【4】見学実習
魔獣討伐の見学実習には、魔獣湧出地の発生率が安定しており、地脈の不活性期に分類される地域の戦線が選ばれていた。討伐実践訓練がある学生たちの演習場から少し離れた戦闘区域で、魔獣の頭数が少なく、その種類も討伐難易度が低い小型種ばかり。騎士一人でも容易に対応できる戦闘の見学だった。
リリカが心配していたような、怒号も爆発も閃光もなく、散歩でもしているような穏やかさで実習は進んでいった。
「あれは兎型です。討伐方法は主に……」
「魔法と物理攻撃どちらが……」
護衛役の騎士がそれぞれの魔獣とその討伐方法を文官志望学生たちに質疑を交えながら説明していく。魔獣討伐に良い思い出が無いリリカは、これならばどうにか無難に終えられそうだと安堵の溜息をついた。彼らは談笑すら交えながら実習を終え、帰りの馬車がある待避所へと向かっていた。
「リリカさんは魔獣戦闘が苦手なのでしょう。私の後ろに下がっていなさい」
赤髪の子爵令嬢がツンと横を向くのに、藍色の髪の子爵令嬢が口元を手で隠してクスクスと笑いを零す。
「素直に守りやすい場所にいて欲しいとおっしゃってはいかが」
な、と赤く染まった彼女の頬を、鉄色の髪の子爵令嬢が人差し指でツンツンと突いた。
「貴女は本当に野ネズミさんがお気に入りね」
違いますわ、と食って掛かる赤髪の令嬢に他二人の令嬢がキャワキャワと笑い声を上げ、引率の教師に遊ぶなと注意されてしまった。四人で顔を見合わせて小さく笑って護衛騎士の後をついていく。問題なく実習授業は終わる―――はずだった。
***
帰路は行きと同じ馬車に乗り、周囲を騎獣に乗った騎士が警護する予定だった。まずは高位貴族の学生が馬車に乗り込み、それに身分順に他の学生が続いていく。
一番最後になるのが分かっているリリカは、少し離れたところでそれを眺めていた。用もないのに貴族に近づいて無用な不興を買わないためだ。先程の子爵令嬢たちのように親しくしてくれる学生もいるが、皆が皆そのような貴族ばかりではない。
魔獣撲滅に身命を賭す貴族に守られるしかない平民を見下し、好ましく思わない層も一定数いるのだ。無駄な諍いは起こさないに限ると、野ネズミたる平民リリカは貴族との間に線を引き、それを踏み越えないようにしてきた。
その唯一の例外が家猫くんだ。彼も今日は実戦演習を受けると言っていた。リリカは少年がいるだろう戦区の方へと紅玉色の瞳を向ける。見えるはずもないが、怪我をしていなければいいと、その無事を祈った。祈るしかない自分の不甲斐なさに、沸々と腹の奥底から湧き出る感情を見ないふりしながら。
***
そろそろかと、最後尾となる平民学生向けの馬車に向かい一歩を踏み出したリリカは、ふと足を止めた。……違和感が脳裏に警鐘を鳴らす。地面にしゃがみこみ、触れた指先から地中に魔力を放った。その反射反応を感知してリリカはとっさに叫ぼうとした、が―――。
―――ドッオオオオオンッ!!!!!
遅かった。学生達を乗せた馬車ごと大地が吹き飛ぶ。地脈に放った魔力は、雑多な魔力を吸着して倍以上の威力で反射してきた。地脈が活性化していたのだ。地脈の活性化が招く現象は多々ある。その中でも人類ならば誰もが忌み嫌う現象が―――魔獣湧出地発生頻度の上昇だ。
この戦区もまた魔獣湧出地が高確率で発生する激戦区となった。その最初の湧出地が、今ここに発生した―――最悪のタイミング、最悪の場所で。
***
馬車を吹き飛ばしたのは、新たに発生した魔獣湧出地だった。馬車から投げ出された学生や、大破した馬車に押しつぶされた学生が、ある者は助けを求め、ある者は息絶えて見開いた目で虚空を見つめていた。
周囲にいた護衛の騎士も酷い有様だった。馬車を囲む形であったため、湧出地の発生を騎獣もろとも直撃で喰らったのだ。大半が即死、良くて生きてはいるが怪我が酷く動けないようであった。
一斉通信がないところを見ると、指揮系統が混乱しているらしい。指揮役の護衛騎士も引率役の教師も最初に馬車に乗った高位貴族に付き従っていた。湧出地の中心近くにあった馬車だ。まず助からなかっただろう。
……そもそも、生存者が当初の四分の一に満たず、大半が非戦闘員の学生ばかりなのだ。この場を取り仕切れるものなど生き残っていなかった。その彼らに、湧出地から発生した白狼の群れが容赦なく牙を剥く。
「……中型湧出地……狼型系か! 発生頭数が多いぞ!」
「総員戦闘態勢! 学生を避難させろ!」
「戦闘経験がある学生はこっちに来い!」
生き残った数名の護衛騎士が臨戦態勢を取り、戦える学生は剣を抜いた。非戦闘員の学生達が悲鳴を上げながら散り散りに逃げ出し、それに狼型の魔獣が飛び掛かる。完全なるパニック状態だった。敵味方が入り乱れる戦場の中、リリカはへたり込んだまま立ち上がれずにいた。
頭の片隅では冷静に戦況を分析していたが、凍り付いたように体が動かない。見開いた紅玉の瞳に、また一人、生徒が喰いつかれる姿が映り込んだ。
リリカはとっさに両手で耳を抑えて、目をきつく瞑る。五感の遮断が戦場において命に関わる愚策と分かっていても、我慢できなかった。耳を覆ってもなお聞こえる魔獣の咆哮と誰かの絶叫、目の裏を明滅させる攻撃魔法の爆音と閃光、それら全てが恐ろしかった。
蘇るのは、大事な人の苦悶に歪んだ死に顔だ。その最期の叫び声、焼け爛れた肉の匂い、生暖かい血肉の感触。それら全てを嫌でも思い出させる戦場の片隅で、リリカは小さく蹲っていた。
頭では分かっているのだ。今すぐに逃げるべきだと。だけど、体が動かない。
このままでは魔獣に襲われて死んでしまうかもしれない。今は戦える学生と騎士でリリカたち非戦闘員を庇っているが、それにも限界がある。だんだんと白狼の群れに押し込まれてしまっているのだ。一度均衡が崩れて混戦となれば、最悪、味方の魔法に巻き込まれて死ぬ可能性すらあった。
武器も持たない非戦闘員は今すぐに逃げるべきだ。
分かっていても全身の震えが止まらず、腰も抜けてしまってしまって、一歩も動けない。
(どうして私はこうなんだ)
5歳の時の話だ。父親が実戦形式の魔獣討伐訓練をしてくれることになった。小さかったリリカは、自分の身長よりも大きな剣を背負って、父さんみたいに強い飛竜便屋に、或いは、母さんみたいに皆の怪我を癒せる人になるんだと息巻いて意気揚々と魔獣支配圏へと出発した。
結果は惨敗。父も母も付き添いの叔父達までも、誰も彼もが首を横に振った。
―――リリカ。攻撃魔法を人のいる場所で使ってはならないよ。
強張った顔の父に言われた。私の魔法はそんなにダメだったのだろうか。
――リリカちゃん。貴女は良い子だけれど、その≪聖魔法≫は人に使わない方がいいわ。
困った顔の母に頭を撫でられた。私の≪聖魔法≫はそんなに下手だったのだろうか。
―――リリー。俺達の可愛い小花ちゃん。お前が困ったり危険な時は俺達が助けるから、戦ったり他の人間なんて気にせずに、まずは逃げな。安全な場所で助けを待っててくれ。……叔父さんとの約束だぞ。
傭兵をしている叔父ルーベンは、自身の小指とリリカのそれを絡めて諭した。
リリカは、誰かのために戦うことも、誰かを救うこともできない失敗作だと、そう突き付けられた日だった。だから、文官を目指すことにした。魔獣戦線から離れた安全な帝都で職を得れば、彼らを安心させられると思ったから。
***
せめて周囲の状況を把握しようと目を開くが、水の膜で揺らいで敵わなかった。どうにか止めようと震える手で目を擦るが拭っても拭っても湧き出てくる。涙一つ思い通りにできない自分に、本格的に自己嫌悪が湧き上がった。
(……貰っておけばよかったな。ユリウス君の言っていた『冥泉の慈悲』。……廃人になったって)
どうにか瞼を瞬かせた涙の向こう、目前には騎士が仕留め損ねた白狼が迫っていた。剥き出しの牙が、陽光を弾いて鈍く光る。今にもこちらに襲い掛からんとする魔獣に、諦観が思考を支配した。
(……廃人になったって、何もできない役立たずのままよりかはマシだった)
「リリカさんっ」
自暴自棄になりかけたリリカの視界から魔獣が吹き飛ぶ。騎獣の足に蹴り飛ばされたのだ。次いで、白狼の断末魔が上がる。騎獣から飛び降りて魔獣の首と胴体を一刀両断した少年は、周囲を警戒して剣を構えたままリリカを見下ろした。
「大丈夫ですか? 怪我は?」
そう言いながら全身を目線でチェックしていく相手に、リリカは情けない声を漏らした。
「ユ、ユリウスくん」
「こっちの演習場に救援要請がかかりました。警護の騎士も増援として連れてきています。もう大丈夫ですよ」
ベソベソと安堵から泣き始めたリリカは、震えながら腕を持ち上げる。相手は年下とはいえ、侯爵家当主の実弟だ。普段ならば考えもしない、不敬ともいける行為だが、恐怖と安堵で混乱していたリリカは深く考えもせず、ただ自分を助けてくれた相手に手を伸ばした。
伸ばしてから気付いた。まずい、やらかしたと。慌てて引っ込めようとした手を、血豆のできた指がそっとすくいあげる。カサついた手だった。荒れて豆だらけで、それでも誰かを守るために頑張ってきた手だ。
軽く指先を握ったソレは、一度手を離して、もう一度、今度はしっかりと掌同士を合わせるとギュッとリリカの手を握りしめて、そのまま彼女を引っ張り上げた。
腕ごと引き上げられたリリカは、勢いよくユリウスの胸に抱きこまれる形になる。まだ力の入らない彼女の腰を片手で支えながら、彼は小さく笑った。
「よく頑張りました」
「……下級生のくせに生意気な」
「はいはい、生きててよかったです、先輩」
震える声で返した文句を軽く流される。そのいつものやり取りに、不思議な程に心が落ち着いて行く。ちなみにこの間に近づいてきた魔獣は、ユリウスによって漏れなく炎の魔術で爆殺されていた。さすがは幼い頃から戦闘訓練を積む帝国貴族である。息を吸うように魔獣を屠っていく様子に、絶対的な安全圏にいると実感する。
―――『もう大丈夫ですよ』
彼の言葉がストンと胸に落ちるのが分かった。不思議な程あっさりと、ずっとフラシュバックしていた死に顔が、匂いが、声が、遠のいていく。
涙も震えも自然と止まり、足に感覚が戻ってきた。ユリウスの胸を軽く叩いて離せと言えば、あまり離れないで下さいね、とあっけなく解放される。周囲を見回せば、駆けつけた武闘派学生と増援の騎士が統率の取れた攻撃で白狼達を退かせていっていた。これまでの苦戦が嘘のようだ。
「ある程度魔獣を牽制したら避難させますから」
長剣に刻まれた魔導陣に炎の魔力を満たしながら後輩は不敵に笑う。
「ちょっとそこで、僕があいつらを消し炭にするのを大人しく見ててください」
魔導陣から零れる陽炎色の魔力粒子が、ユリウスの横顔を赤く輝かせていた。
それに見惚れながら、リリカは指先を握り込んだ。そこが火にでも触れたかのように熱い、その理由に気付いてしまった。
(しばらく図書館に行く時間をずらそう。虫よけが虫になるだなんて、先輩失格だ。)
―――野ネズミと家猫では、朋にはなれても、番にはなれない。
魔獣に襲われた上に失恋とか、ついていないにも程がある。最後の一滴が頬を伝うのを魔獣への恐怖からだと自分に言い聞かせて、リリカは顔を上げた。準主級の白狼に向け、攻撃型魔導陣が剣から発動する。その爆風が頬の涙すら吹き飛ばしてくれた。まったくもって頼もしい後輩だ。
「ありがとう、ユリウス君」
そう、礼を言った次の瞬間だった。
「―――嫌よ!」
甲高い女生徒の声が耳に刺さった。