その一 わんこ、姫様と出会う
お立ち寄りいただき、ありがとうございます。
ネコだって長靴を履けたんだ! 犬がスケート靴を履いたっていいじゃないか!
「世界フィギュアスケート選手権」を見ながら思いつきました。
のんびりとお楽しみいただければ幸いです。
―― 逃げろっ! 野犬狩りだ!
―― 捕まったら、殺されるぞ!
犬にしかわからない特別なうなり声を発し、野良犬たちは迫り来る危険を知らせ合った。
路地裏の資材置き場で休んでいた犬たちは、一斉に立ち上がり逃げ出した。
黒犬は、生まれて初めて野犬狩りを体験した。
母犬や兄弟たちと一緒に逃げていたはずだったが、いつの間にかはぐれてしまった。
気づけば、黒犬は、ひとりぼっちで細い石畳の坂道を上っていた。
犬の鳴き声や男たちの叫び声が、遙か彼方から聞こえてくる。
どうやら、黒犬は野犬狩りの役人の手から逃れることができたようだ。
―― ここは、どこだろう?
闇雲に走ってきたため、黒犬は自分の居場所がわからなくなっていた。
巨大な石積みの壁が、道に沿って延々と続いていた。
壁の向こうにはおそろしく大きな建物があるようだったが、しんと静まりかえっていて、中の様子はよくわからなかった。
壁に沿って歩いて行くと、前方にかがり火が二つ見えた。
かがり火に照らされ、二人の人物が立っていた。
人に近づくことは危険だが、人がいるところにはたいてい食べ物がある。
空腹を抱えていた黒犬は、壁に身を寄せるようにして、ゆっくりとかがり火に近づいていった。
すると、門の中から新たな人物が姿を現した。
突然、うまそうな肉のにおいが漂ってきて、黒犬はよだれを垂らして立ち止まった。
「毎晩、ありがとう。今夜は少し寒そうね。これで体を温めてね」
「これは、これはエヴェリーナ様! 我らのような者にまでお心づかいいただき、もったいないことでございます。裏門は我らがしっかり守りますゆえ、姫様は安心してお休みください」
白いマントを着た女――エヴェリーナ姫は、門番たちに籠を手渡した。
肉のにおいは、その籠から漏れてきているようだった。
黒犬は、用心深い性格だった。
普段であったら、見知らぬ人間の前に、安易に自分の姿をさらしたりはしない。
しかし、空腹と疲れが、彼から思慮を奪い本能のままに行動することを許してしまった。
黒犬は、においに引き寄せられるように、かがり火に向かって駆けだしていた。
駆け寄ってきた小さな黒犬に、一番先に気づいたのは姫だった。
姫は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になり、その場にしゃがみこむと黒犬を抱え上げた。
「エヴェリーナ様! お放しください! 薄汚い野良犬を抱えるなど――」
「お召し物が汚れます。これ、クロ公、姫様から離れぬか!」
一人の門番が、姫から黒犬を引きはがそうとしたが、黒犬は小さな歯をむき出して門番を威嚇した。
「こらこら、クロ! 人を脅かしてはなりません。おまえもおなかがすいているのでしょう? ほら、スープを分けてあげますよ」
姫は、子犬を地面に下ろすと、門番に預けた籠から、皿と小ぶりな壺を取り出した。
そして、おいしそうな香りのするスープを壺から皿へ注いだ。
スープには、幾片かの干し肉が浮いていた。
黒犬は、目の前に皿が置かれるや否や夢中でなめ始めた。
姫は、優しくその様子を見守っていた。
スープをなめ終え、黒い鼻の頭を光らせながら行儀良く座っている黒犬を、姫は再び抱え上げ、その耳元にささやいた。
「クロ、ごめんね。おまえを飼うことができたらいいのだけれど、お義母様もフレドリカも犬が苦手でね。城ではネコしか飼えないの。これからは毎晩この時間にここにおいで。何か食べ物を分けてあげるから」
不思議なことに黒犬――クロは、子犬でありながら、姫の言葉の意味をはっきりと理解することができた。
もしかすると、クロの前世は人間であったのかもしれない。
クロを下ろすと、姫は何度も振り返りながら、名残惜しそうに城内へと戻っていった。
クロは、姫を見送りながら、明晩も必ずここへ来て姫に会おうと決心したのだった。
* * * * *
クロは、昼間は町の中を歩き、母犬や兄弟たちを探した。
野良犬が集まっていそうな場所を訪ねて回ったが、彼らに出会うことはなかった。
家族はなくしてしまったが、クロにはエヴェリーナ姫がいた。だから、ひとりぼっちであっても寂しくはなかった。
町には、子犬のクロを哀れんで、干し肉や燻製肉を分けてくれる人間がいた。
しかし、毎晩、城の裏門で、姫から食べ残しや余り物をたらふく食べさせてもらっているクロには、施しは必要なかった。
クロは、干し肉や燻製肉を、食べ物に困っている野良犬たちに届けてやった。
クロは急速に成長し、城の裏門に通い始めて半年もたつ頃には、見た目はすっかり成犬になっていた。
子犬の頃の愛らしさは失われたが、涼しげな青い目とつややかな黒い毛並みは人々の目を引き、子犬の頃と同様に声をかけ、食べ物をくれる人間は少なくなかった。
クロは、そんな町の人々のためによく働いた。
商店の店先で眠る赤ん坊をネズミから守ったり、盗みを働く野良猫一家を一匹で追い払ったりし、施しではなく報酬として肉をもらえるようになっていた。
町でのクロの様子は、いつしか王城のエヴェリーナ姫のもとにも伝わった。
ある晩のこと、いつものようにクロが城の裏門を訪ねていくと、見たこともない豪華な衣装を身にまとった姫が待っていた。
「クロ、今日はおまえに、姫として褒美を授けます」
姫は、布包みの中から、革紐に通された銀色のメダルを取りだした。
そして、それをクロの首にかけた。
「これは勲章です。おまえは犬の身でありながら、王都の人々のために力を尽くしてくれました。このメダルには王家の紋章が刻まれています。おまえは、王家の家臣となったのですよ」
それは、正式な勲章ではない。姫が、銀細工師に頼んで作らせた品だ。
しかし、そんなことをクロは知らない。
クロはただ、エヴェリーナ姫の家臣となれたことが嬉しくて、感謝の気持ちを込めて姫の手をそっとなめたのだった。
全四部分です。読みやすいように分割しました。
本日中に完結します。よろしくお願いいたします。