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揺れる者達

 柿乃木優菜は仕事を終えて、綾子に夕食に誘われたのを断わって、家路を急いでいた。

(ああ、完全にお母様に警戒されてしまった……)

 優菜は、凛太郎が住んでいたアパートの同じ部屋に入居した事を告げた時の綾子の顔が頭から離れない。

(言うべきではなかったかな。それはそうよね。自分の息子に気があると思われる女が、息子がいたアパートの同じ部屋を借りたなんて、ストーカーと思われても仕方ない)

 優菜はバスに乗って、ずっと項垂れたままでいた。

(凛太郎さんが入居していた部屋が一番早く住めるからそこを選んだのであって、凛太郎さんがいた部屋だからではないのは本当なのに……)

 優菜はそればかり思い巡らせていたため、何者かがすぐ後ろの座席に座ったのに気づかなかった。

「あ」

 降りるバス停を乗り過ごしてしまい、次のバス停で降りた。何者かも続いて降りたが、優菜が歩いていくのをしばらく見届けてから、後を尾け始めた。普段の優菜だったら、確実に気づいている尾行者だったが、その時の優菜には全く気づける余地がなかった。


 麻奈未は、高岡税理士事務所の就業時間をホームページで把握していたので、五時半を過ぎると、すぐに凛太郎のスマホに連絡しようと思っていたのだが、

(そんなすぐに帰らないかも知れない)

 優菜の退所時間を考えて、少し待つ事にした。

(私、警戒し過ぎかな?)

 自分があまりにも小心者なので、自己嫌悪に陥りそうである。

「え?」

 その時、バッグに入れたばかりのスマホが鳴り出したので、

(凛君?)

 嬉しくなってすぐにスマホを取り出して、

「はい」

 余所よそ行きの声で応じた。

「どうしたの、お姉? 随分ご機嫌じゃない?」

 相手は聖生いもうとだった。

「何だ、あんただったの? 何? 自分の蕎麦代を払う気になった?」

 恥ずかしさのあまり、麻奈未は強い口調で言い返した。

「悪かったわよ。埋め合わせはするから、取り敢えず私の話を聞いて」

 聖生は姉を宥めた。

「何の話?」

 麻奈未はフロアを出て廊下を歩き始めた。幸い、第一級警戒者である姉小路の姿はない。

「お母さんの事なんだけど」

「お母さんの事?」

 麻奈未は声をひそめた。

「署に帰る時、偶然お母さんが高級フレンチの店から出てくるのを見たの」

 麻奈未は周囲を見渡してから、

「高級フレンチ? 珍しくないでしょ。それがどうかしたの?」

「まあ、それだけなら、相変わらず羽振りがいいなって思うだけなんだけど、男の人と一緒だったの」

 聖生は愉快そうな声で告げた。麻奈未はギョッとして、

「それって、もしかしてニュースソースの人かしら?」

「それはどうかわからないけど、口髭を生やした、お母さんと同年代くらいのダンディーな人だったの。もしかして、ボーイフレンドかなって思ってさ」

 聖生の言葉に麻奈未は、

「お母さんは何だかんだ言って、お父さんに未練あると思うから、絶対に違うと思う」

「それはお姉の憶測でしょ? むしろ、お父さんの方が未練タラタラだと思うよ」

 聖生が言うと、麻奈未はムッとして、

「その話はいいから、二人はその後どうしたの?」

「そこまでは見てないよ。私も署に戻られければならなかったから。一応、写真は撮ったけどね」

 麻奈未は聖生に苛つき、

「じゃあ、その写真を送って。あんたは心当たりないの?」

「確定申告の説明会で見たような気がするから、もしかするとどこかの税理士事務所の人かも」

 麻奈未は右手を顎に当てて、

「お母さん、税理士の知り合いいないと思うんだけど、あんたが見かけた気がするのだったら、その可能性が高いかな」

「結構カッコよかったから、見間違いではないと思うよ。署の同僚に聞いたけど、誰も知らなかったから、あまり説明会に来ていない税理士の先生かもね」

 麻奈未は聖生の記憶の仕方に溜息が出そうだったが、

「じゃあ、高岡先生にそれとなく聞いてみる」

「ああ、それいいかも。高岡先生、顔が広そうだから、知ってそう」

 聖生は同意した。

「じゃあね」

 麻奈未は通話を終えると、綾子にかけ直そうとして、凛太郎から着信があったのに気づいた。

「ああ、またやっちゃった……」

 そして項垂れた。

「あ」

 その時、聖生からラインで画像が送られてきた。

「へえ、聖生ってこういうタイプが好きなんだ」

 麻奈未は送られてきた画像を見た。聖生は意識的なのか、母親の美奈子をカットして男性だけ撮っていた。

「どこかで見た事があるような……」

 麻奈未を首を傾げた。


「麻奈未さん、話し中だったよ」

 凛太郎はがっかりして言った。綾子はハンドバッグを持ちながら、

「だから、いちいち項垂れないの! 相手は忙しい人なんだから、すぐに連絡を取れるとは限らないでしょ」

 落ち込みやすい息子をたしなめた。

「あ、またかかって来た」

 凛太郎が言ったので、

「麻奈未さん?」

 綾子がすぐに尋ねた。しかし、凛太郎は首を横に振って、

「違う。麻奈未さんの妹の聖生さん。お昼頃にもかかって来たんだけど、出なかったんだ」

「どうして? 麻奈未さんの妹さんの電話に出ないって、麻奈未さんに印象悪いでしょ?」

 聖生との事を知らない綾子は息子を叱った。凛太郎は結局聖生からの電話に出ずに留守電にしてから、

「聖生さん、一度交際を申し込んできたんだよ。しかも、麻奈未さんに振られたその日に」

 口調を強めて言った。綾子は目を見開いて、

「あら、そうなの。随分な人なのね。じゃあ、出なくて正解。放置しときなさい」

 すると凛太郎は、

「あ、その間に麻奈未さんから連絡があったよお。もう、聖生さんのせいだ」

 口を尖らせた。綾子は肩をすくめて、

「あんた達って、つくづく間が悪いカップルね」

 ドアを開いた。

「帰るわよ。急いで」

 凛太郎は綾子がすぐにフロアの明かりを消してしまうのを知っているので、

「待ってよ!」

 慌てて綾子を追いかけ、消灯してドアを閉じた。


「む?」

 衆議院会館の事務室の席に座っていた連間むらじま才明さいめいは机の上に置かれたスマホが振動したのに気づいた。

(何の用だ?)

 連間は画面に出た相手の名前を見て、一瞬考えた。そして、

「おい、ちょっと外せ」

 近くに立っていた秘書の敷島幸雄を見上げた。

「は?」

 敷島は何故そんな事を言われたのかわからず、きょとんとした。

「出て行けと言っているんだ!」

 連間が怒鳴ったので、敷島は、

「は、はい!」

 慌てて事務室を飛び出していった。連間はスマホを取ると、口を手で覆って、誰もいないのを改めて確認してから通話を始め、

「どうした? こんな時間に珍しいな」

 敷島に怒鳴った十分の一くらいの声量で尋ねた。


(話し中だった)

 麻奈未はまた項垂れた。それが聖生のせいだと知ったら、長時間文句を言ったかも知れない。

(誰と話していたんだろう? まさか、柿乃木優菜さん?)

 まさに疑心暗鬼を生ずである。

(いや、そんなはずない。凛君はそんな子じゃない)

 それでも、凛太郎を誠実な男だと思い直した。

「もう一度」

 麻奈未な自分に言い聞かせ、リダイアルしようとしたが、怖くなってしまった。

(また話し中だったら……)

 そう思うと、タッチできない。凛太郎を疑う訳ではないのだが、優菜が怖くなっているのだ。

(お母様に連絡する方が確実で安心かも)

 また綾子に頼る事にした。

(お母さんと一緒にいた男の人の事も気になるから、そうしよう)

 麻奈未は自分が凛太郎から逃げているのではないと自分に言い訳しながら、綾子の携帯に連絡した。


「あら、麻奈未さんからだわ」

 綾子は階段を駆け下りながら、スマホを取り出して言った。

「え? どうして?」

 凛太郎が泣きそうな顔で訊いた。綾子は階段を下り切ってエントランスに着くと、通話を開始した。

「お疲れ様。どうしましたか?」

 綾子は聞き耳を立てている凛太郎を手で追い払った。凛太郎は悲しそうに母親から離れた。

「お疲れ様です。見ていただきたい画像があるんです」

 麻奈未は凛太郎の事をすぐに切り出せなくて、美奈子と一緒だった男の話題から話し始めた。

「画像?」

 綾子は眉をひそめた。

「私の母親と一緒にいた男性の写真を見て欲しいんです。妹の話だと、税理士の先生ではないかと」

「税理士?」

 綾子は一瞬にして嫌な予感を覚えてしまった。

(まさか……)

 綾子の中では、元の夫の隆之助は名うての女たらしなので、すぐに隆之助に思い至ったのだ。

(いや、いくら何でも、そんなはずはない)

 隆之助を疑い過ぎだと思い直した。凛太郎に言われた事を思い出したのだ。

「今送りました。ご確認いただけますか?」

 麻奈未の声が聞こえた。

「あ、はい、ちょっと待ってくださいね」

 綾子はラインのアプリを開いて、麻奈未が送ってきた画像を見た。

「え?」

 我が目を疑った。それはあり得ないと思った隆之助の画像だったのだ。しかも、笑顔の。

(何よ、この嬉しそうな顔は?)

 次第に怒りが込み上げてきた。

(よりによって、麻奈未さんのお母様と……。何を考えているのよ!?)

 綾子はわなわなと震え出した。

「見ていただけましたか?」

 麻奈未の声が尋ねた。綾子は一瞬にして現実に引き戻された。

「はい。申し訳ないのですが、知らない方ですね」

 綾子は棒読みで言った。

「誰なの?」

 凛太郎が覗こうとしたので、綾子は慌ててスマホを耳に当てて、

「そうですか。ご迷惑をおかけしました」

「いえ、お気になさらず」

 綾子は作り笑顔を強引にして応じ、通話を終えようとしたが、

「あの、凛君、いえ、凛太郎さんは?」

 麻奈未が本題に入った。綾子はチラッと凛太郎を見てから、

「凛太郎は今、お客様から連絡があって、出かけました。しばらく電話には出られないと思います」

「そうですか。わかりました。では、明日改めて連絡してみます」

 麻奈未の寂しそうな声を聞き、綾子は罪悪感に潰されそうだったが、

「そうしてください」

 そのまま通話を終えた。

「ちょっと、母さん、どうしてそんな嘘を吐くんだよ!?」

 凛太郎が大声で言った。すると綾子は無言で隆之助の画像を見せた。

「え? 父さん? どういう事?」

 凛太郎には何が起こっているのかわからない。綾子は大きく溜息を吐いて、

「麻奈未さんのお母様と食事をしていたのが、こいつだったの!」

 凛太郎にスマホを突き出した。

「ええ? 父さんが麻奈未さんのお母さんと? どうしてだろう?」

 凛太郎は笑顔の父親の画像を見てから、怒り心頭の母親の顔を見た。

「そんな事、わからないわよ! そいつに直接訊いてみたら?」

 綾子はラインアプリを閉じ、スマホをハンドバッグにしまった。

「麻奈未さんのお母様と一緒にいたのが元の夫ですだなんて、絶対に言えないでしょ? 凛だって、自分の父親が恋人のお母様と一緒にいたなんて言えないでしょ?」

 綾子は凛太郎に噛みつきそうな勢いで捲し立てた。

「そ、そうだね……」

 うっかりした事を言って、また母の逆鱗に触れるのは嫌なので、凛太郎はただ同意した。

「どういう事なのか、訊き出して。それからでないと、麻奈未さんと話をできないでしょ?」

 綾子は更に凛太郎に詰め寄った。

「え? 俺が訊くの?」

 凛太郎はつい本音を言ってしまった。

「私が訊いたら喧嘩になるから、あんたに訊いてもらいたいの!」

 綾子は凛太郎の襟首を捻じ上げた。

「わ、わかったから、放して!」

 凛太郎は綾子の手を振りほどいて、スマホを持つと、隆之助に連絡した。

「母さんはいない事にして」

 綾子が釘を刺した。

「わかったよ」

 凛太郎は母から離れたところへ行き、

「父さん、今大丈夫?」

 通話を開始した。しばらくぶりにかけるので、凛太郎は緊張していた。

「おう、凛太郎か。久しぶりだな? 元気か?」

 事情を知らない隆之助の声が妙に明るいので、凛太郎は溜息を吐きそうになった。しかし、それはジッとこちらを固唾を呑んで見守っている綾子に刺激を与えかねないので、何とか堪えた。

「元気だよ。父さんも元気そうだね?」

 凛太郎は作り笑顔で応じた。綾子が眉間にしわを寄せるのが見えた。早くも隆之助の様子に気がついたのかと凛太郎は焦った。

「どうした? 早速母さんと揉め事か?」

 決して母に聞かせられないような事を言う父を凛太郎は情けなく思った。

(父さん、そういうところだよ、母さんを怒らせるのは)

 離婚して正解だったと思ってしまう凛太郎である。

「そうじゃないんだ。父さん、今日どこでお昼ご飯を食べたの?」

 凛太郎は話があらぬ方へ行きかけているので、強引に修正した。

「え? どうしてそんな事を訊くんだ?」

 流石に隆之助も変に思ったようである。声が低くなった。

(やっぱりやましいと思っているから、声の調子が変わったのかな?)

 凛太郎も父の異変に気がついた。

「ああ、そうだ。それで思い出したんだけど、お前、国税局の査察部の女性と付き合っているそうだな?」

 いきなりのカウンターパンチに凛太郎は狼狽えてしまった。

「ど、どうして知っているの?」

 凛太郎はパニックになりかけて、思わず綾子を見てしまった。

「ああ、そういう事か。誰からの情報かは知らないが、妙な勘ぐりはしないでくれよ。今日、昼飯を一緒に食べたのは、伊呂波坂美奈子さんと言って、お前の交際相手のお母さんだよ」

 探りを入れていたはずなのに、逆に探られてしまった凛太郎は父に返す言葉がない。

「父さんは悲しいぞ。どうして教えてくれなかったんだ? まさか、美奈子さんから伝えられるとは思わなかったぞ」

「そ、それは、麻奈未さんに秘密にして欲しいって言われたからだよ」

 凛太郎はそれだけ言うので精一杯だった。

「そばに母さんがいるんだろう?」

 更に隆之助が詰めてきた。凛太郎は冷や汗まみれになって、

「い、いないよ」

 とぼけたが、隆之助は、

「まあ、いい。母さんに連絡するよ。誤解しているってね。じゃあな」

 一方的に通話を終えてしまった。凛太郎はまた母を見た。

「何?」

 綾子は訝しそうに息子を見た。その時、綾子の携帯が鳴り出した。

(あ、この着メロ……)

 凛太郎は綾子が急に席を外す事があったのは、父からの電話のせいだったのだと理解した。

「わわ!」

 綾子は慌てて駆け出すと、エントランスを出て行った。

「今更そんな事をしても遅いのに」

 凛太郎は父も母もお互いにコミュニケーションが下手だと思った。

「お」

 今度は凛太郎のスマホが鳴った。一瞬麻奈未かと思ったのだが、着信音が違った。

(優菜さん?)

 凛太郎は何の用だろうと思いながら、通話を開始した。

「お疲れ様です。どうしましたか?」

 すると優菜の声が、

「助けてください!」

 絶叫に近い大きさで聞こえてきた。

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