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大団円

「私が結婚したいのは君だけだよ、綾子」

 呼び出して連れて行った昔馴染みの喫茶店の窓際の席で、綾子はいきなり隆之助に言われた事を思い出し、顔を熱くしていた。息子の凛太郎は恋人の画像を探すのに夢中で、母の異変に全く気づいていない。

「どうか戻って来て欲しい。君の家は、凛太郎達に譲って」

 隆之助は更に大胆な事を提案してきた。

「おっと、もう行かないと、早朝会議に遅れる」

 隆之助はまだ注文したコーヒーが来ていないのにレジへ走り、会計をすませると綾子を見て微笑んでから店を出て行った。その間ずっと、綾子はポーッとしていた。

「母さん、どうしたの? 熱でもあるの?」

 不意に凛太郎に呼びかけられて、綾子は我に返った。

「ううん、大丈夫。元気よ。ちょっと考え事していただけ」

 綾子は作り笑顔で誤魔化すと、回転椅子に沈み込んだ。

「そう?」

 母の様子を見ていた凛太郎は鞄を持つと、

「お昼に出て、そのまま午後の顧客に行くよ」

 ドアへ向かった。

「優菜さんと一緒に食事するの?」

 綾子は頬杖を突いて息子をからかった。

「違うよ!」

 凛太郎はムッとして振り返ってから、

「行って来ます!」

 ドアを乱暴に開け、乱暴に閉めた。


「ふう……」

 自分の席にやっと戻れた麻奈未は大きな溜息を吐いた。

「お疲れ、伊呂波坂ちゃん」

 向かいの席に着いた姉小路が言った。

「お疲れ様です、姉小路さん。お早いお帰りですね」

 麻奈未は八王子市にある連間むらじまのマンションまで行っていたはずの姉小路に言った。

「八王子に向かっている途中で、料亭でブツが出たって連絡があったんだよ。結局、何もせずに終わったんだ」

 姉小路は肩をすくめた。

「そうなんですか」

 麻奈未は苦笑いをして応じた。

「ネットニュースで観たよ。伊呂波坂ちゃん、大きく映ってたねえ」

 姉小路はネクタイを緩めながら、スマホを操作した。

「ほら」

 そして、頼んでもいないのに麻奈未に画像を見せた。

「いいですよ。恥ずかしいから、見せないでください」

 麻奈未は手でスマホの画面を覆って拒否した。

「そう? かっこよく映ってると思うんだけどなあ」

 姉小路は残念そうにスマホを引っ込めた。

「統括官はまだしばらく戻らないですよね?」

 麻奈未は立ち上がった。姉小路はキョトンとして、

「だろうね。伊豆まで車で行ったから、渋滞に巻き込まれているらしいよ」

「そうですか。では、ちょっと抜けます」

 麻奈未はバッグを持つと、フロアを出ていった。

「どこへ行くんだろう?」

 姉小路はそれを見送りながら首を傾げた。


「わわっ!」

 凛太郎は食事に向かう途中でスマホが鳴ったので、慌ててスーツの内ポケットから取り出した。そして、相手が麻奈未だとわかり、更に慌てた。

「はい、凛太郎です!」

 凛太郎は舗道の真ん中で直立不動になった。

「麻奈未です。今、大丈夫?」

 麻奈未の声は低かった。凛太郎は周囲の視線に気づき、街路樹の陰に入ると、

「はい、大丈夫です。いろいろと申し訳ありませんでした!」

 見えない相手に向かって頭を下げた。

「ええっと、取り敢えず、時間がないから、手短に話すね」

 麻奈未は凛太郎のリアクションに戸惑っているようだ。

「はい」

 凛太郎はスマホを両手で覆い隠すようにして応じた。

「ごめんなさい。凛君にはとんでもない迷惑をかけてしまって、お詫びのしようがないわ」

 凛太郎は麻奈未に謝罪されたので、また動転し始めた。

「いや、あの、その、ええと、麻奈未さんは何も悪くないです!」

「いえ、私が悪いのよ。何も説明しないで、別れを切り出して、凛君を苦しめて……」

 麻奈未は涙声になっていた。

「そんな事ないです! 自分が不甲斐ないから、麻奈未さんの意図を察する事ができずに空回りしてしまったんです。麻奈未さんが査察の人なのを知っていながら、全然麻奈未さんの気持ちを理解できなかった俺のせいです!」

 凛太郎はスマホを握り潰しそうな勢いで話した。

「凛君、少し落ち着いて」

 麻奈未は今度は凛太郎の暴走に引き始めていた。

「あ、はい……」

 凛太郎も麻奈未の冷めた口調を感じたのか、我に返った。

「今夜、もう一度連絡するから。直接会って話そうか。じゃあ、ごめんね、切るね」

 それだけ告げると、麻奈未は通話を終えた。

「あ……」

 凛太郎はまだ話し足らなかったが、通話を切り、スマホをスーツの内ポケットにしまうと歩き出した。

(麻奈未さんに謝られてしまった。何も悪くないのに。俺ってどうしてこうも情けないんだろうか?)

 凛太郎は思うわず涙ぐみ、他人に気づかれないように俯いた。

「いらっしゃいませ」

 いつもの定食屋の暖簾をくぐると、いつも通り、威勢のいい店員の声が迎えてくれた。

「あ」

 凛太郎が空いている時はいつも座っている四人掛けの席に優菜がぼんやりと座っていた。彼女は凛太郎に気づいていないようだ。

「お疲れ様、優菜さん」

 凛太郎は微笑んで向かいの席に座った。

「あ、凛太郎さん」

 優菜は虚ろな目のまま凛太郎を見た。

「珍しいね、優菜さんがこの店にいるなんて」

 凛太郎は早速注文を取りに来た店員に日替わり定食を頼んでから言った。

「そうですか? よく来ていますよ」

 優菜は力のない笑みを浮かべた。鈍感な凛太郎には、優菜が一番会いたくない人が自分なのを理解できない。

「そうなんだ。たまたま、会わなかっただけなんだね」

 凛太郎はセルフサービスの水を優菜の分もコップに注いで来て、テーブルに置いた。

「あ、ありがとうございます」

 優菜は恐縮して、コップを自分の方に引き寄せた。凛太郎は一口水を飲んで、

「お昼休みまで、俺の顔を見たくないよね」

 苦笑いした。すると優菜は弾かれたように凛太郎を見て、

「そんな事ないです。父の事務所にいた時も、一緒にお食事できなかったので、嬉しいです」

 無理な笑みを浮かべているとわかる顔で言った。凛太郎は、

「母が強引に引き込んだのも、申し訳ないと思っています。ごめんなさい」

 頭を下げた。そこへ店員が日替わり定食を持って来て、優菜の前に置いた。優菜は店員が行ってから、

「謝らないでください。私、高岡先生のお誘いも嬉しかったんですから。それにもし、先生のところで働いていなかったら、一色さんに尾けられた時、どうなっていたか……」

 涙ぐんだ。凛太郎は、

「そう言ってもらえると、ホッとする。ありがとう」

 優菜は首を横に振って、

「感謝するのは私の方です。私、結果的に凛太郎さんを尾け回しているストーカーみたいでしたから、先生に疎まれているのではと思っていたんです」

「優菜さん……」

 凛太郎は改めて優菜を素敵な女性だと思った。そこへ今度は凛太郎の日替わり定食が持って来られた。

「でも、凛太郎さんには恋人がいるんですよね。私がいくら思っても、どうにもならないんですよね」

 優菜は定食をじっと見たままで言った。凛太郎はピクンとして、

「ええと、その……」

 返答に困ってしまい、頭を掻いたり、鼻を触ったりした。そして、

「ああ、冷めちゃうから、食べちゃいましょう」

 話題を逸らそうと思って箸を取った。

「はい」

 優菜は俯いたままで応じた。


「これはどういう事?」

 事務所の所長室で、野間口絵梨子は机の上に出された「辞職願」を見て尋ねた。机の向こうにはそれを出した一色雄大が立っている。

「どういう事も何も、その表書きの通りですよ」

 一色は絵梨子と目を合わせずに言った。絵梨子は辞職願と書かれた封書を手に取り、

「自分から雇って欲しいと言っておいて、一ヶ月も経たないうちに辞めさせてくれとは、随分と自分勝手な発想ね」

 机に叩きつけた。一色はそれでも絵梨子を見ずに、

「何と言われようと構いません。貴女に恨まれるのが怖くてこのままここに居続けるリスクより、辞めて恨まれるリスクの方が低いと思うからです」

 絵梨子はそれを聞くと封書をビリビリと引き裂いて一色の顔に投げつけた。

「偉そうな事を言うんじゃないよ! あんたなんか、どこに行く事もできないようにしてやるから、覚悟しなさい!」

 絵梨子は立ち上がって一色を右手の人差し指で指し示した。

「そんな事ができるかどうか、やってみてください。もし、本当にそんな事をするのであれば、私にも考えがあります。貴女が逆恨みから、東京国税局の査察官を陥れようとしていたと大々的に公表しますので」

 一色はスーツの肩に載っていた封書の切れ端を払い除けた。

「出て行け! 早く!」

 絵梨子は顔を真っ赤にして怒鳴った。

「言われるまでもありません。短い間でしたが、お世話になりました」

 一色は一礼すると、所長室を出て行こうとした。

「待って!」

 すると絵梨子は目を潤ませて一色の前に立ち塞がった。

「行かないで」

 先程とは打って変わって、絵梨子は涙声で一色に縋りついた。

「え?」

 一色も全く想定外だったので、面食らってしまった。

「行かないで……。お願い……」

 絵梨子は一色に抱きついた。

「あ……」

 あまりの事に一色は呻いた。絵梨子の胸の膨らみが当たるのを感じ、一色は腰を引いた。

「今までたくさんの男と関係を持ったけど、貴方が一番なの。一番良かったの」

 吐息がかかるような近さで絵梨子は囁いた。

「先生……」

 一色も絵梨子との一夜を思い出した。まるで主人と奴隷のような一夜だったが、興奮したのを覚えていた。

「貴方も、燃えたでしょ? 私の身体で?」

 絵梨子は一色の首筋に舌を這わせた。

「ああ……」

 一色はそのままソファに押し倒されてしまった。


 凛太郎と優菜は一緒に店を出た。

「すみません、ご馳走になってしまって」

 優菜はどうしても割り勘にしたいと言ったのだが、凛太郎が押し切って全額を出したのだ。

「いや、そんな大した金額じゃないから。もっと高いお店だったら、割り勘にしたかも」

 凛太郎は照れ臭そうに頭を掻いた。

「優しいんですね、凛太郎さんは」

 優菜が凛太郎を見上げた。

「え?」

 凛太郎は優菜の目が潤んでいるのに気づいた。

「その優しさが今はつらいです」

 優菜は凛太郎と目が合うと俯き、歩き出した。

「じゃあ、ここで。このまま、お客さんのところへ行きます」

 凛太郎は優菜の背中に告げると、逆方向に歩き始めた。


「この度は、あれこれとお世話になりました」

 高級料亭の一室で、相手のお猪口に徳利の酒を注ぎながら、美奈子は言った。

「お礼を言われてもね。これは誰のためでもなく、私と才明さいめいのためにした事だから」

 お猪口を口に待っていきながら、浅葱あさぎ色の着物を来た銀髪の女性が言った。

「そうでしたね。我慢の限界だったとおっしゃっていましたものね」

 美奈子は徳利をテーブルに置き、自分のお猪口を手に取った。

「ええ。これ以上、連間むらじまの名をけがす真似をするのであれば、思い知ってもらうまで」

 銀髪の女性はフッと笑った。

「何を思い上がったのか、あの男は自分が絶対者だと勘違いしたのよ。お灸を据えないとまた同じ事をしでかしそうなので、懲らしめてやったの」

 美奈子は愛想笑いをして、

「ところで、どのような事をされたのですか? 総理大臣の首をすげ替えられると言われた方に?」

 空になったお猪口に徳利を傾けて尋ねた。銀髪の女性はニヤリとして、

「離婚届を突きつけたのよ。毎年、新しいものにあの男の署名はしてもらってあるから、私が署名すれば完成するの」

 美奈子は目を見開いた。

「ああ、そう言えば、あの方は連間家の婿養子でしたね?」

 銀髪の女性はお猪口の酒を一気に飲み干して、

「そう。離婚されれば、只の老いさらばえただけの男になる。それは困るのはよくわかっているから」

 テーブルに音を立てて置いた。

「三十年前、脱税をして握り潰せたのに味を占めて、また同じ事をし、追及を逃れようと各所に圧力をかけた。浅ましい事この上ない」

 銀髪の女性は美奈子を見て、

「三十年前は気づくのが遅かったために、私は何もできなかった。全てを知った時には、もう手の施しようがなかった。だから、今回はそうさせないためにずっと見張らせていたのよ」

 懐から封筒を取り出して、中からたくさんの写真を取り出した。そこには連間の所業を収めたものが写っていた。

「興信所に頼んで、才明が行くところを全部調べさせた。そのデータを先日、東京国税局の中禅寺という女の子に送ったの。恋人を酷い目に遭わせてしまったお詫びを兼ねてね」

 美奈子は微笑んで、

「全てご存じとは流石ですね。恐れ入りました。私もいざという時は、そうしようと思います」

 銀髪の女性は微笑み返して、

「あら、貴女の元の夫の伊呂波坂さんには、そんな必要はないでしょ?」

 美奈子はその言葉に苦笑いをした。


「最初は疑いましたよ。でも、よく考えてみたら、私が代田君と付き合っているのなんて、知っている人は限られますからね」

 誰もいない会議室で、中禅寺茉祐子と麻奈未が話していた。

「それ、誰なの?」

 麻奈未は茉祐子が示した封書の裏に「壱子」とだけ書かれた名前の主を尋ねた。

「ちょっと心当たりがあったので、調べてみたら、やっぱりそうでした。壱子いちこさん。あの連間才明の奥様です」

 茉祐子は封書を麻奈未に渡して告げた。

「ええ? 連間の奥さん?」

 麻奈未は封書と茉祐子を交互に見た。

「同姓同名の別人やなりすましの可能性も考えられますが、あり得ないでしょう。更に調べてみたら、戦後間もない頃にいた衆議院議員の連間堅太郎の末娘でした」

 茉祐子の言葉に麻奈未は目を見開き、

「という事は……」

 茉祐子は頷きながら、

「はい。連間才明は連間家の婿養子という事になります」

 麻奈未は封書の中に入っていた手紙を見ながら、

「それにしても、何故、連間の奥さんがこれ程の告発をしたのかしら?」

「さあ。それは書かれていないので、何とも言えません。むしろ、伊呂波坂先輩のお母様が何か仕掛けたのではないですか?」

 茉祐子は上目遣いで麻奈未を見た。麻奈未は手紙から茉祐子に視線を動かして、

「それも考えられるけど、母が仕掛けたくらいで、自分の夫を告発するとは思えないなあ」

「そうですね。ではやはり、婿養子だという事が何かの一因かも知れないですね」

 茉祐子の推理に麻奈未は首を傾げた。

「婿養子が? どんな風に?」

 茉祐子は苦笑いをして、

「何となくですけど。ほら、よくあるじゃないですか。婿養子が図に乗って最後に懲らしめられるような……」

 麻奈未は噴き出して、

「そんな時代劇みたいな事、令和の世にあるの?」

「ないですかね」

 茉祐子は頭を掻いた。

「ないと思うよ」

 麻奈未はクスッと笑って応じた。


 夜になった。すでに帰宅している凛太郎は、リヴィングルームでソワソワしている。

「どうしたの?」

 料理が得意でない綾子は、食べ終えたレンチンの冷食の容器を重ねながら、様子がおかしい息子に尋ねた。

「麻奈未さんからの連絡を待っているんだ。もうそろそろなんだけど……」

 凛太郎はスマホを見たままで言った。

「そうなの。ふーん」

 綾子はいつもなら目を見て話せと怒鳴るところだが、妙に機嫌がいいので、逆に凛太郎は怖くなって綾子を見た。

「何かいい事あったの?」

 凛太郎はいつでも飛び退ける体勢で訊いた。綾子はヘラヘラして、

「えっとさ、あんた達,一緒に住むとか考えてる?」

「はっ?」

 意味不明な事を母が言い出したので、息子は更に警戒レベルを上げた。

「もし考えてるのなら、ここはどう?」

「ええ? 母さんと同居しろって事?」

 凛太郎は立ち上がって叫んだ。綾子は笑い出して、

「そんなバカな事、提案する訳ないでしょ。母さんがここを出るから、二人で住めばって言いたいの」

 凛太郎は眉をひそめて、

「母さんが出て行く? どういう事?」

 綾子はますますヘラヘラして、

「母さん、再婚する事にしたの」

「ええ!?」

 凛太郎は仰天した。あまりにも意外な展開だったので、言葉が出ない。

「さ、再婚? 一体誰と?」

 凛太郎は途方もない事を言い出した母の答えを怯えながら尋ねた。

「あんたもよく知っている人」

 綾子がモジモジし出したので、凛太郎は更に怯えた。

(知っている人? まさか、柿乃木所長? いや、あり得ないか……)

 柿乃木啓輔は拘置所なので、書面上は婚姻できるが、現実的ではない上、母の感情を考えると世界で一番想定外の相手だと思った。

「そんな難しい事じゃないでしょ? 一人しかいないじゃない」

 遂に綾子はクネクネと身をよじらせ始めた。

「まさか……」

 世界で二番目に考えられない相手……。凛太郎は綾子がおかしくなってしまったのかと思った。

「そう。あんたの父親の木場隆之助」

 綾子はキャッと叫んで顔を両手で覆った。

「えええええ!?」

 考えつきはしたが、それが正解だとわかり、凛太郎は大声を出してしまった。

「そんなに驚く事?」

 綾子は息子の大袈裟なリアクションに半目になった。

「いや、だって、母さん、あんなに父さんの事をののしってたじゃないか。一体何があったの?」

 凛太郎は綾子に近づいた。綾子は頬を赤く染めて、

「だって、父さんたら、『私が結婚したいのは君だけだよ』って言うんですもの……。そんな事言われたら、母さんも許しちゃうじゃないの!」

 またキャッと叫んで手で顔を覆った。

「そう、なんだ……」

 凛太郎は脱力して応じた。その時、スマホが鳴り出した。

「あ、麻奈未さんからだ!」

 凛太郎は言うや否や、リヴィングルームから出て行った。

「何よ、つれないわね……」

 綾子は息子の変わり身の早さに口を尖らせた。


「麻奈未さん」

 凛太郎は自分の部屋に入ると、ドアのロックをかけながら通話を開始した。

「凛君、ごめんね、遅くなって。大丈夫?」

 麻奈未の声が尋ねた。凛太郎は満面笑顔で、

「大丈夫です! 何も支障はありません!」

 大声で応じた。

「凛君、ハイテンションだね? 何かいい事、あったの?」

 麻奈未はまた引いてしまったようだ。凛太郎はそれに気づいて、

「あ、いや、その、麻奈未さんから電話が来たので、ハイになってしまいました」

 声を小さくして応じた。

「そうなんだ。嬉しい」

 麻奈未は笑ったようだった。凛太郎は、

「それで、どこで会いますか?」

 一刻も早く生の麻奈未に会いたいので、いきなり尋ねた。

「うん、一番初めに会ったカフェで。あそこなら、時間を気にせずに行けるし、話せるから」

 麻奈未は引かずに応えてくれた。凛太郎は、

「わかりました! 時間は?」

 更にかかってしまった。麻奈未はクスクス笑いながら、

「二十時でいいかな? 間に合う?」

「もちろん間に合います!」

 凛太郎はまた大声を出してしまい、

「何があったの、凛?」

 ドアノブをガチャガチャして叫ぶ知りたがり屋の母の声を聞き、

「では、すぐに向かいます」

 小声でスマホに言った。

「ええ。私もすぐに向かうから」

 麻奈未が通話を終えたのを確認すると、凛太郎も通話を切り、部屋着を脱ぎ捨てた。


「凛君、ここ!」

 凛太郎がカフェに入ると、すでに来ていた麻奈未が席から立ち上がり、手招きをした。一番奥の窓際のボックス席だった。

「すみません、遅くなって」

 凛太郎は頭を下げながら麻奈未が座るのを確認して、向かいに腰を下ろした。

「ううん、私が早過ぎただけだから、謝らないで」

 麻奈未が言った時、店員が来て注文を聞いていった。

「久しぶりの生の麻奈未さんを見て、感激しています」

 凛太郎が言うと、麻奈未は顔を引きつらせて、

「ああ、そうなんだ……」

 また引いてしまった。でも、麻奈未に久しぶりに会えてテンションMAXの凛太郎は気がついていない。

「そんな凛君には申し訳ないんだけど、またしばらく査察の仕事で忙しくなりそうだから、二週間くらい、連絡もできないと思う」

 麻奈未の言葉は凛太郎には死刑宣告のように聞こえた。

「そんな……」

 凛太郎は目を潤ませた。

「二週間よ、二週間。永遠に会えなくなる訳じゃないんだから」

 麻奈未は泣きそうな凛太郎をなだめた。すると凛太郎は綾子に言われた事を思い出して、

「そうだ! だったら、麻奈未さん、今俺がいる母の家に引っ越して来ませんか?」

「え?」

 麻奈未は凛太郎がマザコンを発動したと勘違いした。

「何言ってるの、凛君? お母様がいらっしゃる家に一緒に住むって……」

 麻奈未がドン引きしているのには気づけた凛太郎は、

「ああ、違いますって! 母は父とりを戻すので、父の家へ行くんです。だから、あの家には俺だけです」

「え? そうなの?」

 麻奈未は自分のせいで隆之助と綾子の関係が悪化したと思っていたので、それを聞いてホッとした。

「麻奈未さんが引っ越して来てくれれば、どんなに忙しくても、朝と夜は顔を合わせられるでしょ? いい考えだと思いませんか?」

 凛太郎は自分がどれ程大胆な事を提案しているのかわかっていない。

「流石にまだ同棲はできないよ、凛君」

 麻奈未が苦笑いをして告げると、凛太郎は我に返って、

「あ、そ、そうですね……」

 顔を真っ赤にして俯いた。麻奈未はクスッと笑って、

「でも、嬉しかったよ。そこまで私の事を思ってくれているんだとわかったから」

「麻奈未さん……」

 また目を潤ませた凛太郎が鼻をすすりながら顔を上げた。

「泣かないでよ。これっきり会わないんじゃないんだから」

 麻奈未は涙脆過ぎる凛太郎をたしなめた。

「はい。すみません」

 凛太郎はポケットからティッシュを取り出して、鼻をかんだ。

「同棲する前に、私達、ちゃんと恋人しようよ。凛君とは手も繋いだ事ないんだよ。映画を観に行ったり、遊園地に行ったりもしたいし」

 麻奈未は真顔で告げた。凛太郎は背筋せすじを伸ばして、

「はい、わかりました!」

 すると麻奈未は眉をひそめて、

「それよ、それ」

 凛太郎はポカンとして、

「え? どれですか?」

 麻奈未は半目になって、

「どうして凛君は私に対していつも敬語なの? 何だか、すごく距離を感じるんだけど?」

 凛太郎は目を見開き、

「あ、いや、その、麻奈未さんは年上ですから、敬語なのは当然です」

 麻奈未は半目を強くして、

「年上っていうのがね。そんなに年齢が違う訳でもないのに、そこを強調されると、あまりいい気持ちはしない」

「あ、すみません。そういうつもりでは……」

 女性は年齢に敏感だ。凛太郎は思った。

「タメ口でいいよ。少なくとも、私にはね。そうじゃないと、恋人同士じゃないみたいだから」

 麻奈未は微笑んで告げた。

「あ、はい! ありがとうございます!」

 それでも凛太郎は敬語で応じてしまった。

「ほら、また敬語!」

 麻奈未が指摘すると、

「ああ、はい、申し訳ありません!」

 更に敬語で謝ってしまう凛太郎。麻奈未はとうとう笑い出してしまった。そして、

「まあ、すぐに直せと言っても、無理だろうから、だんだん変えてよ」

「はい、あ、うん」

 凛太郎は顔を引きつらせて応じた。


「あれ? お姉は?」

 風呂から出た聖生がリヴィングルームで新聞を読んでいる太蔵に尋ねた。

「さっき、出かけたよ。聖生は何も聞いていないのか?」

 太蔵は新聞から目を上げて言った。聖生は髪をタオルで乾かしながら、

「何も聞いてないよ」

 そして、不意に、

「ああ、デートか」

 ニヤリとして言った。太蔵がその言葉にピクンとした。

「近いうちにお姉、家を出るかも知れないね。帰ってくるたびに、不機嫌そうなお父さんを見るのが嫌で」

 聖生は自分の部屋に歩き出した。

「……」

 太蔵は無言で聖生の背中を見た。


 麻奈未と凛太郎はカフェを出て、舗道を歩いていた。

「久しぶりだね、二人で歩くの」

 二人は恋人つなぎをしていた。凛太郎は緊張した面持ちである。

「うん」

 ぎこちない返事をした凛太郎の顔を麻奈未が見上げる。

「そうだ、私も凛君はやめて、呼び捨てにしようかな。だから、凛君も私を呼び捨てにしてよ」

「え?」

 凛太郎は仰天して麻奈未を見下ろした。その時、麻奈未の顔が急接近してきた。

「……」

 凛太郎は麻奈未にキスをされた。

「キスも初めてだね」

 麻奈未は顔を赤らめて言った。

「うん……」

 凛太郎の顔はもっと赤くなっていた。

「凛太郎」

 麻奈未が言った。凛太郎は麻奈未を眩しそうに見て、

「麻奈未」

 二人はもう一度キスをした。最初のキスより長いキスだった。

続編として「恋人はマルサ」が始まるかも知れません。

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