【2】野ネズミと家猫くん
リリカの朝は日の出前に始まる。まだ薄暗い時間に私室のベッドからのそのそと這い出て、寝間着を着替えて一階の洗面所へと欠伸をしながら向うのだ。そこで顔を洗って髪を結い、キッチンへと顔を出せば大抵、両親のどちらかが既に起きて朝食の支度をしている。今朝は父がいた。
「おはよう。リリカ。そこのトーストしたパンをもっていってもらえるかな」
「おはよう、父さん。帰ってたんだ」
「昨日の晩にね。途中で飛行種湧出地に当たって魔獣との戦闘中に荷物が割れないかヒヤヒヤしたよ……」
飛竜による貨物運送商会の会長で、自身も竜騎手として帝国内外を飛び回っている父が零す仕事の愚痴に返事をしながら、リリカは籠に入ったパンを手に取った。
キッチンと食堂をお盆を持って何往復かしていく。ホットミルク、紅茶、お湯がそれぞれ入ったポットと、数種類のジャムとチーズ、陶器に入ったバター、食べやすくカットされ木皿に盛り付けられたトマトとレタス、玉葱、ガラス瓶入りのドレッシング、ベーコンエッグ、根菜と鶏肉の煮込スープ、ガラスの器に入った果物を木机に並べていれば、乳幼児の末弟を抱いた母と朝の鍛練を終えた弟二人がやってきた。
「あら、おはようリリカ。今日も早いわね」
「ねー、あー」
「ねーちゃん、おはよう」
「姉さん、おはよー」
彼らと共にでカトラリー――ナイフ、フォーク、スプーン、白磁の皿など――を用意して朝食の準備は終わった。家族全員が食卓につくと父が食前の祈りを家長として軍神に捧げる。
「では、今日の命に感謝を。明日も軍神のご加護がありますように」
「「「「「ありますように」」」」」」
父に合わせて祈りを捧げて皆で一斉に食べ始める。乳幼児の弟以外全員この後に仕事か学業があるため、のんびりしてられないのだ。
「アーロン、パンにのせたチーズとスライストマト焦がしてもらってもいい?」
「姉さん最近ハマってるよね、その組み合わせ」
繊細な魔力操作が苦手なリリカは、逆に針の孔でも魔力糸を通してみせる弟アーロンの方に皿を寄せた。はいはいと文句も言わずに一歳年下の弟が姉の皿に手を翳し、炎の魔力でチーズとトマトをトロトロジュワジュワになるまで熱してやる。
「んー、美味しー。ありがとうアーロン!」
「どういたしまして。……僕はオレンジマーマレードにしようかな」
ヴァッレン帝国の庶民階級では、冠婚葬祭や記念日は別として、普段の食事は朝食が一番豪華な家庭が多い。魔獣戦線で日々魔獣と生存圏争いをしているご時世なのだ。夜まで生きているか分らないのだから、朝一でたらふく食べておけ、という考えである。
だが、東方にある島嶼部人類生存圏では、逆に夜が最も豪華な食事を取る時間らしい。先日学園の人類学の講義で習った。一日魔獣との生存競争から生き延びたご褒美という考え方だそうだ。
どちらが正しいかはリリカには分らない。しかし、人類文化学の教授は言っていた。郷に入らば郷に従え、その土地のやり方に合わせるのが肝要でどちらが正しいという問題ではないのだと。
飛竜便屋として数多の人類生存圏を渡り歩いてきた父にその話をしたら、確かに僕もそうしていると頷いていた。文化差への無理解は仕事上で洒落にならないトラブルに発展することがある。父は他の人類生存圏に行く際には、事前に下調べをして、現地では地元民にできるだけ合わせて過ごしているそうだ。
そんな話を思い出しながらパンをモソモソと囓るリリカに母が尋ねる。
「リリカ、今日も食べ終ったらすぐに学園に行くの?」
「うん、気になってる文献があるから図書館に行きたい」
「そう、気をつけて行ってらっしゃい」
「はーい」
朝食を食べ終わり、洗い物の手伝いをして、リリカは今日の講義に必要な書籍とノート、文具などを詰めて膨らんだショルダーバックを肩に掛け、家を出た。シャウムブルク学園に制服はないため、無難にシンプルなワンピースを着て、いつも通りに石畳の道をテクテクと歩く。10歳で学園に入学して早5年。もはや慣れた道のりだ。
家から少し行ったところにある乗り合い馬車で学園近くの駐停所まで移動し、そこから徒歩で7分ほど。貴族居住区内にある学園の正門が見えてきた。鉄格子で覆われた広い敷地の中に、石造りの荘厳な建物が林立している。早朝の澄んだ空気の中、しんと静まり返っている学び舎へとリリカは足を進めた。
***
一限目の講義までまだ時間がある。リリカは当初の予定通り、中央図書館へと足を進めた。
「今日は昨日の続きで魔力紋によって魔獣を種別に判別する方法の資料をまとめて、それから、人類生存圏ごとの現在流通する現物貨幣と魔粒子式非実在通貨の普及に関する資料を探そう」
シャウムブルク学園には中央本館と東西南北4つの別館で構成される5つの図書館があり、それぞれ24時間開かれている。学術研究機関たる学園は、人類の魔獣との連綿と続く闘争の最前線に貢献すべく、不夜城として魔獣戦線に有益な研究を日夜続けているため、らしい。まあ、ここの研究の全部が全部戦線に関係あるかというと、そうでもなかったりするのだが。
リリカがよく使うのは中央図書館だ。一番資料が揃っていて調べ物がしやすく、別館所蔵の資料が欲しい時には、申請さえすれば半日程度でこの本館まで持ってきてもらえる。
「おはようございます」
「おお、おはよう。今日も早いね。リリカ君」
入館ゲートに宝玉が嵌め込まれた学生証を翳してエントランスへ入場して、カウンターに常駐している初老の男性司書に挨拶をする。入学当初から図書館に通い詰めているリリカは、図書館関係者に完全に顔を覚えられていた。
「昨日の禁帯出本を今日も読みたくて。あと、流通貨幣系の書籍照会をお願いできませんか」
「ほうほう、何が知りたいか詳しく聞かせてもらえるかの」
しばし話し込んで、いくつか目ぼしい書籍や報告書を教えてもらう。別館所蔵のものは本館受け渡しで午後の講義までに用意してもらえることになった。礼を言うリリカの背中に声がかかる。
「おはようございます、野ネズミ先輩。今日も早いですね」
リリカは振り返って、からかい混じりに朝の挨拶をする少年をジトリと睨んだ。確かにリリカの渾名は『野ネズミ』だが、さすがに後輩にまでそう呼ばれる筋合いはない。
「おはよう、家猫くん。上級生に対する態度を躾直してやろうか?」
短く金髪を刈り上げた少年が、菫色の瞳を細めてリリカを見下ろしていた。
彼は野ネズミの1年後に入学した血統書付きの家猫くん―――当代ノイス侯爵の実弟で、名をユリウス・ノイスという。リリカが血反吐を吐いてどうにか合格した入学試験を、魔獣討伐試験という実技込みで主席合格した本物の天才君だ。
長剣を腰から下げたユリウスは、いつも通り二人の従者を引き連れていた。青年の従者が護衛として周囲を警戒し、少年従者が荷物持ちとして鞄や袋を腕に下げている。顔馴染みの彼らに会釈をして、リリカは従者たちの主人であるユリウスに一歩近づいた。
「すみません。図書館まで一生懸命に歩いているリリカ先輩の後姿があまりにも愛らしかったので」
「チビっていいたいのかな? 喧嘩なら買うよ。……というか、どこから見てたの。その時点で声をかけてよ」
本来であればこんな軽口を叩くことのできない身分の御方だが、シャウムブルク学園は少なくとも表向きは、学内での学徒の平等を謳っている。ユリウス本人が畏まれることを嫌がっていることもあり、リリカはユリウスを弟相手のような気安さで可愛がっていた。
実際、彼と弟は共通点が多い。リリカの弟とユリウスは共に14歳で、彼らは身長と顔面偏差値が高いところまで同じだった。そのせいか、なんとなく姉としての庇護欲が疼くのだ。
「帝都に戻ってたんだね。ご実家の魔獣戦線は落ち着いたの?」
「どうにか中型以上の魔獣湧出地を潰して、昨日帰って来たところです。火炎魔導陣で湧出地を滅却する良い練習にはなったんですけど、講義を休んだ分、レポートの作成課題があって……課題一覧見ます?」
少年従者が横から静かに差し出してきたリストに目を通して、リリカは同情の表情を浮かべた。
「これはまた…えぐい量だね」
「今日中に大まかな目途だけでも立てておきたくて。それで、先輩……一限目の講義まで一緒の自習室を使いませんか」
15歳のリリカより頭一つ高い14歳の少年が、腰を屈めて上目遣いにお伺いを立ててきた。
座学系講義は勿論、魔獣討伐の実戦演習も含めた騎士教育課程でも優秀な成績をおさめているユリウスは、年齢の割に背が高い。魔獣戦闘訓練を幼い頃から始める貴族家系は発育の良い血統を好むため、彼らは精神身体共に成熟が早いのだ。
「……まーた人を虫よけにするつもりなのかな、この後輩君は」
「ダメですか?」
「……仕方ないなぁ」
弟アーロンとユリウスの困り顔が重なり、やはりどうにも見捨てることができない。リリカは観念して小さく溜息をつくと、カウンターに向きなおり、男性司書に学生証を差し出した。
「個室タイプの自習室に空きはありますか」
「ほっほっほっ。後輩思いでなによりじゃ。24番が空いておるのお。登録者以外入室禁止で利用申請しておこう」
男性司書が黒檀のカウンターに設置されている館内運用魔導陣にリリカの学生証を翳して24番個室の利用登録をすすめていく。統括システムに限定登録すれば、登録学生証でだけ24番自習室に入室できるように設定できるのだ。これでユリウスが追い払いたい部外者が乱入してくることはなくなった。
「行こう、ユリウス君」
「はい、リリカ先輩」
***
男性司書に礼を言って、エントランス正面にある螺旋階段を上っていく。途中の踊り場で二手に分かれるそれを左に曲がって再び階段を登り、書架がズラリと並ぶ開架スペースへと足を踏み入れた。
敷き詰められた絨毯が足音を消してくれるため遠慮なくズカズカと速足で進んだ先、いくつもの扉が並ぶ廊下に辿り着く。中央に宝玉が嵌め込まれた各扉上部に光っている数字番号から『24』を見つけ出し、手に握っていた学生証を扉にある宝玉に翳した。
音もなく内側に開いた扉をユリウスの従者が押さえてくれるのに礼を言い、その横を通って室内に入る。
リリカは内部壁面にある宝玉に学生証を当てて、室内管理システムを起動させた。とはいえ、日当たりの良い部屋には暖かな陽光が差し込んでいる、室内灯は付けなくとも良さそうだ。空調をどうしようかと考えながら4人掛けの木机に荷物を置いて、従者から鞄を受け取るユリウスに声をかける。
「私は資料本を取りに行くけど、ユリウス君はどうする?」
「ええと、資料は揃っているので先に始めています。……リリカ先輩、ありがとうございました。無理を言ってすみません」
そう言って形の良い眉を下げる後輩に、リリカは手を振って気にするなと返す。
「どうせまた婚約者か愛人の立候補者に付きまとわれてるんでしょ。まだ14歳なのに大変だね、お貴族さまは。……室内システム起こしといたから、空調陣は好きにいじっていいよ」
15歳のリリカでも結婚や愛人は遠い世界のことに思えるというのに、このユリウスはまだ14歳でありながら結婚や肉体関係を迫る異性―――ときどき同性にも―――困らされている。本人がそれでいいならいいが、ユリウスはそうではない。リリカは他人事ながら同情した。高位貴族というのも大変である。
***
目当ての書籍を3冊腕に抱えて部屋の前に戻れば、予想はしていたが、なかなかに刺激的な服装のご令嬢が扉の前で腕組みをしていた。具体的に言うと胸元がバーンでたわわなアレが零れ落ちそうな感じだ。
(あー、今回は婿養子希望者だったか)
ユリウスは顔よし、家柄よし、性格よし、武功よしという貴族令嬢の理想でできた結婚相手だ。その上、次男坊で実家を継ぐ必要がない。新たに分家を立てることも、婿養子になることもできるとあって、幅広いお家事情の令嬢からラブコールを受けている。
ただ、過熱する婚約争奪戦とは裏腹に本人はそこまで結婚に乗り気でなく、貴族の婚姻適齢期である14歳になってから集る虫の多さに参っているらしい。なんとも気の毒な話だ。
(仕様が無いなぁ)
素知らぬ顔で24番自習室前へ行き、たわわな御令嬢にヘラリと微笑みかけた。
「あのーそこの部屋に入りたいので、ちょっとだけ退いて頂けませんでしょうか」
令嬢の視線がリリカに向けられ、蔑むように細められる。へいへい、お貴族様。下賤なものが話しかけて申し訳ありませんねえ。
「貴女、あたくしが誰か分かって話しかけていらっしゃるのかしら」
知ってる。没落寸前な伯爵家の三女殿だ。シャウムブルク学園は六年制の学校だが、そこから更に専攻分野を深く学ぶための高等学術院があり、彼女はその三年生である。確か、今年で21歳になるハズ。
リリカはおじ達から学園在籍者全員の顔と家柄、背景情報を叩きこまれている。定期的に家に来ては木机一杯に姿絵を広げ、それぞれを指差しながら、この女生徒はこうで、この教授はああだと説明してくれるおじ達に、どうやってそれだけの情報を得たのかと、リリカは怖くて聞けていない。
***
ヴァッレン帝国では、目立った武功がない貴族家は爵位を降格或いは剥奪される。武功に代わる内政上の貢献や上位貴族の執り成しがあれば別だが。で、このたわわ令嬢のご実家は手っ取り早い上位貴族へのコネと武功を一挙両得で獲得するために、帝国有数の武闘派貴族家であるノイス侯爵家当主の実弟ユリウスを狙っているというわけだ。
(お貴族様も大変だなぁ……)
大変だが、だからといって扉の向こうにいる後輩を人身御供に差し出すつもりはない。先輩を揶揄ってくるような少年ではあるが、あんなでも可愛い後輩なのだ。
「存じ上げております」
伯爵令嬢には申し訳ないが、時短のために伝家の宝刀を抜くことにする。最近、自習室内で待っている後輩のために使いまくっているため、もはや伝家の宝刀というよりキッチンの三徳包丁レベルの利用頻度だ。
「私の後見人は名をオイゲン・バルチェと申しまして」
『オイゲン』で目を見開いたご令嬢は『バルチェ』で後退って見せた。それにニコニコと笑いかけてリリカは一歩を踏み出した。
「ご無礼がありましたら、御家に後見人と一緒に謝罪にお伺いいたしますが、如何致しましょう」
「そ、そういえば用事があったのでしたわ。ごきげんよう」
ごきげんようとご令嬢の背中に返して、ようやく近づけた扉に学生証を翳しながらリリカは苦笑した。
(オイゲン伯父さん、ちょっと亡くなった伯母様への愛が重いものなぁ)
リリカの伯父オイゲンは帝都ではちょっとした有名人なのだ。―――帝都屈指のホラースポットの住人として。
***
伯父のオイゲンは、以前あった魔獣の大攻勢で奥さんを亡くしている。伯母は騎士として魔獣戦線で名誉の戦死を遂げたのだ。それだけならばよくある話なのだが、伯父が凄かったのは、伯母を忘れまいと周囲の全てを彼女で埋め尽くしたことである。
伯母と暮らした館は、彼女の絵姿が所狭しと飾られ、壁紙と天井の壁画は伯母の肖像画が隙間なく描かれ、挙句の果てに、庭すら上空から見ると伯母の顔に見えるように庭木が植え替えれられた。
どの方位から見ても亡き夫人の顔が見える恐怖の館となった伯父の家は、今では帝都に住むものならば誰もが知る定番ホラースポットとなっている。
そのお陰で道路を挟んで向かいの住人が住んでいられるかと手放した邸宅が、今リリカたちが住んでいる、6人家族にはやや部屋数が多い中庭付きの屋敷だ。さすがに良心が咎めて適正価格で買ったと父が言っていた。近隣には同じように手放された家があり、それぞれおじ達が所有して住んだり、別宅にしたりしている。
リリカは窓の向こうに伯母の顔が見えても特に気にしないが、人によってはノイローゼになるレベルらしい。
ちなみに、オイゲン伯父が着る服は全て裏地に伯母の顔が刺繍され、伯父が職場で使うものほぼ全てにワンポイントで伯母の精密肖像画が描かれている。伯父に話しかければ、気づけば伯母のエピソードが挟まり、機嫌がいい時の鼻歌は伯母への愛の歌で、機嫌が悪い時にはずっと伯母の名を繰り返し呼び続けている。
―――端的に言ってヤバイ人である。
それでも彼が高級官僚であり続けているのは、純粋に優秀で取り換えのきかない人材であるためだ。彼のシステム構築系魔導陣の開発能力は比類ないもので、この図書館の運用システムも元々は伯父の発案らしい。伯父は、彼がいなければヴァッレン帝国の発展が100年確実に遅れると言われている大天才なのだ。
利用するには狂人すぎ、始末するには有益すぎる伯父に関わることは、貴族社会のタブーとなっているらしい。
そんな触れるな危険の歩く地雷が後見人と知れば、大抵の貴族は勿論、学園に少しだけ在籍する平民もリリカを遠巻きにするのは当然のことであった。
そのため入学当初、なかなか友人ができず苦労した。リリカ自身が無害な野ネズミと認識されてからは、どうにか同じ平民階級の友人ができ、貴族相手でも他愛無いおしゃべりくらいはできていた。
―――が、最近後輩のために頻繁に≪魔除けの護符≫を使っているため、再び周囲に避けられ始めている。
少し涙目なリリカであった。




