【1】なんだって野ネズミは学園に紛れ込んだのか。
――自分が嫌いだった。何者にもなれない自分が。
立場も身分も家柄も、なにもかもが違う相手に、震える手を伸ばした。
許されないと思ったその手を、血豆だらけの荒れた手がすくいあげてくれた。
それだけで十分だった。……十分だったのだ。
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リリカはシャウムブルク学園の五年生だ。腰まであるミルクティー色の髪を組紐を絡めた三つ編みにして一本にまとめ、短く切り添えた前髪の下で紅玉色の瞳を輝かせて学園に通う彼女は、今年で15歳になる。丸顔で小柄な体格の彼女がせっせと動き回る姿からついた渾名は『野ネズミ』。
可愛いらしいと捉えて呼ぶ人もいれば、出自を揶揄した蔑称として使う人もいる。そんな呼び名だ。
どちらの意味でも「はい、何ですか?」とリリカはニッコリ笑って呼び声に答える。笑顔は武器だ。相手に対し敵意は無いと示し、友好を伝える手段。たかだか頬にある筋肉の位置一つで無用な諍いを避けられるならば安いものと、リリカの対貴族対応の師匠リオンも言っていた。
だから、リリカは学園ではいつも基本的に笑顔だ。
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シャウムブルク学園といえばヴァッレン帝国随一の高等教育機関であり、帝室や高位貴族、近隣諸国の王侯貴族が学びを通して人間関係を構築していく小さな社交場でもある。そんな場所に通う彼女もまた貴族階級――ではなく、生まれも育ちもド庶民だったりする。
『野ネズミ』の由来は一部ここから来ている。平民階級の生れの卑しい矮小な存在という意味だそうだ。リリカはヘッと鼻で笑った。じゃあ、御貴族様は『家猫』とでも呼べばいい。国に飼われて首輪を嵌められ、決った場所で暮し、決った餌を食べ、決ったおもちゃでしか遊べない。そんな人生、こちらの方からお断りである。
そう言ったリリカに、対貴族対応の師匠リオンはニコニコと微笑んだ。
「そういう、リリカちゃんの図太いところが好きだわ。でも、お外でそれを言ってはダメよ。言うのはね、窮鼠猫を噛んで相手を絶命させる一秒前に、そっと耳元で囁く時だけになさい」
――本当に怖い人かどうかは、身分ではなく本人の本質によるとリリカは思っている。
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リリカの住まうヴァッレン帝国の当代皇帝は内政に力を入れており、優秀な技術官僚を出自を問わずに育成する政策の一環として、シャムブルグ学園に平民枠と難民枠を設立した。とはいえ、その合格者枠は両手に満たない人数だ。針の孔よりも狭いその狭き門をうっかりくぐってしまったのが、平民リリカである。
本当にうっかりしたのだ。
リリカは確かに文官を目指していた。だがそれは、国策に携わる高級官僚なんてものではなく、下町にある平民向け役所で役人としてのんびり働けたらなぁ……程度のものだったのだ。
定職について親を安心させ、老後の心配なく平和に暮らしていきたかったリリカは、将来的に下級役人試験を受けようと思っていた。そのぐらいが身の丈にあっているからだ。それなのに、なんでうっかりシャウムブルク学園を受験する羽目になったかと言えば、ちょっと迂闊だったためだ。
リリカの父親には兄弟が一杯いる。総勢14名もいるおじ達は、全員が種違いでありながら仲が良い。そんな彼らのうちの一人の前で、うっかり「将来は役人になりたいなぁ」と軽い気持ちで言ってしまったのが運の尽きだった。
リリカは失念していたのだ。彼らが最初の姪っ子にかける愛情の深さを。
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あれは、7歳の時だった。
まず、話を聞きつけた伯父のオイゲンが目を輝かせて家に押しかけた。平民出身でありながら高級官僚をしている彼は、山ほどの役人試験の参考書と過去問題を持って来た。
家の食堂にある大きな机に書籍と紙束をうず高く積んだ彼は、おすすめのキャリアコース解説書なるものをリリカに手渡してきた。紙切れ一枚ではない。きちんと製本された書籍だ。なんと世界に一つだけのお手製だった。ちなみに全文及び挿絵はオイゲンの手書きである。
人差し指一本分の分厚さのあるその本には、高級官僚になるための各種試験と、どの試験に合格すればどのような役職の省庁官僚になることができるかと、それぞれの省庁で携わることができる政策分野の解説が事細かに記載されていた。
それだけでなく、職種ごとの安全性や職場の人間関係、男女比、離職率、勤務年数や役職ごとの給与及び将来貰える恩給、退職後に『顧問』などとして斡旋される民営会社役職の実例まで調べてあった。
どう考えても外部に漏らしてはいけない情報がサラッと書かれている。リリカは戦慄した。内容を覚えた後、家の中庭で燃やして一文字も残さずに灰にしたリリカを誰か褒めて欲しい。
余談だが、オイゲンが所属する各省庁の基幹システム構築部門は赤枠で囲まれており、太字で『オススメ!!!』との書き込みがあった。亡き叔母がウインクする挿絵まで付けられていた。
一か所だけ付箋が付けてあったので、伯父から手作りの解説本を受け取った時にうっかりと開いたら、その『オススメ!!!』が目に飛び込んできたリリカの気持ちが分かるだろうか。
期待に瞳をキラキラと輝かせた伯父は、目の下に隈をベッタリとつけながら嬉しそうに笑っていた。恐らく、この資料を搔き集めて手製の解説書まで作るのに随分と無理をしたのだろう。
彼は宮廷勤めの高級官僚の中でも激務の役職についており、亡くなった奥方の姿絵を眺める以外の私的時間は寝るか食べるか気絶するだけだと親戚一同に心配されている人なのだ。……下級役人になりたいなどと今更言い出せる空気ではなかった。
とりあえず伯父の解説書に載っている『おすすめキャリアコース(オイゲン伯父さんと一緒にオシゴトしよう!編)』にあるシャウムブルク学園の平民枠受験コースを目指すことにした。
適当に受験して、順当に落ちて、やっぱり私には無理でしたとでも誤魔化すかと考えていた7歳のリリカは愚かだった。人生そう上手くは行かないことを5歳の時に実感していたのに、それをうっかり忘れていたのだ。
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次に来襲したのは伯父のルドルフだった。父の長兄である。我が親族内の最高権力者であり、富裕層向け資産運用管理会社を経営している彼は、リリカの両親も結婚や仕事、育児で世話になっていて頭が上がらない相手だ。
「リリカ、シャウムブルク学園の平民枠に受かるというのはとても難しいことです」
真剣な顔のルドルフが来客用ソファーの向こうから静かな声で言うのに、リリカは安堵した。
(そうです伯父様。私では無理です。諦めるように説得して下さい。そしたら喜んで『残念ですが諦めます』と上手にがっかりしてみせますから)
期待に胸を膨らませた彼女にルドルフ伯父様はおっしゃった。
「ですが、あれ以来何かを為したいと言ったことのないリリカが決めた将来の夢です」
(んん? 雲行きが怪しいぞ?)
嫌な予感がするリリカに、彼は宣言なさった。
「我々親族全員が全力でリリカの夢を、前回の分まで応援しましょう。資金は私が用意します。勉強もサポートしましょう。大丈夫、今からでも十分に間に合いますよ」
―――死刑宣告だった。神は死んだし、望みは絶たれたのだ。腹を括るしかなかった。
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そこからの数年は思い出しても胃が痛くなる毎日だった。実際に神経性胃炎を患って、家族には内緒で神官職の叔父テオフェルに≪聖魔法≫を掛けてもらった。叔父はそんなに辛いならやめるか? とリリカの頭を撫でたが、彼女は俯いたまま首を横に振った。やると決めたらやる女なのだリリカは。
文字通り血反吐をはきながら机に向かい勉強する毎日が続いた。
実技試験は免除を申請した。ヴァッレン帝国は世の大抵の国家と同じく魔獣撲滅至上主義国家だ。王侯貴族が特権階級たりえるのは、魔獣に対する有効な生きた対抗手段であればこそとされる。
その貴族社会でも頂点に将来立つ人間達が学ぶシャウムブルク学園の試験に『魔獣討伐実技試験』がないはずがない。しかし、今回リリカが受験するのは『平民向け文官特化コース』だ。魔獣戦闘の必要がない職種に、戦闘に不向きな低魔力平民層の知的エリートを採用するための合格枠である。特例として実技試験免除の申請が許されていた。
一応、参考情報程度の扱いだが、魔獣討伐試験自体は受けられた。本命の学科試験が同点だった場合、この魔獣討伐試験結果が合否判定の参考になるらしい。だが、あえての免除申請であった。
現役傭兵をしている叔父のルーベンと現役魔獣戦線帯同神官をしている叔父のテオフェルが、リリカの両肩にそれぞれの片手を乗せて首を振った。
「「……やめとけ」」
―――うるさいやい。私に父さんみたいな戦闘魔法の才能も母さんみたいに人を治す才能も無いのは5歳の時に身に染みて分かっている。
古傷をえぐられたリリカは、二人を涙目で睨みつけて、しぶしぶと頷いた。
***
面接試験対策には、伯父であるルドルフの知人だという女性を紹介された。
「面接試験には試験官として学園教師だけでなく、学園の卒業生である高位貴族もいます。彼女との会話に慣れておけば、たかだか伯爵や侯爵程度では緊張しなくなりますよ」
そう言って伯父に手を引かれて行った先、帝都神官居住区にある集合住宅の一室で出会ったのが、白金の髪に碧眼を持つ年若い女性リオンだった。清潔感はあるが古びた平民服に身を包んだ彼女は、リリカの前で膝を付き、紅玉の瞳を丸めた少女に微笑みかけた。
「まあ、可愛らしいお嬢さんだこと」
(このお姉さんが面接対応の先生? 美人ではあるけど普通の平民では?)
首を傾げるリリカに、目前の碧眼がゆるりと細まる。
「あら、感情表現が素直ね。……貴族の良い餌になるタイプだわ」
ゾクリと背筋が泡だった。まるで別人だった。笑い方一つだ。だが、それだけで感じる覇気が全く別物になった。反射的に背筋が伸びる。これは――逆らってはならない相手だと、本能が悟った。
そんなリリカに、その貴人はふわりと微笑んだ。笑っているのに笑っていない瞳で。
「まずは、笑顔の練習をしましょう。他の表情は追々に。……大丈夫よ。面接官程度の貴族階級ならば、この私とお茶ができるようになる頃には路傍の石と変らなくなりますからね」
本当だった。支配者モードのリオンと震えずに会話できるようになったリリカは、入学試験の面接官との質疑応答でも笑顔を崩さずにスラスラと志望動機と希望進路、学園での抱負を述べられた。
後に思ったのだが、恐らく、リオンとの面接練習は貴族どころか王族クラスの難易度だった。そんな優秀な教師役を見つけてきた伯父ルドルフに感謝しつつも、スパルタにも程があると涙目になったリリカだった。
リオンとの交流は、彼女が家庭の事情で引越すまで続いた。つい最近、半年ほど前にリオンの息子レオンの結婚が決まり、相手家族と一緒に暮すことになったのだ。案外彼女が人見知りなことをもう知っていたリリカは、大丈夫かとリオンに尋ねた。
「……まあ、なんとかなると思うの。ならなさそうならば、この帝国ごと全部無かったことにしてもいいのだし」
茶器を片手にのんびりと微笑む貴婦人に、リリカは強ばりそうになった表情筋をひっぱたいて笑って見せた。
「わ、わぁ……リオンさんが言うと本当になりそうで怖いナァ……」
――繰り返すが、本当に怖い人間かどうかに身分は関係がない。リリカのおじ達もリオンも全員平民だが大概な人物ばかりだ。彼女は身に染みて理解していた。本当に怖い獅子というのは、身分に関係なく、案外近場でのんびり昼寝していたりすると。
リリカは魔獣戦線を守護する軍神に祈った。
(寝ているリオンさんの尻尾を踏む馬鹿が出ませんように)
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勉強漬けの毎日の果て、シャウムブルク学園に合格したのは10歳の夏だった。
シャウムブルク学園の入学試験を受けられるのは9歳から12歳までとされている。担当魔獣戦線の戦況次第でお家事情が変わる貴族に配慮したシステムらしい。
初受験であっさり合格したリリカは、優秀な平民特別枠合格者として目出度く王侯貴族向け難関学校に御入学と相成った。無事に合格通知書が家に届いた時には、色んな意味で涙が出た。後ろで歓声を上げる両親や弟達、おじ達にもみくちゃにされて祝われながら、リリカは内心で泣き叫んだ。
(コネも戦闘能力もない平民が本当に受かると思わないじゃん!!!)
――うっかり帝国一の名門校に入学してしまった野ネズミの学園生活はこうして始まった。