませんけど」
彼の節くれ立った指がデザートフォークを優雅な手つきで操り、その側面で糖蜜によって艶やかさを増した栗を半分に割った。更にフォークを垂直に持ち直すと、先端に栗を串刺しにする。そして、それをそのままリリカの口元まで運んだ。
「はい、リリカ先輩」
テーブルの向こう側からリリカの方に突き出された茶菓子に、彼女は仰け反った。
(これを食べろと? 庶民のバカップルでもあるまいし)
ユリウスの様子がおかしかった。確かにこの半年間、リリカは役人試験を理由にこの後輩を避けていた。彼女の個人的な事情のせいだ。だが、怒っているというのとも違うようだった。
フォークに突き刺さった栗から目線を移し、久し振りに会った後輩を改めて観察する。
たった半年会わなかっただけなのに、更に背が伸びて、肩幅が広くなっていた。身体全体も前よりも筋肉がついて厚みが増しているようだ。輪郭も少年らしい丸みが削がれ、鋭利な印象の青年へと変わりつつある。
なんだか知らない男の人のようだと、リリカは少し寂しくなった。リリカのお気に入りの後輩がいなくなってしまったようで。
伏せられた紅玉色の瞳に、対面にいる菫色の瞳がツイと細められた。マロングラッセが刺したフォークごと乱雑に小皿に戻される。金属と陶磁器がぶつかる耳障りな音が室内に響いた。
「もう僕が用意したものなんて要りませんか」
え、と顔を上げたリリカの目に、片手で顔を覆って俯いたユリウスの姿が映る。指の隙間から覗く薄紫色の瞳が灯す光の剣呑さに、リリカの指先が震えた。
「何が駄目でしたか。これでも良い後輩を演じていたつもりです。……討伐実習ですか。魔獣戦線にいる僕を見て、僕の家のことを再認識したとか? ……やっぱり、僕が、ノイスだから」
『ノイスだから』というのは、色んな意味にとれる言葉だ。だが、リリカはユリウスが何を言いたいか、はっきりと分かった。これでもこの後輩に出会ってから四年間、リリカだって頑張って良い先輩をしていたのだ。だから―――。
「それは違う! 違うよ! ユリウス君!!」
椅子から立ち上がり、机の上に身を乗り出した。伸ばした両手で後輩の顔を包み込み、俯いた彼の顔を上げさせる。揺れる菫色の瞳に、同じくらいに情けない表情をしたリリカの顔が映っていた。
「君が『ノイス』なのは、ずっと分かっていた。でもね、それでも、君と、可愛い家猫くんと一緒にいると楽しかった。嬉しかったんだよ、こんなに素敵な後輩ができて」
綺麗な薄紫色の瞳から零れ落ちた雫を親指で拭って、リリカは不細工な笑みを浮かべた。師匠のリオンにはとても見せられない、対貴族用の武装失格の、本音で形作られた歪な感情を。
「例え演じていたとしても、私に何かお礼がしたいと必死だったのは『君』だ。私のために最初は毎回違った紅茶を用意して、悔しいぐらいに好みのブレンドティーを作ったのも『君』。雑談でなにげなく好きだと言った栗でマロングラッセなんて手のかかるものを作らせたのも『君』だよ」
リリカはユリウスの頬から片手を外し、彼の短く刈り込まれた頭を撫でた。指触りの良い金髪が、指の隙間を通り過ぎていく。いつかは彼は、この美しい金髪一本遺すことなく、戦場で灰燼に帰すことになる。
***
ノイス侯爵家は『帝国の最後の盾』と呼ばれている。
魔力量が帝室に比肩する多さのノイス侯爵家は代々、魔獣戦線が崩壊してヴァッレン帝国が存続の危機に陥った時には、その命を対価に自爆魔法で戦場の魔獣を一掃してきた。ユリウスの父親である先代侯爵は、魔獣の大攻勢でヴァッレンの『障壁』すら崩れた戦場を立て直すため、特攻作戦に参加して戦死している。
リリカの大切な家猫くんはノイスの直系男子だ。
彼もまた、いつかは父親と同じ死出の道を行くことになる。そんな彼ら一族と親しくなることを避ける人間がいるのは確かだ。戦死することが、それも、骨一つ残さず消え去ることが分かっている相手に情を分け与えて、いざ後に残された時のことを思えば、それもまた仕方のないことかもしれない。
先程ユリウスが言っていた『僕がノイスだから』とは、リリカがそういう人間達と同じなのではないかという意味だった。
そんな訳が無かった。全て知った上で、野ネズミは家猫くんを後輩として可愛がってきたのだ。例えいつか軍神の御許に召されるとしても、彼は、今ここで生きている。それだけで十分だとリリカは思っていた。
「私と出会った時には戦線で騎士として血豆が治る暇もないほど剣をふるっていたのが『君』でしょう。侯爵家当主のお兄さんの役に立ちたいと統治理論系の講義を選択して、自習室で予習と復習を頑張っていたのも『君』。頑張り屋で、家族思いで、私の自慢の後輩。それが『君』だよ」
そんな彼だから、リリカは図書館に通い続けたのだ。侯爵家直系として魔獣戦線での討伐任務と兄君の執務補佐に忙殺される彼が、少しでも学園生活を有意義に過ごせるように。その役に立てたら良いと思って自習室周辺の虫よけ役をしていた。この日々が一日でも長く続けばいいと願いながら。
「ユリウス・ノイス。君が好きだよ。後輩としてだけじゃなく、一人の人間として。……ごめんね、良い先輩でいられなかったのは、私の方だ」
告げるつもりのなかった恋情を伝えて、リリカはユリウスから手を離そうとした。―――が。
「言いましたね」
「え」
低く、唸るような声が可愛い後輩の喉から放たれた。半年前に遭遇した白狼のような、獰猛な声音が。
「僕が『好き』だって言いましたね。リリカさん。……言質は取りましたよ」
「えっ、あっ、ユリウスく……ひゃぁ!?」
リリカの両手がユリウスのそれにがっちりと掴まれる。そのまま引っ張られる形でユリウスに引き寄せられたリリカは、完全に上半身が机に乗り上げる形になった。弾みでぶつかった茶器から紅茶が零れ落ちていく。だが、それを気にする余裕はリリカにはなかった。
「もう絶対に逃がしませんから。覚悟しておいてくださいね、リリカ」
「えっ」
家猫くんに抱きしめられたまま、目を白黒させている野ネズミはうっかりしていた。猫の大好物なんて大昔から決まっている。家猫くんの前で油断した野ネズミの末路は、また別のお話だ。
後日、事の顛末を知らされた伯父のルドルフは天を仰ぎ、深い深い溜息を付いた後に、彼女を祝福した。
*
*
*
―――自分なんていらないと思っていた。どうせ、いつか戦場の露と消える自分に『個』としての意識など必要ないと。
地位も身分も家柄も、何もかもが違う相手が、震える手を伸ばした。
引っ込められそうになった、その指先を、血豆だらけで荒れた自身の手がすくいあげる。
それだけで十分だった。……十分だったのだ。
*おまけ話を明日朝6時に予約投稿しております。蛇足ですが、ご興味が御有りの方はお暇潰しにどうぞ。