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中国の歴史と泰明一家の暮らし

江戸幕府の末期には、外国船の度重なる来訪により開国が促された。特にアメリカのペリー船団が浦賀沖に現れ強く開国を促した。彼らは日本近海における捕鯨等の漁において燃料や食糧等の供給基地として、また清を始めとするアジアへの新しい貿易ルートの拠点として開国を求めた。幕府はこれを断り切れず一八五四年に孝明天皇の許しを得ないまま日米和親条約を結んで開国した。さらに一八五八年には日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約を各国と結んで貿易を開始した。

明治維新以降、急速な近代化を遂げた日本は海外進出にも積極的になっていった。特に経済的な要因が大きく、海外市場の開拓や原材料の確保を目的にアジア諸国への進出を図り、国際的な地位向上や軍事力の強化を目的として植民地の獲得にも意欲的であった。

 一九世紀末から二〇世紀にかけて、清国、ロシア、日本などの列強が影響力を求めて争い、日清戦争、日露戦争を経て日本が朝鮮を保護国化し一九一〇年には併合した。

 満州(現中国東北部)に関しては一九三二年、日本軍の謀略による満州事変により創設された傀儡国家であった。地域としては現在の中国東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)、内蒙古、熱河省からなっていた。

 首都を新京(中国名は長春)に定め、日本民族、満州民族、漢民族、モンゴル民族、朝鮮民族の「五族協和」による「王道楽土」建設をスローガンとし清朝最後の廃帝である愛新覚羅溥儀を執政に迎えた。 一九三四年から溥儀を皇帝として帝政に移行した。溥儀傘下の大臣は満州族で占められたが要職は関東軍司令官のもと日本人が掌握した。一九四五年八月に対日参戦したソ連軍に満州が占領されるまでの約一三年間続き、敗戦により消滅した。

 日本政府と軍部は獲得した満州に自国民を住まわせて既成事実を着実にすることを目指すことになった。そこで農村部や都市部の別なく日本すべての都道府県から農業開拓移民が送り出された。泰明の父は、満州の官吏として満州に渡った。

この時期は日本が恰も昭和の大恐慌で疲弊しており過剰人口の口減らしも背景にあったが、ソ連、蒙古、中国に囲まれた地域であり軍事上の必要性も大きかった。いわば屯田兵的な意味合いもあった。

屯田兵とは明治時代に北海道で農業を営む傍ら戦争が始まると軍隊の組織として戦うことを目的とした土着兵のことである。

 次に日本が入植する以前の満州という広大な土地の簡略な歴史を概観してみよう。

 一九一一年、中国で辛亥革命が勃発した。これは対英のアヘン戦争や対英仏のアロー戦争、日清戦争、排外運動としての義和団事件等、内政外交ともボロボロになっていた清朝を打倒し、共和制国家を樹立しようとした中国人による武装蜂起であった。翌年、清の最後の皇帝である宣統帝が退位し二千年続いた帝政がついに廃止されアジア初の共和国である中華民国が成立した。初代臨時大統領は孫文であったが、すぐに袁世凱に交代した。

 米英仏独露に日本を加えた当時の列強は、中国の混乱に乗じて権益を奪おうとするが、第一次世界大戦が勃発し、欧米各国はアジアに手が回らなくなった。ロシアではロシア革命が起きて王朝が倒れソビエト連邦が誕生した。

 中国では袁世凱が帝政復活を試みるが失敗し、各地に軍閥が割拠し内乱に突入した。この混乱期に第一次大戦の連合国側で戦って勝った日本は山東省、パラオ、マーシャル諸島などのドイツの権益を得た。

袁世凱に対しては中国での権益確保を目論んで「対中二十一カ条」要求を突き付けた。さらにロシア革命に乗じてシベリアに出兵して居座り、なかなか引き揚げずロシアと険悪な関係になった。

 これを見たアメリカは中国権益確保に懸念が増大したため、巧妙に動いて日英同盟を破棄させた。日本国内では軍需品の輸出で急激にインフレが進み、戦後は不況に見舞われることになった。 

 一九二七年、孫文の死後国民党の指導者となった蒋介石は南京国民政府を設立し、共産党勢力とも接近し、当時満鉄を初め満州にあった日本権益を取り返そうと抗日姿勢を強めた。翌年、満州を支配する張学良が合流し国民党による全国統一が実現した。張学良の父親は張作霖であったが、彼が日本との距離を取り始めたとして関東軍が列車ごと爆殺していた。そのため息子の張学良は明確に反日の姿勢をとるようになっていた。

 その頃、日本では帝国陸軍内部において、満蒙問題の根本的解決を企図するグループが結成された。中央では永田鉄山、鈴木貞一、関東軍では石原莞爾、板垣征四郎らがいた。

 一九三一年九月一八日、南満州鉄道の奉天郊外、柳条湖付近で爆発が起きた。これは板垣関東軍高級参謀と石原関東軍作戦参謀が軍事行動の口火とするため仕掛けた謀略であった。しかし、陸軍は「張学良の破壊工作」と発表し、直ちに関東軍を動かし電光石火の勢いで主要都市を占拠し中国兵を追い払った。同時に林銑十郎率いる朝鮮軍が独断で朝鮮と満州の国境を越境し関東軍と合流し満州各地の占拠を図った。このような軍隊の越境には、本来、天皇の裁可が必要であった。

 この事件に関して若槻礼次郎総理大臣は、このような軍隊の行動に反対していたが、最終時に「出てしまったものは仕方がない」と承認し、必要な予算も認めるに至った。

 このような経緯を辿って満州は日本が統治するに至る。この事例のように原則は無視して世論に阿り、既成事実に弱いという態度が往々にして国策を誤る。国民は、軍隊の無謀な行動を追認し、逆に軍を応援してメディアの書き立てる戦争翼賛に同調した。特に朝日新聞は満州事変を境に、軍部批判から戦争の翼賛に転じたことはよく知られている。

 その後の太平洋戦争でも、「鬼畜米英」と米英を敵視して罵る。そして戦争に負けると一夜にしてマッカーサーを崇拝する、これが日本人の習性だとすると、何とも情けない国民性なのだと考えざるを得ない。権力者には無批判に従い従順な態度を示す。自然災害の多い日本では、天災をやむなしとして受け止めてきた姿勢は権力者にも適用しているという説がある。

 戦後の日本人は、無謀な戦争を始めて無残な敗戦を迎えた責任をすべて軍部のみに押しつけ、アメリカから与えられた民主主義という乗り物に乗り換え自らの責任には無自覚なのかも知れない。

 無謀な戦争といえども軍部だけで始めることはできない。軍部が率先して仮想敵国を想定し、戦争の準備をし、先制攻撃をする。この過程でメディアは、軍部を忖度して軍部と読者が喜びそうな書き方をし、発行部数を増やして自らの経営を最大化する。

読者は、メディアが持ち上げる軍部が戦って日本の領土拡大してくれると期待する。一人の日本人としても自分にも利益がもたらされるかも知れない、と期待し戦争に積極的に協力することになる。

 ル・ボン「群衆心理」には、「群衆は暗示を受けやすく、理性の働きが低下し衝動的になる」と解説されており、権威主義的な政府を持つ国民には、このメカニズムが働いていたのかも知れない。

それに比べるとパンデミック下での五輪開催の可否について国民の意見が二つに分断されていたことは、むしろ健全だったのかも知れないとも考えられる。

 このような政府・軍部、メディア、国民という構図の循環が戦争を可能にするのではないか。これはラジオ等に使用される電気回路の増幅器に類似している。増幅器は微弱な電波を強めるが、政府の言明をメディアが増幅し、一部の国民が大声で叫んで世間に全員の意見のように広める効果があり、戦争ムードを醸し出す。政府が一方的なプロパガンダを可能とするラジオの出現は戦争推進に大いに役立ったといえよう。さらに戦争の経過を一刻でも早く知りたい国民にとってラジオは必須アイテムとなり、短期間に広く普及していった。

 満州事変の直後、朝鮮派遣中の日本軍隊が天皇の許可なく満州に向けて越境したことを当初は政府が認めなかった。しかし、メディアを通して大多数の国民が越境を歓迎し、政府が国民の声を受け止めて許可するに至ったのである。日本が満州を獲得したことは国民の後押しがあってのことだったのである。

 しかし、この事件を国際社会が黙って見ていた訳ではない。この後の経過を辿ってみれば、日本が敗戦に至る大敗北する運命を定めたのかも知れない。満州に拘泥し、さらに中国への進出をしたことが日本を無謀な戦争に導いたからである。

 日本による満州の獲得は関東軍の行動のみで説明することは必ずしも妥当ではない。技術革新により、生産力が拡大していくと生産物を売りさばく市場の確保が必須となる。そこで市場としての植民地の確保に熱中することとなる。西欧列強は、その矛先をアジアにも向けるようになっていく。

遅れて参入してきた日本としても無関心ではいられず、近隣の朝鮮や満州にも関心を示していく。(朝鮮派遣中の日本軍隊が天皇の許可なく越境し国民がメディアを通して歓迎したことがその後押しとなった) その結果、獲得したのが朝鮮半島であり満州であり、中国大陸への進出も狙っていたのである。

 この歴史的な経緯が幼時の私が一時期、満州に住んでいたことの説明となる。そして日本が満州を獲得したことに対して欧米、主としてアメリカ政府はリットン調査団を派遣して日本による満州獲得の経緯を調査して報告書を発表した。

 その報告書には「満州事変は侵略であると認めているが、日本の満州における権益を認めるという妥協的」なものであった。それにも関わらず日本がそれを受託しなかったということは、満州支配という実利よりも、国家の威信、または軍の威信を優先したからだろうか。多くの国民は、その交渉にあたった松岡代表が決然と国際連盟総会を退場するニュース映像を見て快哉を叫んだ。(ここにも国民による領土獲得への執着が見てとれる)

 しかし、この決断は日本がアジアの中で孤立し本格的侵略国家として抜き差しならぬ歩みに入った契機でもあった。

 さらには米英仏等と対立する立場にあり、ポーランドに突然攻めかかったドイツ、それを容認したイタリアとの三国同盟を結んだことは、日本の立場を決定的に定めることとなった。これは軍事同盟であり、日独伊の三国は、相互にその指導的地位を尊重し、他国から攻撃された時は相互援助することを約束したものであった。

 しかし、日本が独伊と同盟を結んだことは、既に分かっている歴史からは大失敗であった。ヒットラー率いるナチス・ドイツは自由と民主主義を掲げる米英仏などの陣営を敵視し第三帝国の設立を目指しており、ドイツ人を含むアーリア民族は優秀でユダヤ人を含む他民族を劣等視していた。

そしてユダヤ人を根絶やしにする政策を進めていた。第一次大戦で敗退し支払い能力を超える賠償金を課されていたドイツは、それに反発してポーランド侵攻を皮切りに後に第二次大戦と呼ばれる戦争を起こし、最初のうちは怒涛の進軍により欧州各国を席巻した。それを見た日本軍は、欧州はドイツ、アジアは日本がそれぞれ盟主として統治する方針のもと、周辺国を侵略していった。日本はアメリカの準州ハワイの真珠湾を先制攻撃してアメリカとの戦争の火蓋を切った。

 この対米戦争が無残な敗戦に至ったことは日本人の誰しも知るところである。(もっとも近年の若者には、日本がアメリカと戦争したことも知らない者がいるらしい)

 満州は、日本の敗戦と同時に日本の手を離れ、中国に返還された。しかし、旅順租借権と大連の優越的地位はソ連が継承していた。(ヤルタ協定の秘密条項に基づく)一九四九年に中華人民共和国が成立するとフルシチョフ政権下で中国に返還された。

満州等の外地に居た日本人が帰国し、狭い国土しか持たない日本の国土にひしめきあうことになったのである。


      三

 泰明一家は父を失い、日本に帰国したが、戦後は日本中が食糧難にあえいでいた。その原因は様々あり、海外に出ていた日本人(兵士や海外で暮らしていた日本人)の帰国や食糧輸入が戦争と敗戦で途絶えてしまっていたこと等である。終戦時、日本列島で生産される食糧により賄える人口は六千万と言われ、海外から兵員、民間人が帰ってくると総数は八千万と言われていた。差し引き二千万人の食糧が不足することになった。食料自給率は七割弱で、食料輸入が期待できない時期だったことが食糧難となったのである。

 現在は、食べ物の廃棄が問題となっているが、食料自給率は当時と変わっていないので、輸入が途絶えると日本人は食べていけないのである。その意味では、日本はどの国とも戦争してはならない国なのである。先の大戦の間、国民(当時は天皇の赤子として臣民)は、常に食料に飢えていた。狭い裏庭を耕して野菜を栽培したりして凌いだ。当時は情報統制が厳しかったので飢えて餓死する人がいたかも知れないが、国民がそれを知ることはできなかった。

 戦後は、情報統制の重しがとれたが、食料を含む物資が不足し、配給制度に頼っていた。それだけでは食べていけないので、国民はヤミ米等に頼らざるを得なかった。東京地裁のある三十歳代の判事は闇米を自分が食べながら、それを扱う人を裁くことはできないとして闇米を口にしなかった。そのため栄養失調が原因で肺の病気で亡くなるという事件があった。

 日本の食糧事情のあまりのひどさに戦勝国アメリカの民間団体が慈善事業としてララ物資という名称で食料援助をしてくれた。学校給食にも提供されたが、脱脂粉乳の評判はよくなかった。

 戦後の混乱期を過ぎると北朝鮮が突然韓国に攻め込んできた。日本統治下の朝鮮は一つの国であったが、米ソ冷戦を受け、朝鮮半島は三八度線を国境として南北に分かれていたのである。最初は北朝鮮の怒涛の進撃で、韓国最南端の釜山まで追い詰められたが、アメリカは国連軍を組織してマッカーサー指揮のもと、北朝鮮の仁川に上陸して反撃を開始した。やがて南北の勢力は拮抗して、もとの三八度線を国境として休戦状態となった。

 戦争で疲弊していた日本は、朝鮮戦争の国連軍、米軍を後方支援するため物資の増産が必要となり、景気がよくなってきた。隣国での殺し合いが日本の戦後復興を加速させるという皮肉な状態を現出させた。

 そんな戦後の情勢の中、泰明の母は進駐軍のキャンプに働き口を見つけて一家を養い、貧しいながら糊口を凌いだ。

 やがてシベリアに抑留されていた元日本兵士が帰国し始めた。

 


 泰明は、父を失い母と弟妹の四人で港町にある父の実家に落ち着いた。しかし食糧難の中、長居することは困難だった。母は早朝、港で水揚げされる魚を仕入れブリキ缶に入れて担ぎ汽車に乗って山奥の農家に売る商売を始めた。泰明も学校が休みの日曜日には母と共に魚を担いで手伝いをした。

 やがて母は近在にある進駐軍のキャンプに職を得て、そこで働くようになった。


 貧しいながら生活も安定したある日、近所の人からラジオの尋ね人の時間にあなたの名前が呼ばれていたと教えてくれた。当時は、戦後の混乱期であり、戦災や外地からの引揚げなどで、行方不明になっていた人等の消息が分からなくなった人を探すためNHKが「尋ね人の時間」という番組を放送していた。例えば、次のように放送していた。


「昭和二〇春、〇〇部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の「尋ね人」の係へご連絡ください」


 泰明の母は、早速、近所の電話を借りて日本放送協会(NHK)へ連絡してみた。

そこで分かったことは、満州の延吉市の我が家に一泊してシベリアに連行された吉田さんが泰明たちの消息を尋ねているということだった。NHKは、吉田さんの連絡先を教えてくれた。

 母は、その連絡先にあたり、吉田さんの消息を知ることができた。吉田さんは帰国してみると家族が空襲の直撃を受けて亡くなっていることが分かったとい

う。天涯孤独となった吉田さんは、満州で一夜の宿をさせてもらった泰明一家と交流したいという。吉田さんは母の紹介で進駐軍の基地で働きながら絵画の勉強を続けた。暫くすると、その基地にジャズバンドが慰問にやってきた。

 吉田さんが、そのバンドの人たちと話していると、ボーカルを担当している女性は満州からの引揚者で田中さんという人だと判明し田中さんと満州からの引揚げ体験などを話し合い親しくなっていった。そして、この二人が時期の相違はあったが、泰明の家に宿泊したことがあることが分かった。

 

泰明は母とともに吉田さんと田中さんに会うことになった。二人と会うと、泰明と母は、感情が溢れてきて涙が瞼を濡らした。吉田さんと田中さんも同じように目を赤くしていた。暫くして積る話が次から次へと湧いてきた。

満州という日本の傀儡国家で戦時下に出会った人々との体験は脳裏に焼き付いており、厳しかった当時を想起し懐かしさとないまぜになり、それらの断片は涙を誘わざるを得なかった。

郷愁とともに軍国主義国家だった日本の変貌について行けない思いもあった。その後、日本は朝鮮戦争等で日本経済を回復させながら戦後の時代を刻んでいく。そしてそれは日本が満州を傀儡国家としたように戦後は日本がアメリカの傀儡国家として存在することとなったのである。

吉田さんは、働きながら絵画の勉強に打ち込み、画壇において一角を占めるようになっていった。一方、田中さんは歌好きが昂じて歌手の道に進み、ラジオにも出演するようになっていった。

吉田さんと田中さんは、親しさを通り越して相思相愛の仲になり、結婚することとなった。


その後、吉田さんはシベリア抑留体験を思い出して、抑留中のシベリアの風景画シリーズに取り組むようになった。妻となった旧姓・田中さんは、夫に影響されてロシア民謡を愛好するようになり、出演する演目に加えるようになった。

日本はロシアには煮え湯を飲ませられるようなひどい目にあったが、ロシア民謡には人々の心に響く哀愁があった。政治とその国の民謡は無関係である。(非情な政治が哀愁のこもる民謡を生むかも知れないが)

その国が育んだ歌や芸術は、その国に住む民族の歴史で育まれたものである。

傀儡国家であった満州は一三年間存在していた様々なドラマを生む大地であった。そして日本の近現代史には詳しくは記述されない負の歴史であったが、日本人はこの歴史から何を学び、何を現在に反映させるべきなのか深く考察するべきではないだろうか。

                (完)


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