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秋津冴作品集

毒殺令嬢と薬師の華麗なる報復

作者: 秋津冴

 一人の若者がなだらかな丘陵を歩いていた。

 暑い季節だというのに、目深に灰色のフードとマントを着込んだその外観は怪しい以外の何者でもない。


 時折、その口元があらわになると深く頬に刻まれた皺と肌のくたびれ具合が年齢を語っていた。

 夏の若草が生い茂る膝下ほどまである高さのそれらは、彼の足取りを容易にしてくれず、履いている長靴の裾が草むらの下に隠れてしまいそうな不便な道なき道を、男は行こうとする。


 目の前に広がる丘陵の左手には断崖が口を開いていて、草どものおかげで大地と空白な場所との境目がすぐには見て取れない。


 もしかしたら数歩先には亀裂が足元を飲み込むかもしれず、彼はその点においてだけ用心をしつつ、手にした粗末な棒っきれを杖代わりにして、緑の原を探りながら歩を進める。


 やがて緑と黄色と茶色に景色が塗り替えられた。

 それまでの草原と断崖と、麦帆のような褐色の背丈の低い別種の草が、そこの一面をまだら模様に変えていたのだ。


「さて、と。このどれがそれにあたるのか。あーめんどくせー……」


 まだ若い。二十歳ほどの青年は、ぼやきながら杖の先を、新しい草が青々と茂る方へと差し向ける。

 淡い紫のような光が杖の先に集約され、彼が胸元に紐にくくりつけて垂らしていた同色の宝石のようなそれも同じように光を放ち始める。


 青年は、右手で杖を持ち、左手で石を抱いて意識を高めると光の球を背丈より高い場所に浮かび上がらせた。


 光の球は紫から緑、緑から黄金色へとその色合いを変化させ、銀色に達したところで弾けて散った。

 それは小麦色の草むらが点在する広範囲に照射され、大地へとその姿を消してしまう。

 溶け込むように染みわたった光が消え去った時、男にはその色違いの草むらがどうしてできたのかを

知ることができたようだ。


「二匹、三匹……。まだ若い幼生ばかりだな。じゃれてもみ合い、悪戯を込めて大地をいくつかその口から吐いた炎で焼いた、か」


 奴らがここを飛び去ってからそう時間はかかっていない。

 そう呟くと、ようやくこの蒸し暑さから解放されたとばかりに彼はフードを手で外した。

 現れたのは老人のような白髪と、眉間に無数の皺が刻まれた、頑固そうな若者だった。


「暑い……映像はまだいけるか? 出来るなら種を知りたいもんだ」


 緑色の瞳と赤茶けた肌が彼の特徴と言えた。しかし、背は曲がっておらず鍛え上げられた体格の良さが、マント越しにでも見て取れる。


 背には黒色のナップザックを背負い、麻のシャツと綿のズボンに身を包んでいた。

 そして、奇妙なことに普通は腰に差したり、背中に負うはずの一本の長剣が左腰のところにその柄を、右肩に鞘の剣先の部分が突き出ていた。


 男は左手に握りしめた石を更に操作して光を再度、中空に集めてしまう。銀色の光球は先ほどと同じように拡散すると、その場に過去に在ったはずの光景を映し出した。


「やっぱり三匹。一角の類か。狩ってもあまり金にならねーやつだ。しかし……」


 目の前に画像として起こされたそれは、数日前にここで炎を吐いて草むらを作りだした犯人たちを鮮明に映し出していた。

 浅黒くも青い肌の三頭の竜。


 ドラゴンとも言われるそれらは、四つ足で水牛などの小山ほどある動物に巨大な青色の翼と、真っ白い一角の名の由来にもなった角を眉間の間から生やしていた。


「どうしてここに来たんだ?」


 辺りを用心深く見つめて草原を見渡せるそこから四方を確認するが、どう見ても竜を招き寄せるような大型生物が生息する様も無ければ、竜そのものが棲みついている様子もない。


 それに断崖の下に流れる川が生まれる山脈のはるか北部に生きている一角種が、この辺りにやってくるとも思えなかった。

 特に幼生たちがここまで飛んでくるには、まだまだ体力が足りないはずなのだ。


「召喚、転移、もしくは――誘われて親とやって来た? そうなると、何を目当てにしたのか……」


 しかし、映像で再現する範囲を広げても、そこには他の竜の姿はどこにもない。

 奇妙なこともあるものだ。彼はそう言い杖先を元に戻すと、 胸元の位置から片手を離した。

 まあ、 幸いなことにこの辺りには人里はない。


 大勢の人間が住む街なんてここから一週間ほど歩かなければいけない距離。

 空を飛べる竜にしてみれば大した時間ではないだろうけれど、わざわざ人と矛先を交えるような危険を冒すことのないだろう。ドラゴンはそれなりに知能のある種族だから、と結論付けると光の映像を消した。


「それじゃあ始めるか」


 また面倒くさい作業これからしなければならない。

 天高く昇る太陽は既に昼過ぎを示していて、陽が長いとはいえ最悪でも太陽が西の空に沈む夕方にはここを離れたかった。


 夜になれば、野生の肉食動物たちが活発になるからだ。

 一応、野営の準備もしてきてはいるが自分からトラブルを招くような真似はしたくない。


 男は背負っていたリュックから一本の鎌を取り出すと、それを手にして目の前に広がる小麦色の野草を刈り取り始めた。



 三日ほどかけて、男は目的の草を集めた。

 背に背負えるほどの量になった草は、薬草で煎じてやれば痛み止めなどになる。


 しかし、量を多く調合すれば、人の肉体はおろか魂まで溶かして消し去る。

 そんな恐ろしい魔法の毒へと姿を変える代物だ。


 その危険性の高さからこれから持ち帰ろうとしている王国への持ち込みが禁止されている薬草だった。


 彼は荷物をまとめると、周りを確認して、胸元から宝珠を取り出した。

 真珠のような光沢を放つそれは、親指の先ほどに大きい。

 売ればさぞかし、価値のあるものになるだろうと思えた。

 若者はそれに向かい、囁きかける。


「用意できましたよ、お嬢様」


 しばらく待つと、向こうから声が戻ってきた。


『本当に? 間違いはない品物なの?』

「ええ、間違いありません。俺が集めたのですから。お嬢様のために」

『……ありがとう、クロウ。お前の忠義に感謝します。転送するから戻っていらっしゃい』

「はい、エレンお嬢様」


 ひとしきりそんな会話をした後、若者は宝珠を太陽にかざす。

 やがて、宝珠が一際明るく輝いた後。

 草原に彼の姿は残っていなかった。


  

 ☆


 告解室。

 別名、懺悔の部屋。

 一つの部屋を相手が見えないように衝立で仕切り、それぞれに入り口を付ける。


 片方には神殿の担当者が入って、もう片方には懺悔をしたい誰かが入室する。

 担当者は朝から決められた夕方までその中に籠もらなければならない。

 下手にトイレにもいけない辛い仕事だ。

 

 身分が高い貴族や聖職者専用に作られたその部屋は普段はめったに人が訪れることがないのだが……。

 なぜかその日だけはいつになく三人もの来客が訪れた。

 担当した神官は、その後、二度とあの場所には配属しないでほしいと上司に願い出たということだった。


 最初に訪れたのはまだ若い貴族の令嬢風の女性。

 身長もそれほど高くなく落ち着いた足取りで。

 だけど、どこか人に知られたくないという後ろめたさを持って、彼女が足早に部屋に入ってきたのはまだ朝早い時間だった。

 神殿の前に馬車が止まり、日曜日でもないのに礼拝堂へと続く扉を彼女が叩いた。

 

 近くにいた神殿関係者が扉を開け彼女を迎え入れると、上から下まで黒ずくめの格好だったという。

 髪の色も目の色が分からず、目深にかぶったベールと真っ黒なレースの手袋で肌の色も確かではない。

 その発音と仕草から、彼女の身分は類推できた。

 室内に入ってきた彼女の声からまだ十代の若さだろうと担当者はあたりをつける。

 

「今日はどうしました?」

「……」

「ここには外に音が漏れないように結界も張られております。秘密も完全に守られるでしょう。私と、神以外。あなたの懺悔を耳にしているものはいませんよ」

 

 そう、優しく問いかけてやると心の緊張が少しほぐれたのか、少女はゆっくりと言葉を紡いだ。


「本当に……本当に、秘密を守っていただけるのでしょうか」

「それはもちろん。今お話しした通りです。秘密が少しでも漏れたとすれば、それは神の現世の代理人である大神官様か聖女様か、勇者様に神託がくだったときでしょう。もちろんその時は、告発者であるあなた自身にも神の声は降りるはずです」

「え? ここでの告白は、現世の罪をすべて洗いざらい話すことで許されるのでは……?」


 少女が不安そうにそう言うと、担当者は違いますよと返事をした。


「告白をしたことによってあなたは罪を許されます。その後に降りてくる神託は、神があなたに対して現世で何か尊いことを行ってほしいと願われたからでしょう」

「その神託に、もし、私を討てという命令があったとすればどうしますか?」

「は……?」

「は、ではありません。罪が許されると聞いたからここにやって来たのです。自分が犯した罪を許すから代わりに何かをしろとは神がそのような要求をなされるものでしょうか」

「あ、いや……。そういう解釈もあるということで、ここ数年は、そのような告白の後に神託が降りたと聞いた事例はありませんよ」

「本当に? あなた様のことを疑うわけではありませんが、これは真実を告白しようと思ってもできなくなると思いません?」


 彼女は多分罪を犯しているはずだ。

 憤然としてこちらに同意を求めてくる割に、彼女が犯したその罪とは一体何なんだろう?


 持ってはいけない興味をいうものを、担当者は抱いてしまった。

 はい、とも。いいえ、とも返事ができないまま、


「どうなさいますか? あなたの質問に私が答えることはできません。それは神に対する侮辱になります」

「侮辱だなんて……。ここでの会話が全て秘密にされるなら、あなたはどう思っていてもそれは神に関係がないと思いますけど!」

「あなたは罪を犯した。もしくは何かそれに該当するようなことを心の中に持っているから、ここに来たのではないのですか? こんな朝早くに訪れる理由は、他の誰かに本当に知られたくないからだと、私としては思いますけどね」

「神官様には関係ありません! ……私は、困っているのです。友人が許されない恋をしてしまったので……」

「それに対する懺悔をなさりたいと? 心の中に恋心を持つことを、誰が罪に問えるというのでしょうか」


 わざわざこんな早朝にここにやってきて、話すようなことじゃないだろっ!

 まだ眠かったのに、今日の担当はお前だからと仲間たちに叩き起こされて用意をした神官にしてみたら、これは災難だった。


 そんなつまらないことなら自分の胸の内だけに秘めておけばいいのに。

 なんて思いながら口には出さず、あくまでも儀式的に神官は彼女の反応を待った。


「……それもそうですね。胸の中に黙って隠していれば、誰にもバレることはないのに」

「あ、いや。そうですね」


 自分の考えていたことが言い当てられてしまい、神官は思わずドキッとした。

 彼の反応がどこか面白かったのか少女はクスリとひとつ笑うと、落ち着きを取り戻したようだった。

 大きく息を吸ってそれを止め、何かを決意したように彼女は話を始めた。


「彼女は身分が低い相手に恋をしてしまったのです。それは私の婚約者なの……」

「なるほど。あなたは友人にあきらめて欲しいと考えているのですか」

「ええ。そうなって欲しいけれど、彼女は諦めないかもしれません。そう思うと恐ろしくて」

「なぜ、恐ろしいのですか? そんな不貞な行為を行うなど、神が許されるはずもない」

「えっと……はい。あ、いえ……友人の身分はとても高いのです。この国を支配される方々のように」


 どこか悲しそうに首を振りながら、というのも衝立にはほんの少しだけ、お互いの向こう側が見えるように目の細い木枠がはめ込まれていて。神官はそこから彼女の素振りをなんとなく覗き込んでしまってそれを目にしていた。


 今度は神官が困ってしまった。

 まさかの王族関係者?

 担当者は絶句してしまい何も言えなくなっていた。

 

「でも、私は彼への想いを失いたくないの。どうにかして彼をこの手に残したい……」

「いや、だがしかし。相手が相手だ。あなたにも危害が及ぶ可能性がある」

「でも……。神官様なら、愛する相手を譲れと言われて諦めることができますか?」

 

 神官は絶句した。未来を誓い合った仲だったりするのだろう、と理解する。

 そんな恋だったら実らせてやりたい。しかし、身分が上の友人とやらがその気になれば、婚約者を奪うのは容易いだろう。


 そして、世間の噂に聞くような当たり前の結末として、男の方はたいした罰を受けない。

 せいぜい、罰金を裁判所に納めて、それで終わりだ。


「あなたに分が悪い。男がもし裏切っても、大して罰は受けません」

「忘れることができるようならとうの昔にそうしております」

「ではその場所から離れることが一番いいでしょうね。私にはそれしか言えない」

「今の場所をやめることはできません。家族揃って仕えているものですから」

「それは困りましたね、あなたひとりの考えだけでは決められないことも多い。世間を離れてこの場所……神殿の中で神に仕える女神官になる道もありますが……」


 どこか少女の立場に同情的になってしまい、そんなことも言葉になって口をついて出る。

 かわいそうなのは目の前にいる少女の方で、鞭で打たれて解雇されるのは当然として、ひどければ国外に追放。


 そうでなくても死ぬまで牢屋の中に閉じ込められる可能性もある。

 彼女の友人が上級貴族なら、それがばれた時点で屋敷内にある地下牢で処罰をしておしまいだ。

 この場合、少女の命はないと考えた方がいい。

 

 とにかく彼女の力になろうと思って神官が口にした一言。

 それに対しての返事はとてつもなく印象的で、暴力のように頭を打たれてしまい、神官は生涯この会話を忘れられなくなった。

 少女がこう言ったからだ。


「……それができれば一番良いのですが。あいにくと、私の家は彼女の家に仕えております」

「では、あなただけでも!」

「いえ、できません。彼のことはもしかしたら……諦めるかもしれない。申し訳ありません。今の話、どうか神とあなたの記憶の中だけに止め置いてください」


 それだけ謝罪を陳べて、彼女は静かに告解室の扉を開け神殿を出て行った。

 あとから彼女を見送った神官を見た時、あれはどちらの馬車だったんだと担当者は聞いてはいけない質問をしてしまった。

 同僚は、おいおいと困った顔をしてそっと彼の耳に囁いた。


「あれはスメス侯爵様の紋章だったぜ」


 これ以上関わってはいけない。

 担当者はこのことを二度と思い出すまいと、心に固く誓った。


 ☆

 

 その昼のことだ。

 告解室の担当者は、名をロデムといった。

 神官になりそんなに年数も経過していない。


 まだ中堅に成りたてといったところで、歳は三十を過ぎた頃。

 彼は少し前の朝を思い出し、ふう、とため息交じりに物思いにふけっていた。

 

(……王家か。とんでもない大物が飛び込んできたものだ……)

 

 ロデムの心は焦っていた。

 もし彼女の告白を聞いて、王国の騒動に関与してしまったら、人生は最悪なことになる。


「女神サティナ様に、どうか私にこれ以上の困難を与えないでください」


 そう、ロデムが部屋の中でひとりで祈っていると、訪問者がやってきた。

 時刻は正午過ぎ。

 ロデムは現状に焦りを感じていて、まだ昼食を済ませておらず空腹感は彼に苛立ちを覚えさせた。


 食事をする時間ぐらい与えてくれてもいいじゃないか。

 小言を言いたくなるのをぐっと飲みこむと、今度来たのはどんな問題児だろうと衝立の隙間から相手を見て神官は思わず口を抑えた。


「今よろしいでしょうか」

「ひゃ、あ……はい、どうぞ」

「お昼時に申し訳ないのだけれども、この時間しか予定が空いていなかったので。告白をさせて下さいな」

「……ええ、もちろんです」


 ロデムはその顔に見覚えがあった。王女エレン様。

 と、思わず着けそうになって言葉を飲み込む。


 朝方訪れたあの令嬢と、壁の向こうにいる彼女はあまり大差ない恰好をしていた。

 黒い帽子に目深にかぶった黒いベール。

 真っ黒なロングドレスの上から黒のショールを羽織り、足元まで肌が見えないように配慮がなされている。


 王女といえば紅玉の瞳が印象的で、身長も成人男性ほどにある、剣を扱い軍馬に乗り、魔法をもって魔獣討伐に赴くこともある。

 そんな勇壮と名高い女性騎士でもあった。


 王族特有の証を身に纏っていた。

 女神から送られた金髪の鱗粉のような光の粉は、どう隠そうとしても隠しきれないものだ。


 衣類の間からふわふわと辺りに漂い出ては、衝立の間からもロデムの方へと飛んできてしまう。

 こんな女性は、王女エレン以外にありえなかった。


「ここに来たことはどうか秘密にしてくださいね」

「もちろんでございます」

「告白したいのです」

「どのようなことでもお伺いいたします。神の名に懸けて誰にも語らないと約束いたします」

「ありがとう。その心遣いに感謝します……ある男性を好きになってしまったの」

「は? あ、はあ……左様でございますか」

「そうなのです。でもお分かりでしょう?」


 この王女の言う好きな相手とは……もしかして、朝方にやってきたスメス侯爵の令嬢の相手ではないだろうか。

 その可能性に気づいて、ロデムは蒼白になる。

 ロデムからしてみればこんな迷惑なことはない。


 たった一日で、主従の恋愛話を聞かないといけないなんて。

 そう思ってどこか憮然とした表情になってしまった。

 しかし役目は役目だ。

 それを全うしなければならない。


「いえ、よく分かりませんが。好きになった気持ちを隠すことは罪ではありませんよ」

「ええ、そうですね。それはよくわかっています。でも身分が違うから」

「あなたほどの……あ、いえ。もしあなたがこの国の王族に匹敵するほどの身分だとしても、叶わない恋ということですか」

「……そうね。もし私がそんな立場なら、相手は少し低い身分の男性ということになるわ」


 どういうことだ?

 ここはもう少し話を聞いてみようという欲求に、神官は駆られてしまった。


「身分違いの恋は許されない恋ですね。身分が低いということになれば貴族の間では、許されないかもしれない。はっきりとは言えませんが」

「本当にその通りなのです、彼は身分が低いので。そうは言っても奴隷とかそういった立場の者ではありません」

「分かっています。あなたのことを貶めようなと考えて発言したわけではありませんから。相手はそれでも市民ではあるのでしょう、多分」

「もちろんその通りです。あ……そうかもしれません」


 王女が部下の婚約者を奪って、結婚したい?

 そんなことになれば、王国は近隣諸国からいい物笑いの種にされてしまう。


 婚約者のいる男が他の女性に言葉をかけてやることすらも、この国では善いとは思われていないのに。

 今度は身分制度で大問題になりそうだとロデムは思った。


「自分の問題で悩むのであれば相手に想いを告げないまま忘れてしまうというのも、一つの優しさかもしれませんね」

「……あの人のすべてを奪ってしまいたいと思うのは罪でしょうか?」


 ちょっと待ってくれ。

 ロデムは心の中で叫んだ

 これは朝の問題以上に、国を揺るがすことになりなりかねない大問題だ。


 王女はその地位や身分を利用して……惚れた相手を強奪したいと言い出したのだから。

 この部屋はいつから恋愛相談の場所になってしまったのだろう。

 そんな話はもっと信頼のおける、口の堅い相手とするほうがいいのに。


 そこまで考えてロデムはなんとなく理解してしまった。

 王女も早朝の来訪者もそうだ。

 主人と召使いという関係でありながら、そこには深い信頼関係がまるでないのだということを。

 片方は表面では忠誠を誓い、片方は表面では信頼する素振りをしている。


 お互いに嘘をついているようなものじゃないか。

 ロデムがそう考えてもおかしくない関係がそこには見え隠れしていた。 


「それは許されないことではないでしょうか?」

「分かっているのです、自分の役割は……分かっているのです。分かっていてもそれを止めることができないの」

「私に言えることはそれくらいしかありません、あとはあなたが決められることです」

「はい……ごめんなさい。どうかこの話はここだけに止め置いてください。お願い……」

「もちろんです」


 彼がそう言うと王女は逃げ去るようにしてその場から去ってしまう。

 その行動は今朝の来訪者よりも早かった。


 それでいて話さなければよかったという後悔を、背中に背負っているようにロデムには見えた。

 見えたというよりは、彼女が残していった黄金の鱗粉にどことなく怒りに近い感情が込められているような気がしてしまったからだ。


「もちろんでございます、王女様。……こんな秘密を知ってしまった俺は明日の太陽を拝めるのだろうか」



 お願いだからこれ以上悪いことは起こらないでくれ。

 告解室に戻ると、今までないくらい熱心にロデムは女神に祈りを捧げた。


 ☆



 数日後。

 王国では六歳から十八歳までの間、貴族の若者は学院に通うという習慣がある。

 その卒業の日。


 十二年学んだ学舎の一角にある武道場の一室で、二人の少女が話をしていた。

 騎士団の真似事をして、学院内で少女騎士団を主催する第四王女エレンと、その団員、スメス侯爵令嬢ディーリアだった。


 同期で卒業した第四王女からいきなりの告白を受けて、侯爵令嬢ディーリアはその内容に驚きを隠せなかった。


「彼と婚約破棄しなさいな」


 少女はびくっと肩を小さく震わせた。

 態度に表すでもなく、しかし、心の動揺は伝わってくる。

 そんな仕草だった。


「どう……して? エレン様」


 澄んだ若草色の瞳が潤んでいる。いきなりの発言だ。衝撃を受けるなというほうが難しい。

 戻ってこない少女の返事をおもねるようにして、ディーリアは真っ直ぐに王女であるエレンを見つめた。


「理由なんて必要ないわ。あなたなら、理解していただけると思うの。私のこの想いを。彼への想いを」

「まさ、か……」 

「質問は余計よ、ディーリア。従いなさい」

「納得できません! はっきりと言葉になさって下さい! それともなんですか、他人の婚約者が気に入ったからといって、思うがままに好き勝手するのが、王族の意向ですか? それで通用すると思っておいでですか!」


 ディーリアは文武両道、才色兼備な若草の少女騎士としても、社交界で広く知られている。

 その名の通り澄んだ若草の瞳から名付けられた。

 髪は銀色で絹のように白く、混ざり気のない美しさを持っていた。


 その瞳には今、納得のいく理由を聞くまで追求を止める気はない、そんな強い意思が輝いていた。

 第四王女エレンは「仕方ないじゃない……それは」とディーリアを上から見下ろすように言った。

 まるで盗人が自分の罪から逃れようとしているような目の逸らし方だった。


「それは何ですか。はっきりと仰って下さい」

「だから。言えないわ……婚約破棄しなさい。それがあなたの為だから」

「そんな! 王女だからって分別はあるでしょうに!」


 エレンは短く、自分の意思を伝えた。

 紅玉の瞳が、言い訳を求めるように宙を彷徨う。

 ディーリアはこんな態度の王女を見るのは初めてだった。


 言えるのに言えない。言いたいのに、伝えられない。もしくは、伝えたくない。

 こんな曖昧な態度を取る友人を見るのは、少女騎士になってから初めてのことだった。


「理由は言えないのよ。理解しなさい」

「それはあんまりではありませんか。いきなり婚約破棄しろだなんて」

「聞き分けなさい。頼んでいるのではないわ。あなたの……為なのよ」


 あくまで追いすがろうとするディーリアに対して、エレンは後悔を刻むように言葉を吐いた。

 友人ではなく、自分が四年前から主催する少女騎士団の団長として。

 その団員の一員たるディーリアは部下であり、上司の命令は絶対だ。


 王女たる彼女から言われれば貴族の娘としては肯くしかない。

 それは、王族に次ぐ権勢を誇る名門、スメス侯爵家の令嬢ディーリアであっても、例外ではなかった。


 突然のことに混乱するディーリア。

 その脳裏を一つの疑問が過ぎった。


「もしかして……ユスタフが、彼がそう望んでいるのですか?」


 まさか、とエレンは疑念を口にする。


「そうかもしれない、と言ったらあなたはどうするの」

「別に何も……彼の愛は私に向いています。彼がそんなことを望むはずがありません。例え王女様の命令であっても、受け容れることができるはずが――」


 言い終わるその前に、王女は手にしてた扇を畳んだ。

 それほど広くない部室の壁に、パチンっと甲高い音が響く。

 奥にある備品室に続く扉がそれを吸い込んだようにして、音もなく開いた。


「あなたたち?」


 ドカドカと勇み足もたくましく、十人ほどの同じ制服を着た女子たちが、ディーリアを囲み普通ではない雰囲気を発している。

 戦場にでも出るのだろうかと思う程、剣呑なそれは触れるだけで切れそうなくらい、鋭くディーリアの肌を刺激した。


 彼女たちは、学院内で帯びることを許されていない剣を腰に差している。

 見覚えのある友人たちが、それを抜刀した時。

 中身は訓練用の刃を落としたそれではなく、真剣だと悟り、ディーリアは咄嗟に身構えた。

 しかし、すべてが遅かった。


 彼女たちは既に戦いの用意を整えていて、ディーリアの喉元には何本もの白刃の先が突き付けられていた。

 身動き一つすれば、それは冗談でもなんでもなく、あっさりと喉を貫くだろう。

 彼女たちがたたえる瞳の奥底に狂気を見て、ディーリアは抗おうと挙げた片手を静かに下ろした。


「……みんなして裏切るの? ミリー? 副団長のあなたまで」

「あなたがいけないのよ。黙ってエレン様に従っていればそれで良かったのに。あなたが、悪いんだわ」


 くせの強い金髪は、ミリーの青白い顔を彩るように美しくカーブを描き、彼女はうっとおしそうにそれを背中にはね上げた。

 ディーリアの胸元を飾っていた卒業生に在校生から贈られた造花に手をやり、乱暴にむしり取る。


 まるでディーリアにはここの生徒であった過去すら勿体ない。

 そう言わんばかりの行動だった。


「抑えつけなさい。暴れられたら迷惑だわ。うるさいのは嫌いだし」


 エレンの指示により、少女騎士たちは、ディーリアの両肩を力任せに床に押し付けた。

 数人がかりの暴力に抗う術もない。

 抵抗していたら、剣の腹で膝裏を強く打たれ、ディーリアは両膝をついた。


 ブチッと何かが切れる音がした。靭帯か筋肉か。

 どちらかは分からない。


「――――――っヒイッ!」

「あなたも騎士なら、主君の不名誉になるようなことはしないわよね? ここで叫んだら、私、どうなるのかしら」


 紅玉の瞳に冷酷な炎をたたえ、残忍な笑みを浮かべて、エレンはそう命じた。

 虐めの範疇を越えたそれに、ディーリアは必死に歯を食いしばって声を押し殺した。

 続いて、二撃目。


 両肩にそれぞれ左右から剣先が振り下ろされる。

 刃の先は易々と――ディーリアの肩から胸にかけて、骨を断ち、肉を切り裂いた。


 ここは校舎から遠く離れた騎士団の部室だ。

 その隣には武道場があり、誰かがいるかもしれない。

 あらん限りの力を振り絞り助けを求めようとする。


 しかし、刃の切っ先によってずたずたに切り裂かれた上半身に、そんな機能は残っていない。

 ディーリアのほとばしる返り血を浴びて、彼女に刃を振るった少女騎士たちは真っ赤に染まった。

 部屋奥でそれを観覧するエレンに被害はない。


「あらら可哀想。あなたも言うことを聞いておけば、こんなことにならなかったのに。ねえ、ミリー?」

「はい……エレン様」


 隣に立つミリーの顔は激しい後悔とエレンに対する恐怖だけがこびりついていた。

 人気の顔ではない、作り物の仮面のように、笑みが貼り付いていた。

 許容を越えた恐れに瞳が萎縮し、ガタガタとここまで聞こえてきそうな震えが彼女の全身を襲っている。


 ……ざまあみろ。


 大量に失った血と、痛みを遮断しようとする脳の働きが、ディーリアの意識を失わそうとしていた。

 このままでは死ぬ。回復魔法を……かけなきゃ。もう、駄目かな?


 ディーリアの心に後悔が生れる。

 こんなことになるのなら、少女騎士になんてならなければよかった。


 彼のことを好きにならなければ――。

 激しい後悔と王女の理不尽な行為に対する怒りが、ディーリアの精神を覚醒させる。


 それはたった一言しか残せないちっぽけなものだったけれど。

 勝ち誇った気分でいる王女エレンの顔面を蒼白にさせるには、十分な物だった。


「エレン……様。呪われろ――魔竜に魂まで喰い滅ぼされるがいい……」

「なっ―ーまだ、そんなことを言い残す力があるんだ。へえ……そう」


 あれを、とエレンは隣で震えているミリーに合図した。

 副団長はぶるぶると壊れたおもちゃのようになりながら、懐からあるものを取り出す。

 それは見るも毒々しい紫色をした、ガラスの小瓶だった。


「振りかけなさい」


 ミリーに命じる。ミリーは部下にそれを渡した。

 ディーリアの血を浴び、血の臭いにむせて、正気を狂わせている。


 初めて戦場に出た戦士が、敵を倒して狂気に支配されるときのようになった彼女は、ディーリアの大きくあけられた口内にそれを流し込んだ。

 ディーリアの魂は、それにより溶け始める。


 それを口にした時、喉の奥に炎が走った。

 鼻孔を潜り抜け、眼窩からさらに脳に至る灼熱のそれは、熱い、と判断する暇もなく、肉体の内側から臓腑を焦がしていく。


「あ、ああ……。あああああっ!」


 視神経が焼きただれる寸前、自分の両手が解けるのを見た。

 嗅覚が断たれる直前、獣油で作った蝋燭が点るときに嗅ぐような、そんな臭いを知った。


 ボトボト、と肌が裂け、肉が潰れ、骨がカランっと音を立てて床に落ちる。

 耳が機能しなくなった時、ディーリアの人生は、どろどろの肉塊となって終わりを告げた。


 

 誰かを呪うという行為は自分にも不幸をもたらすものだ。

 例え、命を賭けた呪いであっても、不幸の連鎖からは逃れられない。


 灼熱の熱波により魂の欠片となって、肉体を失ったディーリアの想いは、彼女がエレンに呪いをかけた時に告げた魔物。

 魔竜によって、世界のどこかに呼び寄せられていた。


 その日、竜は退屈によって死にそうだった。

 もう長い間、自分の名を呼び、魔法を行使して何かを成そうとする者はいなかった。

 数百年、いや千年。それを越える時間かもしれない。


 かつて若くて血気盛んな頃は、草原を支配し、人間と支配地を巡って対立したこともあった。

 勇者と呼ばれる存在と戦ったこともある。

 魔王に呼ばれ、幹部になったこともあった。


 しかし、全て遠い昔の話だ。


『名を呼ばれた』


 竜の心は色めきだった。


『呪いを願われた』


 竜は魔物としての本能を呼び覚ます。

 目の前に魂の破片だけとなったディーリアが呼び出された。


 魔竜が菫色の瞳を一瞥すると、それは元の正しい彼女の肉体へと、再構成される。

 しかし、意識が戻ることはない。

 ディーリアは既に死んだ存在だった。


『その報われない願いを叶えてやろう……ディーリア。悲しみの乙女』


 少女の魂に残された断片的な記憶から彼女の悲しみを知った魔竜は、慟哭する。

 瞳の色と同じ菫色の魔石に、少女の肉体を朽ち果てないように、と保存して、自らの寝床の側に飾る。


 そこには、同様にして永遠の眠りに就いた人間やエルフ、ドワーフなどの亡骸が入った魔石が、数百、数千と丁寧に並べられていた。

 自ら呪いを願ったその代償に、ディーリアは置物として永遠にこの場所で過ごすことになった。


 

 ディーリアがエレンにかけた呪いは、それから数年は効果を表さなかった。

 その間に王女はディーリアの婚約者を手に入れ、さらに祝福された王女として、神殿から聖女に選ばれるまでになった。


 聖女の役割は、魔に苦しむ人々を滅することだ。

 最近、国境付近で巨大な竜が出没し、人々を苦しめていると、報告が神殿にもたらされた。

 その竜は被害規模の大きさと放つ呪いの巨悪さから、伝説の魔竜ではないか、と推測された。


 エレンは聖女として、魔竜討伐を引き受ける。

 それは、彼女の死出への旅立ちとなった。



 一生涯をかけて手にしたいものがもしもあったとしたら。

 全身全霊をかけてそれを繋ぎ止めることに何の迷いがあるだろう。


 でもそれは正しいやり方で適度なタイミングを見計らってやらないと、手痛いしっぺ返しをくらう。

 つまりそれが、こういうことだ。


 自分の左足を見た。

 自分のこれからを運んでいく足、彼女のこれまでを運んできてくれた足。

 あいにくとそれは太ももの付け根からえぐり取られてしまっていて、もう二度とこの体を運ぶことはできない。


「まいったわ……」


 彼女の未来は片足ぶんだけなくなってしまったらしい。

 自嘲気味に笑い現実を受け入れると、さてどうするかと視界を真上にやる。


 魔竜は黒光りする鱗に陽光を照り返しながら、ぶしゅるるる、と鼻から炎の吐息を漏らしていた。

 困った。勝てない、そして帰れない。

 そこまで考えて、エレンは数メートル先にある魔竜の恐ろしくも巨大な鎌の先のような黒光りする爪を見て、力なさげにため息を漏らした。


 左足を失った瞬間に戦闘にはいる前から施してあった治癒魔法により、痛覚は遮断され動脈を切断されたというのに赤い奔流はどこにも流れて行かず、幻覚のような左足の感覚すらまだ残っている。


 いま回復魔法を発動させれば、失った部位の再生は完璧に行えるだろう。

 だが……それをするには、戦っている相手が少しばかり悪かった。


「誰よ、相手はただの竜かもしれないから楽勝とか言ったやつ……本物の魔竜相手に……勝てるはずないでしょ」


 人間の魔導師や神官が数百人集まっても、敵うはずもない。

 あっという間に打ちのめされ蹴り散らされて片足を咥えられ、空高くへと運ばれて今ここにいる。

 それが、王女エレンの顛末。


 たった数分間の出来事で、ずっと離れた南の草原からはるか北の高山地帯のどこかにある、魔竜の巣へと運ばれてしまった。

 魔竜はエレンを見下ろしている。


 彼女が放った最大級の攻撃魔法は鼻息一つで蹴散らされた。

 お返しとばかりに、口元を軽く振っただけ。

 たったそれだけで、聖女の片足は付け根からぼきりともぎ取られてしまった。


 悲鳴を上げるよりも早く治癒魔法が発動し意識を失うことはなかったものの、この魔法ですらもこいつを倒すことができない。

 その事実に心折れた。


 言葉を喋るわけでもないのに、魔竜の思いは意志の力となってエレンの心に押し寄せる。


 久方ぶりに食べる食事、人間の女というあまり美味しくもなく香ばしくもない。

 だが、これまで食べてきた村や町の人間たちからすれば、桁外れの魔力を持っていておまけに神の加護までその身に受けている。

 これほど強力な魔力を持つ女を食すれば、数百年は何も口にしなくてもまた眠ることができるだろう。


 彼はそう語っていた。


「へ、へえ……悪趣味なことね。人間に手を出せば後で必ず仲間がやってくるって分かってるくせに……」


 おかしい。

 治癒魔法は効果があったはずだ。

 左足の回復を急ぎつつ、だが、体のどこかの異常をエレンは感じ始めていた。


 時間とタイミングを見計らい、魔竜にそれと知られないように左足を再生させながら、エレンはそんな嫌味を言ってやる。

 魔竜はそれを聞くとただ面白そうに笑い声をあげるだけだった。


 ここでもし自分が食べられてしまったら、魔竜は聖女の力を全て吸収してさらに強くなる。

 数百年の眠りにつき、次に目覚めた時、こいつはもっともっと恐ろしい存在になっている。

 今度は村や町程度では済まずに、国単位で人類は滅びていくことだろう。


 その未来がわかるからこそ、ある確信をもとにエレンは嫌味を言ってやる。


「あなたが眠っている間に、他の聖女や仲間たちが必ず討伐に来るでしょう。何より……勇者は既に目覚めている」


 勇者は特別な存在だ。

 一世代で数名から多い時は十名ほど選ばれる聖女と違い、勇者は数十年から数百年に一度、神によってその存在を認知される。

 戦う相手は様々で、魔王であったり人に災いをなすドラゴンであったり、どこかのモンスターであったり。

 その時々に応じて理由は変わる。


 エレンが嘘を言っていないということを理解した魔竜は、しかし、口元をいやらしく歪めただけだった。

 エレンは何かおかしいと心の底から沸々と湧いてくる恐怖に怯えていた。


 それは魔竜に殺されるというのそれとはまた別なもの。

 左足の回復が成功したら、五体を使って再度の攻撃と、それを目くらましに利用して転移魔法でここから脱出する。

 幸いなことに自分は大地母神の聖女で、大地に触れている限り一度に使える魔力には限りがあるものの、供給が途絶するということはないはずだった。


 だけど今、体内に蓄えている魔力と魔道具に蓄えている魔力を使い切ってしまったら、新しい魔力の供給は行って来ないような。

 そんな不安にふと気がついてしまった。


 魔竜の魔法による妨害とか結界とかこの土地の問題とかそういうことではなくて。

 自分の体内にある魔力を吸収する器。

 そこが粉々にたたき壊されてしまって、新しい魔力は集まってくる気配がない。


「……そんな、そんなことって……」


 大地母神は自分のことを見捨てたのかしら。

 そんな思いが一瞬心をよぎる。

 いやそうじゃない。神が自分を見捨てたのではなくて、人間によって見捨てられた。


 考えがあるところまで行き着くと、魔竜の怒りの咆哮などどうでもよくなってきた。

 この細工がなされたのは多分あの時だ。

 目の前にいる自分をこれから食べるであろう強敵に挑むために力をつけようと得た朝食が、まさか最後の食事になるなんて。


 ついでに、あの食事に何かが仕込まれていたのだ。


「困ったわね……毒でも仕込まれたのかしら……」


 もしそうなことをしたのだとしたら、思い浮かぶ相手はただ一人だけで。それはともに朝食を囲んだ仲間たちの一人。

 侯爵家に仕えていたものを、気に入ってディーリアから奪った薬師だった。


 この討伐を成功させ、神殿に戻れば平和な日々を過ごせるというのに。

 他人の恋路を邪魔するとこういう末路になるらしい。自分は愚かだった……。


 ふと見ると、そそり立つ不気味な壁際に数千の宝石が並んでいる。

 中には人間が入っているように見えた。

 その内の一つ、最前列に位置する宝石の中に……。


「ディーリア……っ」


 その全てを言い終えることは許されず、エレンの肉体は巨大などす黒い口内にばぐんっという音とともに消えてしまった。


 その後。

 聖女の死を以って、勇者が魔竜を退治することになったが、聖女に同行していた薬師は、今度は同行しなかった。

 人間の肉体には魔法を循環させ、増幅する器官があるという。


 薬師はその器官を破壊する毒を聖女に盛った。

 そのせいで、エレンは大地母神の力を使えなくなり、魔竜に食われて死んだのだ。


「仇は討ちましたよ」


 王都の端に作られた墓地の一角で彼はそう言った。

 若い薬師は遺体が入っていないディーリアの墓に花を捧げると、どこかに消えていった。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

これからも楽しめる婚約破棄ものを書いていければと思います。

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