決戦前夜から決戦当日へ
「ふう……」
結局、優菜は綾子に押し切られ、凛太郎と三人で綾子が運転する車で綾子の家に行った。そして、風呂に入り、客間に用意された布団に入ったところで、溜息を吐いた。
(要するに、貴女は凛太郎にとって同僚でしかないのよって、先生はおっしゃりたいのね)
悲しくなったが、それが現実だとも思った。
(まなみさんがどういう方かはわからないけど、先生が信頼しているようだから、きっと素敵な人なのね。私なんか、太刀打ちできないくらい……)
優菜は気づかないうちに涙を流していた。
時は少し遡る。優菜を客間に案内し、布団を敷いてから、綾子は風呂に入ろうとする凛太郎を押しとどめ、
「優菜さんの直後に入ろうとするなんて、デリカシーがなさ過ぎよ!」
厳しく嗜めると、
「母さんの後にしなさい」
そう言って浴室に入った。凛太郎は母の直後に入るのは嫌だったが、口が裂けてもそんな事は言えない身なのを自覚しているので、従ったのだ。
「あら、麻奈未さんから」
浴室から出てきたバスローブ姿の綾子が言った。
「ええ? どうして母さんにばかり連絡するのかな?」
凛太郎が涙ぐんでいると、
「さっさとお風呂、入っちゃいなさい」
綾子は凛太郎を追い立て、通話を開始した。凛太郎は不満そうに口を尖らせると、浴室へ歩いて行った。
「高岡です。どうされましたか?」
綾子が余所行きの声で言うと、
「あの、先程の母の件なのですが……」
麻奈未の声は小さく、やっと聞き取れるくらいだった。
「ああ、お母様の? 何かわかったのですか?」
綾子はあくまで隆之助の事を知らない体でいこうと考えていた。しかし、
「申し訳ありませんでした。先生に誤解を与えてしまうような事を訊いてしまって……」
麻奈未が正解に辿り着いてしまったのを知り、綾子は顔を引きつらせた。
「え? どういう事ですか?」
それでも綾子は当初の作戦通りにしようと思って尋ねた。
「その、母が一緒に食事をしたのが、先生のご主人だった方だとは知らず……」
作戦が完全に失敗したのを綾子は知った。
「では、全部ご存知なんですね?」
綾子は溜息交じりに訊いた。
「はい。母がご迷惑をおかけしました」
麻奈未が謝罪してきたので、
「麻奈未さんが謝る事ではないですよ。麻奈未さんのお母様も今は独身ですし、木場隆之助も独身ですから、誰と食事をしようと付き合おうと、何も差し支えないですから」
綾子は冷静を装って言ったつもりだったが、
「それはそうなのですが、私、何も気を回さずに先生にお尋ねしてしまって、その……」
麻奈未が自分を気遣ってくれているのはわかったので、綾子は、
「お気になさらず。夫婦としてやっていけないと思ったから、木場とは離婚したのです。もう十年になりますから、赤の他人ですよ」
「でも……」
それでも麻奈未は気にしてしまうようだ。綾子は、
「それよりも、凛が拗ねていますから、凛に連絡してあげてください。今、入浴中ですので、少ししたら、かけてみてください」
話題を変えてみた。すると麻奈未は、
「そうですか。でも、凛太郎さんと話すと、長くなってしまいそうですので、伝言をお願いできますか?」
「伝言? いいですよ」
綾子は麻奈未の声の調子で、何かあったのを察した。
「母から、明日は忙しくなると言われました。内容は職務上の事に関わるますので、詳しくは申し上げられませんが、凛太郎さんとはまたしばらく連絡を取れないかも知れないとお伝えください」
麻奈未の声は泣きそうな感じだった。綾子は頷いて、
「わかりました。伝えます。麻奈未さんも、気を詰め過ぎないようにしてくださいね」
「ありがとうございます。では、失礼します」
「お休みなさい」
「お休みなさい」
綾子は通話を終えた。
そして、日付は変わった。
「あれ? お姉は?」
欠伸をしながら、聖生はキッチンにいた太蔵に尋ねた。
「とっくに出勤したよ。聖生は随分とゆっくりだな」
太蔵は新聞に目を通しながら、チラッと次女の様を見た。聖生はまだピンクのシルクのパジャマ姿だ。太蔵は麻奈未より元妻の美奈子に似ている聖生のそんなあけすけなところに眉をひそめ、
「部屋を出たら、そこは外だと思った方がいいぞ。いくら家族しかいないとは言え、もう少し考えなさい」
聖生は朝から父親に小言を言われたので、苦笑いをして、
「まあまあ、堅い事言わないでよ、お父さん」
頭を掻きながらキッチンを出て行く。
「それとも、私がお母さんに似ているから、もっときちんとして欲しいの?」
振り向きざまにそれだけ言うと、太蔵の返事を待たずに浴室に入ってしまった。
「全く……」
太蔵は聖生の仕草や言い回しが美奈子にますます似て来たので、どう対処したものか、悩んでいるのだ。
(麻奈未、気負い過ぎるなよ)
面と向かっては言わなかったが、夜明け前に起きて支度をし、出かけた麻奈未を何も言わずに見送った太蔵は、自分と同じ国税局査察部に配属された娘を心配していた。
(あの男は、三十年前、私が取り逃がした。お前は必ずあの男の尻尾を掴んでくれよ)
太蔵は玄関の方を見て思った。
「早いな、伊呂波坂」
麻奈未が査察部の実施部門のフロアに入ると、すでに織部統括官がいた。他にも数人の調査官がいる。姉小路はまだ来ていないようだ。
「おはようございます」
麻奈未は頭を下げて挨拶をした。織部は手招きをして麻奈未を机の前にあるソファに座らせると、
「母上が何か伝えて来たのか?」
向かいに腰を下ろしながら尋ねた。
「はい。忙しくなると言われました」
麻奈未は苦笑いをして応じた。織部は小さく頷き、
「昨夜遅く、長官から部長に連絡があった。査察を続行するようにと」
「そうですか」
何となく母の言葉から想定していた麻奈未はそれだけ言葉に出した。
「局長は蚊帳の外にされたようだ。連間に通じていたのは、局長だったらしい」
織部の言葉に麻奈未を目を見開いた。
「それから、代田を襲った連中の背後関係も、検察と警察が動くそうだ。全ての障害が取り除かれた形になる」
麻奈未は絶句してしまった。
(お母さん、一体誰と通じているの? 総理大臣の首すらすげ替えられると言われている連間の圧力をはね除けるって、どんな裏技?)
麻奈未は我が母ながら、美奈子が怖くなってしまった。
「どうした、伊呂波坂?」
麻奈未が眉間にしわを寄せたので、織部が尋ねた。麻奈未はハッとして織部を見ると、
「ああ、すみません。母が一体どんな伝を使ったのか、考えていました」
織部はフッと笑って、
「そうか。確かに想像がつかない状況だからな。母上が誰とコンタクトを取ったのかは、私も気になっているよ」
「何か、危ない事をしているのではないかと、不安になります」
麻奈未は溜息混じりに言った。
「フリーのジャーナリストは、後ろ盾がない分、自由に動ける反面、身の危険を避ける術も心得ていなければならない。その点、君の母上は心配要らないと思うよ」
織部は微笑んで麻奈未に告げた。麻奈未は首を傾げて、
「それはどういう事でしょうか?」
織部は真顔になって、
「君の父上で、私の元上司の伊呂波坂太蔵さんがいるからね。伊呂波坂さんは査察部の部長だった時から、各省庁にパイプを持っていて、あらゆる情報を入手していた。その頃のパイプが今でも存在しているから、母上はしっかり守られているよ」
「え? そうなんですか? 全然知りませんでした」
麻奈未は父の普段の言動から思いつかない事を聞き、目を見開いた。
「そして何より、伊呂波坂さんが取り逃がしてしまったのが、まさに今我々が追い込もうとしている連間なんだよ」
織部の言葉は衝撃的だった。麻奈未はしばし呆然としてしまった。
「今度こそ、連間を逃さないようにしよう」
織部は麻奈未の左肩を軽く叩いた。
「はい!」
麻奈未は身を引き締めて応じた。
「あれ、皆さん、早いですね。何かあったんですか?」
そこへ眠そうな顔をして現れたのは、姉小路だった。
「姉小路、メールしたはずだぞ」
織部が立ち上がって言ったので、麻奈未も立ち上がって姉小路を見た。
「え? あ、ホントだ。すみません」
姉小路はスーツの内ポケットからスマホを取り出して確認した後、
「伊呂波坂ちゃんはメールに気づいたの?」
小声で麻奈未に訊いてきた。麻奈未は苦笑いして、
「いえ、メールは来ていないですが、予感がして早朝出勤しました」
「ええ? そうなの? すごいな、伊呂波坂ちゃんは」
姉小路は鞄を自分の机に置きながら言った。
「では、十五分後に査察に向かう。それまでに準備をしてくれ。私は部長と最終の打ち合わせをして来る」
織部はそう言うと、フロアを出て行った。
「一体何があったのさ? 昨日と打って変わって、騒々しいんだけど?」
姉小路は曲がったネクタイを締め直しながら、麻奈未に尋ねた。麻奈未は姉小路を見て、
「連間才明への査察が再開されるんです」
「えええ!?」
姉小路は大声を出したせいで手に力が入ってネクタイを締め過ぎ、噎せてしまった。
綾子は朝早く目を覚ますと、隣の部屋で寝ている凛太郎を起こさないようにそっと寝室を抜け出して階段をそっと降り、書斎に入ると施錠した。
(凛に知られる訳にはいかなし、優菜さんにはもっと知られてはならない)
綾子は書斎の窓際まで進むと、持ってきたスマホを操作した。
「早いな。どうかしたのか?」
相手は木場隆之助だった。綾子は声をひそめて、
「貴方、何か知っているの? 凛の恋人の伊呂波坂麻奈未さんから、しばらく凛と連絡ができなくなるって言われたの」
一瞬間があったので、
「ちょっと、聞いてる?」
綾子が言うと、
「聞いてるよ。東京国税局の査察部の人がそう言うのは、査察があるからじゃないのか?」
隆之助の声は起き抜けのしゃがれ声になった。
「査察?」
綾子はハッとした。そして、
「ねえ、貴方、伊呂波坂美奈子さんと会った時、何か聞かなかった?」
隆之助はまたしばし反応しなかったが、
「ああ、そういえば、『また同じ政治家が同じ事をして、税理士をはめたの。だから、お灸を据えてもらう事にしたわ』と言ってたな」
綾子はその話に、
「やっぱり、三十年前の事件が関係しているの?」
しかし、隆之助の声は、
「そこまではわからないよ。美奈子さんはそれ以上教えてくれなかったからね」
綾子は口を尖らせて、
「頼りないわね。まあいいわ。それから、『お灸を据えてもらう事にした』ってどういう事かしら?」
更に尋ねたが、
「それもわからない。だが、それが美奈子さんの言うニュースソースの人物なのかも知れない」
綾子は隆之助が「美奈子さん」と言うたびにイラッとしたが、
「税理士、すなわち今回の場合は啓輔をはめた政治家と対立している政治家って事かしら?」
「それもわからないよ。俺は名探偵でも敏腕刑事でもないからね」
隆之助は生欠伸をしながら言った。そして、
「ああ、そうだ。この前、君に襲撃された国税局の職員が男性だと伝えた時、何か妙な事を言われた気がするんだが、何だっけ?」
不意に赤面案件を持ち出されたので、
「ああ、朝からごめんなさいね。じゃあ」
綾子は慌てて通話を終えた。
(突然、変な事思い出さないでよね)
綾子は火照る顔を両手で扇いだ。
「茉祐子さん」
代田充は朝早く人の気配を感じて目を開けると、そこに恋人になった中禅寺茉祐子がいたので、驚いてしまった。
「充、朗報よ。連間才明を追い詰められるわ」
茉祐子は看護師が来ないのを確認して、代田に顔を近づけた。
「そ、そうなんですか」
代田は話の内容よりも、茉祐子の顔がすぐそばにある事の方が重大だった。そして、更に衝撃的な事が起こった。茉祐子がキスして来たのだ。長いキスだった。
「必ず、あいつを政界から追い落とす。貴方の仇を討つ」
茉祐子は代田から離れて告げた。
(俺、死んだ訳じゃないんだけどな)
代田は苦笑いをした。
「早く退院して、また楽しい事、いっぱいしようね」
茉祐子が微笑んで言ったので、
「あ、はい」
代田は赤面して応じた。
「じゃあね。行って来る」
茉祐子は手を小さく振って病室を出て行った。代田はぎこちない笑みを浮かべて、手を振り返した。
(早く元気になろう)
代田は現実にはまだ無理なので、心の中でガッツポーズをした。
(茉祐子、気合入ってるなあ)
聖生は出勤途中で茉祐子からのラインを確認した。
「それもそうか」
聖生は自分に置き換えて考えた。付き合っている人が暴漢に襲われて、その背後にいる連中が逃げおおせたら、我慢できない。それが阻止できるのなら、これ以上の喜びはないだろう。
(ああ、その前に、私も彼氏が欲しい)
聖生はスマホをハンドバッグにしまうと、地下鉄の階段を駆け下りた。




