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先走る者達

 凛太郎は優菜の只ならぬ声を聞き、

「大丈夫ですか? 今、どこにいますか?」

 スマホを持ち直して尋ねた。

「今、ファミレスの女子トイレです。尾けられているのに全然気づかなくて……」

 優菜の声は涙声になっていた。時折、鼻をすするような音も聞こえた。

「尾けられているって、誰にです?」

 凛太郎が更に訊くと、

「一色さんにです」

 優菜が答えた。凛太郎は腹の底が見えない一色の笑顔を思い浮かべた。

「場所を教えてください。すぐにそこへ行きますから」

 凛太郎は優菜が慌てないようにゆっくりと告げた。

「はい。ありがとうございます」

 優菜は嗚咽をあげながら礼を言った。


「ちょっと、よくもいけしゃあしゃあと連絡ができるものね」

 綾子は雑居ビルを出てすぐの路地裏に入ると、通話を開始した。そして、凛太郎が尾いて来ていないか、後ろを見た。

「おいおい、完全におかしな方向へ勘違いしているな。一緒に食事していたのは、凛太郎の恋人の母親で、フリージャーナリストの伊呂波坂美奈子さんだよ」

 隆之助の声が言うと、

「信じられない。息子の恋人の母親だと知りながら、付き合っているの?」

 綾子は更にヒートアップした。

「付き合ってなんかいないよ。先日、重要な情報を教えてもらったので、そのお礼で昼食を一緒に食べただけだよ」

 隆之助はごく冷静に応じた。

「重要な情報?」

 綾子は眉をひそめた。

「そう。東京国税局の職員が襲われた事件があっただろ? 被害者が性別すら発表されていなかったので、いろいろつてを辿って、美奈子さんに教えてもらったんだよ」

 綾子は隆之助の説明に自分がとんでもない事を言ってしまったのを思い出し、赤面した。

「そ、そう」

 綾子は自分の勘違いだとわかり、ますます顔が火照ってしまった。でも、このまま隆之助に『降参』するのは癪に障るので、

「それなら何故、『国税局に同期がいる』とか嘘を吐いたの? やっぱり怪しいわ」

 攻め込んでみた。すると隆之助は、

「それは、君がそういう具合に曲解してしまうと思ったからだよ。それに美奈子さんの名を出すのは、彼女自身に危険が及ぶ可能性があるから、差し控えたんだ」

 綾子の予想以上に冷静な返しをしてきた。綾子はまた顔が熱くなった。

「危険て、どういう事?」

 綾子は顔の火照りを手であおいで冷まそうとした。

「それは……」

 その時、凛太郎がビルのエントランスを飛び出して来た。

「また後で」

 綾子は慌てて通話を終えると、スマホをスーツのポケットに押し込んだ。

「母さん、大変だ。優菜さんがストーカーに……」

 凛太郎は息を切らせて綾子に言った。

「え? ストーカー? どういう事?」

 綾子が尋ねると、

「とにかく、優菜さんがいるファミレスに行かなくちゃ! 母さん、急いで!」

 凛太郎は母の背中を押して、駐車場へ走った。


 優菜は一色が店の中に入って来ていないのを確認すると、空いている席に座り、ホットコーヒーを注文して溜息を吐いた。

(外にも姿が見えない。諦めて帰ったのだろうか?)

 優菜は窓の外を見渡したが、一色がいる様子はなかった。

(でも、どこかに隠れているのかも……)

 それでも、一色の背後には野間口絵梨子がいるのを思い出し、そう簡単に引き下がるとは思えないと結論づけ、しばらく様子を見る事にした。

(凛太郎さん、早く来て!)

 優菜は凛太郎は必ず来てくれると思っていた。母親の綾子にはストーカーと思われているかも知れないが、凛太郎の人の好さをあてにしていた。

「すみません、パンケーキセットもください」

 少しホッとしたせいか、空腹なのを思い出した。

(凛太郎さんに呆れられるかな?)

 ストーカーに怯えて電話したのに、呑気にパンケーキを食べていたら、驚かれるかも知れないと思った。

(でも、凛太郎さんの前でお腹が鳴るのはもっと恥ずかしい)

 優菜は自分に言い訳をして、注文を正当化した。


「貴方、何を考えているの? そんな事をしたら、警戒されるに決まってるでしょ! バカなの?」

 優菜を尾行してファミレスに逃げ込まれた事を報告された絵梨子はスマホ越しに一色を怒鳴りつけた。

「すぐに引き上げなさい。きっと、あの小娘は高岡凛太郎に助けを求めたはずよ。見つかったら言い訳できないわ」

「わかりました。申し訳ありません。先生は今どちらに?」

 一色の声が尋ねた。絵梨子は苛つきながら、

「私がどこにいるのかなんて、どうして貴方に言わなければならないの? 帰宅しなさい。事務所にはいないから」

 それだけ告げると、通話を切った。

(やっぱり、あいつ、ストーカー気質なのね。縁を切った方がいいかしら?)

 一色には事務所にはいないと言った絵梨子だったが、本当は事務所にいたのだ。

(高岡凛太郎がとんだマザコン男だとは思わなかった。高岡綾子は税理士会でも顔が広い存在。あまり刺激すると、こちらが追い詰められる)

 絵梨子は凛太郎経由で麻奈未をいたぶるのを諦めかけていた。


 聖生が帰宅すると、すでに父の太蔵は食事をすませており、入浴中らしかった。キッチンには暗い顔をした麻奈未が項垂れて椅子に座っていた。

「只今。どうしたの、お姉?」

 聖生が声をかけると、

「ああ、お帰り。夕食は?」

 麻奈未はハッとして顔を上げ、作り笑顔とわかる表情で聖生を見た。

「食べてないよ。調子悪いなら、自分で作るよ」

 聖生は姉の様子がおかしいのに気づいて言った。

「調子は悪くないよ。只、ちょっとまた凛君と連絡が取れなくて……」

 麻奈未はにがわりをした。聖生は溜息を吐いて、

「まだそんな状態なの? で、お母さんの件は何かわかったの?」

 麻奈未は俯いて、

「高岡先生は知らない人だって」

「そうなんだ。だったら、直接もう一人の当事者に訊いちゃうしかないね」

 聖生はスマホを取り出した。

「え? まさか、お母さんに訊くの?」

 麻奈未は立ち上がって聖生に詰め寄った。

「他に方法がないでしょ。それが一番」

 聖生は止めようとする麻奈未から飛び退いて、スマホを操作した。

「あ、お母さん? 今、大丈夫?」

 聖生はスマホを奪おうとする麻奈未をかわしながら通話を開始した。

「え? お姉なら目の前にいるけど。わかった」

 聖生は口を尖らせてスマホを麻奈未に突き出した。

「どういう事?」

 麻奈未は目を見開いて聖生を見た。

「お姉に代わってって。ほら!」

 聖生は更にスマホを麻奈未に近づけた。

「わかった」

 麻奈未は不思議に思いながら、スマホを受け取り、

「お母さん、どうしたの?」

 声を低くして尋ねた。奥で太蔵が浴室から出てくる音が聞こえたからである。

「明日、貴女、すごく忙しくなるかもよ。ニュースソースの人が、動いてくれたから」

 美奈子の陽気な声が言った。

「え? どういう事?」

 麻奈未にはその意図がわからない。

「その人が、連間むらじま才明さいめいがかけた圧力を全部取り除いてくれたの。だから、頑張ってね」

「圧力を取り除いたって、どういう事? 全然わからないんだけど?」

 麻奈未が尋ねると、美奈子は、

「明日になれば、全部わかるから。今日は早く寝るのよ。じゃあね」

 一方的に切ろうとした。麻奈未はハッとして、

「ちょっと、こっちの質問にも答えてよ。お母さん、今日、男の人と食事をしていたでしょ? 聖生が見かけたんだけど、その人って誰?」

「あらあ、聖生が見てたの? 別にやましい関係じゃないから、構わないんだけど、貴女の恋人のお父さんよ」

「ええええ!?」

 麻奈未はまさに仰天した。

「じゃあね、私、忙しいから」

 美奈子は通話を切ってしまった。

「どうしたの、お姉?」

 麻奈未が大声を出したので、聖生が訊いた。太蔵も声を聞きつけたのか、奥からやって来た。

「何があったんだ?」

 太蔵が麻奈未に尋ねた。麻奈未はスマホを聖生に返して、

「ごめんなさい、大声出して。何でもないの。聖生、夕ご飯、早く食べちゃいなさい」

 キッチンへ行った。聖生も太蔵に探られるのはまずいので、

「あ、うん、わかった」

 麻奈未に続いてキッチンへ行き、食事の用意を始めた。

「全く……」

 太蔵は娘達の言動に不満があったが、きびすを返して自分の部屋へ行ってしまった。

「何言われたの、お母さんに? お父さんに聞かれるとまずい事?」

 聖生が声を低くして尋ねた。麻奈未はチラッと太蔵の部屋の方を見てから、

「それはそうよ。お母さんの事なんだから」

 溜息を吐いてから、

「大声出さないでね」

 聖生に念を押した。

「は?」

 聖生は姉の言葉を理解できなかったが、

「大声なんて出さないよ。何を言われたの?」

 詰め寄った。麻奈未はもう一度奥を見てから、

「お母さんと食事をしていたのは、凛君のお父様だったの」

「えええ!?」

 聖生は結局大声を出してしまった。

「ちょっと!」

 麻奈未にたしなめられ、慌てて口を手で塞ぐが、遅かった。

「一体何を騒いでいるんだ? ご近所迷惑だぞ」

 太蔵が堪りかねて部屋から出て来た。

「ご、ごめんなさい、お父さん。お姉が惚気のろけるから、つい……」

 聖生は苦笑いをして麻奈未を見てから父を見た。麻奈未は聖生の言葉に唖然とした。

「とにかく、もっと静かに話しなさい。子供同士ではないだろう?」

 太蔵は麻奈未の「惚気話」を聞きたくないのか、部屋に戻って行った。

「聖生、いい加減な事言わないでよね」

 麻奈未はホッともしたが、聖生に妙な事を言われて顔を赤らめた。

「でも、効果覿面こうかてきめんでしょ? お父さん、お姉の交際の事、あまり聞きたくないのよ」

 聖生はニヤリとして、反省した様子がない。

「まあ、そうかも知れないけど、お父さんに変に勘ぐられるのは嫌だから」

 麻奈未は火照る顔を手で扇いだ。

「それにしても、驚いたわねえ。まさか、お母さんが凛太郎さんのお父さんと付き合っているなんて」

 聖生はどこか楽しそうだ。麻奈未はそんな妹を呆れて見て、

「そんな悠長な事を言っている場合じゃないのよ。お母さんはそういう関係じゃないってはっきり否定したけど、凛君のお父様が相手だったのなら、どうして高岡先生は知らない人だって言ったのか」

「ああ」

 聖生はポンと手を叩き、

「聞いた相手がまずかったね」

 麻奈未を見た。麻奈未は頷いてから、

「明らかに高岡先生に誤解を与える事をしてしまったわ。どうしよう?」

 聖生は腕組みをして、

「お母さんに事情を説明して、直接話してもらうしかないかも」

「でも、お母さん、そういうの、面白がる人でしょ? 大丈夫かな?」

 麻奈未は美奈子の性格に一抹の不安を覚えた。

「仕方ない。私が高岡先生に話す」

 麻奈未が言うと、

「それが一番ね。高岡先生も、お姉となら冷静に話してくれそうだし」

 聖生は相変わらず楽しそうだ。麻奈未は妹の顔を見て、大きな溜息を吐いた。


 その当事者の一人である隆之助は、また一方的に通話を切った綾子に呆れながらも、

(綾子の奴、ヤキモチ妬いてるのか)

 ついにやついてしまった。

「おっと」

 隆之助は事務所で一人、パソコンに向かっている最中だったが、綾子が自分の事で嫉妬したのが嬉しかった。だが、急ぎの仕事なので、また入力作業に集中した。

(この前、言いかけて言えなかったけど、俺が再婚したいのは、君なんだよ、綾子)

 それが面と向かっては言えない隆之助であった。


「申し訳ありません、わざわざお越しいただいて」

 優菜は顔を引きつらせていた。パンケーキセットを一口食べたところへ凛太郎が来たからだったが、顔を引きつらせた主な理由は綾子が一緒だった事だった。

(まさか、高岡先生も来るなんて……)

 優菜はますます凛太郎のマザコンを疑い始めた。

「とにかく、何もなくてよかったわね。今日は私の家に泊まりなさい」

 綾子は他意なく言ったのだが、凛太郎と優菜はピクンとした。

「そんなストーカー紛いの事をする奴だったら、貴女のアパートまで尾けていく可能性があるから、危険だと思う。ウチに来れば、絶対安全だから。セキュリティも万全だし」

 綾子は微笑んで告げたが、優菜は、

「はあ……」

 チラッと凛太郎を見てから綾子を見た。綾子はその視線に気づき、

「ああ、凛の事が心配なら、こいつだけホテルにでも泊まらせるから」

「ちょっと、母さん!」

 凛太郎が顔を赤らめて抗議した。優菜は苦笑いをして、

「いえ、そんな風には思っていませんが、凛太郎さんの彼女さんに申し訳ないかなと思いまして……」

 綾子は優菜の言葉に笑い出して、

「そんな事、気を回し過ぎ。緊急避難的な事なんだから、麻奈未さんも何も言わないと思うわ」

 そこまで言ってから、ハッとした。凛太郎が綾子を睨みつけた。

(まずい。麻奈未さんの名前を言っちゃった)

 優菜は二人のやりとりを見ながら、

(やっぱり、まなみさんが凛太郎さんの恋人なのね)

 すぐに察したが、何も言わず、

「そうですか。わかりました」

 スルーして微笑んだ。凛太郎は優菜が麻奈未の事に触れなかったので、ホッとした。

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