こじれる三角形
綾子は凛太郎の何気ない一言にすっかり動揺してしまった。
(隆之助に聞いたなんて絶対に言えない。どうしよう?)
綾子はどう返事をしようかと考え込んだが、
「母さん、食べないの?」
凛太郎が顔を覗き込んできたので、
「た、食べるよ」
綾子は凛太郎が自分で質問した事を忘れているようなので、意図的にガツガツと天ぷらと蕎麦を口に運んだ。
「そんなに慌てて食べると、喉を詰まらせるよ」
凛太郎が言ったので、
「母さんはそんなに年寄りじゃありません!」
更に意図的に曲解してみせた。
「そういう意味じゃないよ。変なふうに解釈しないでよ」
凛太郎が慌てたので、綾子は悪乗りして、
「じゃあ、どういう意味? 他にどんな解釈があるっていうの?」
箸を置いて詰め寄った。すると凛太郎も箸を置いて、
「子供が親の心配をするのに理由なんて要らないだろ?」
綾子はその言葉にまたキュンとしてしまった。
「凛は本当にいい子だね。母さんは嬉しいよ」
綾子は涙ぐんで凛太郎を見た。
「あ、そう」
凛太郎は感情の起伏の激しい母を見て引いてしまった。
蕎麦を食べ終えた麻奈未達は、また聖生の話題に戻った。
「聖生、本当に大丈夫? 同僚だからって遠慮していると、大変な事になるよ」
麻奈未が真顔で言ったので、
「そこまでじゃないって。朝な夕なに迫って来るような奴じゃないから大丈夫。それにあまり強く拒否して、職場環境が悪くなったり、そいつが落ち込んで休んだりしたら困るから」
聖生は苦笑いして応じた。
「その言い方、聖生ちゃんも満更じゃないって事?」
茉祐子がニヤリとした。聖生はムッとして、
「とんでもない。どう頑張っても、お付き合いはできないよ。さっきも言ったように、蓼食う虫も好き好きのあんたでさえ、考えちゃうくらいの見た目だから」
「失礼な。私にだって好みはあります! 男だったら誰でもいいような事、言わないでよね」
茉祐子もムッとして言い返した。
「人を見た目で判断してはいけないよ、聖生」
麻奈未の優等生的な発言に聖生は姉を見て、
「これでもそう言える、お姉?」
スマホの画像を見せた。それは同じ部署の職員達の集合写真だった。
「どれどれ?」
麻奈未より先に茉祐子が覗き込んだ。
「私の右斜め後ろにいる坊主頭の小太りの子。一期下の天川大介」
聖生はその男を拡大した。
「あんた、面食い過ぎ。別にそこまで言う程のルックスでもないでしょ?」
茉祐子は溜息を吐いて聖生を見た。
「むしろ、ちょっと愛嬌があって可愛いと思う」
麻奈未が言うと、
「お姉は年下大好きのバイアスがかかっているから、公正な目で見られないの。写真じゃわからないけど、そいつ、すごく汗っ掻きなの」
聖生が言った。麻奈未は「年下大好き」に顔を赤らめて、
「年下どうこうは関係ないでしょ? とにかく、あんたは男の人を顔で選び過ぎ」
「そうそう」
茉祐子まで麻奈未に味方し始めたので、聖生は、
「いいじゃない、誰にも迷惑かけていないんだから」
すると麻奈未はすかさず、
「かけてるでしょ、私には。凛君狙ったりして!」
姉の反撃に聖生はぐっと詰まった。
「まあまあ、先輩。それだけ、先輩の彼氏さんがかっこいいって事ですよ」
茉祐子が麻奈未を宥めた。
「凛君がかっこいいのはその通りだけど、聖生の見境のない行動は許せない」
麻奈未の怒りは止まらない。すると聖生は、
「茉祐子を励ます昼食会なのに、どうして私が責められる会になってるの?」
言い返した。今度は麻奈未が詰まった。
「ごめんなさい、中禅寺さん。こんな妹と親友でいてくれて、ありがとう」
麻奈未は聖生を無視して茉祐子に言った。
「何よ、それ?」
聖生が更に反応するが、茉祐子は麻奈未に見えないところで聖生を突きながら、
「聖生ちゃんはいい子ですよ。先輩も妹だからって、厳しい目で見過ぎではないですか?」
微笑んで麻奈未を見た。
「そうかな?」
麻奈未はそれには不満そうだ。聖生はここぞとばかりに、
「それで、凛太郎さんとは連絡取れたの?」
ニヤニヤしながら尋ねた。麻奈未は聖生を睨んで、
「あんたに関係ないでしょ?」
「関係あるよ。お姉が凛太郎さんとうまくいかないと、とばっちりがこっちに来るんだから」
聖生は負けずに返した。麻奈未はまたぐっと詰まった。
「着信があったかも知れないよ」
聖生が嬉しそうに煽るので、
「そ、そうかな?」
麻奈未もついその気になってスマホを取り出した。
「あ、三回もかかってきてた!」
麻奈未は涙ぐんだ。
「ほらほら、妹をいじめているから、肝心な時に愛する人からの着信に気づかないのよ」
聖生は腕組みして鼻で笑ってみせた。
「ううう……」
麻奈未は無駄な時間を費やした事を後悔した。
「早くかけ直しなさいよ」
聖生が煽った。しかし、
(もし、柿乃木税理士のお嬢さんが近くにいたら、まずい)
麻奈未は優菜の存在が怖くてかけ直せない。
「じゃあ、私がかけるから、お姉代われば」
聖生は麻奈未の承諾も得ずにいきなり自分のスマホで凛太郎にかけた。
「ちょっと!」
麻奈未がスマホを奪おうとしたが、聖生はそれを巧みにかわした。だが、コール音が続き、留守番電話サービスになった。
「……」
聖生は凛太郎が出てくれない事にショックを受けたようだ。言葉が出ない。
「ほーら、見なさい。凛君は誰からの電話にも出る子じゃないの」
安心した麻奈未が得意満面で言った。茉祐子は苦笑いするしかない。
(伊呂波坂先輩って、聖生ちゃんといると人が変わるのね)
茉祐子は麻奈未の意外な一面を見た気がした。
「そう言えば、いつの間にあんた、凛君の携帯番号を知ったの?」
麻奈未がハッとして聖生に詰め寄った。
「それは私のせいじゃないからね! 凛太郎さんから訊いてきたんだから」
聖生はスマホをバッグに入れながら言った。
「え? それ、どういう事?」
麻奈未は信じられないという表情で聖生を見た。
「凛太郎さんが、お姉に連絡が取れない時のためにって、訊いてきたの。お姉はマルサだから、時々連絡取れない事があるかも知れないからって」
聖生はムッとした顔で言い返した。
「あ、そう……」
そう言われてしまうと、麻奈未も納得するしかない。現に凛太郎からの連絡を何度も受けられなかったから。
「でも、ちょっと悔しいのよね。お姉に連絡が取れないの、何度もあったのに、凛太郎さん、一度も私にかけてくれなかったし」
聖生は肩をすくめた。
「だから、早くかけ直しなさいよ。何を躊躇う必要があるの?」
事情を知らない聖生は更に言った。麻奈未は聖生を見て、
「できないのよ。今、凛君はお母様の事務所で働いてるの」
聖生は麻奈未を見返して、
「そんなの、気にしなくても大丈夫でしょ。お姉はお母様と会ったんでしょ?」
麻奈未は畳み掛けようとする聖生を手で制して、
「問題は、お母様じゃないの。柿乃木税理士のお嬢さんが、事務所で働いてるのよ」
聖生は目を見開いて、
「ああ、あの時、エレベーターで一緒に降りてきた穏やかそうな胸の大きな子ね? やっぱり、凛太郎さんを狙ってるの?」
茉祐子は聖生の話に興味が湧いたらしく、麻奈未の答えを待った。
「お母様の話だとね。私はその人に会った事がないから、本当のところはわからないけど」
麻奈未が言うと、
「いや、絶対にそうだと思う。凛太郎さんとの距離の詰め方が、只の同僚とは思えなかったから」
聖生は優菜の凛太郎に対する視線を思い出して言った。
「聖生ちゃんの見立ては誤りではないですよ。柿乃木税理士の周辺を洗っている時、そのお嬢さんも調べましたが、見た目と違って、結構きつい人みたいですから」
茉祐子が不安要素を提示してきたので、麻奈未はビクッとした。
「あ、いけない。もう私、帰らないと。お姉、ゴチです」
聖生はスマホで時間を確認すると、麻奈未が何か言う前に席を立って出て行ってしまった。
「もう、あいつ、母にそっくりになってきた」
麻奈未は溜息を吐いて伝票を見た。
「すみません、先輩。私のせいで」
茉祐子が恐縮したので、
「ああ、中禅寺さんは何も悪くないから。あいつにはそのうち、しっかり今日の分を償ってもらうから」
麻奈未は微笑んで応じたが、
(伊呂波坂姉妹、なかなか曲者同士かも)
茉祐子は苦笑いして応じ返した。
「結局、麻奈未さん、出てくれないよ。代わりに違う人からは連絡あったけど」
蕎麦屋を出ながら、凛太郎が肩を落とした。
「本当にあんた達って、間が悪いのね。直接会うしかないのかしら?」
綾子は半目で言った。その時、綾子のスマホが鳴った。
「はい、高岡です」
余所行きの声で出た母を凛太郎は笑いそうになったが、笑ったら怒られるので、顔を背けて堪えた。
「あ、優菜さん。どうしました?」
相手は優菜だった。凛太郎はピクンとした。
「そうですか。わかりました。近くまで来ているので、すぐに戻ります」
綾子はスマホをバッグにしまった。
「どうしたの?」
凛太郎が尋ねた。綾子はタクシーを拾いながら、
「相談したい事があるそうなの」
凛太郎はその言葉に、
「え?」
まさか俺の事かと思ってしまった。
「詳しい事は帰ったら話すそうよ」
綾子は停まったタクシーに乗り込んだ。
「あ、そうなんだ」
凛太郎も慌てて乗り込んだ。
「貴重な情報、ありがとうございました。お陰で元妻の評価が爆上がりです」
木場隆之助はフレンチレストランで女性と会食していた。
「あら、そうなの。それは困るわね。元奥さんと復縁したら、こうしてお食事をする事ができなくなるわ」
女性は微笑んで言った。隆之助は、
「いやいや、貴女も元のご主人とラブラブらしいじゃないですか。私にそんな事をおっしゃっても、信じませんから」
フォークとナイフを置いた。
「まあ、言うわね、隆ちゃんも。私がこんなに好きなのに」
小首を傾げて応じたのは、伊呂波坂美奈子だった。
「相変わらず、冗談がきついですよ、美奈子さん」
隆之助は水を一口飲んで言った。美奈子は笑みを封じると、
「それより、貴方のお子さん、私の娘と付き合っているの、知ってる?」
声を低くして尋ねた。隆之助は水の入ったグラスをテーブルに置いてから、
「いえ、知りませんでした。それはまた奇遇ですね。お嬢さんは税理士事務所にお勤めですか?」
「違うの。マルサの女なの」
美奈子はニヤリとして頬杖を突いた。
「それはまた、我が息子ながら、難しいところを攻めたものですね。ちょっと意外です」
美奈子は頬杖を突いたままで、
「太蔵さんがマルサの鬼調査官だったからね。その影響かな?」
「ああ、そうでしたね。お嬢さんはお父上の後を継がれた訳ですか」
隆之助は微笑んで言ったが、
「そうなのよ。母親としては、ちょっと悔しいのよね」
美奈子は口を尖らせた。
「そうですか」
隆之助は苦笑いするしかなかった。
「そう言えば、先日私の元親友が脱税幇助で逮捕起訴された件ですが、それと同じような手口で三十年程前、税理士が逮捕された事件、確か、美奈子さんの元ご主人が担当されていたのですよね?」
隆之助は話題を変えた。美奈子は頬杖をやめて、
「そうなのよ。また同じ政治家が同じ事をして、税理士をはめたの。だから、お灸を据えてもらう事にしたわ」
「は? お灸、ですか?」
隆之助には意味がわからない。
「ま、深く聞かないで。明日にはわかる事だから」
「そうなんですか」
隆之助はまた苦笑いした。
優菜の相談とは、凛太郎が心配していたのとは違って、一色雄大の事だった。
「成程。その男、優菜さんに気があるのね?」
綾子は優菜と向かい合ってソファに座りながら言った。
「それはどうかわかりません。一色さんの目的は、柿の木税理士事務所の乗っ取りのようですから」
優菜の言葉に綾子は目を見開いた。凛太郎も同様である。
「一色さんも怖いのですが、それ以上に気にかかるのは、野間口絵梨子税理士です。私が気に食わないようで、恨まれているみたいなんです」
自分の席に座った凛太郎は絵梨子の名前が出たので、ビクッとした。
「優菜さんはご存知なの? 野間口税理士と貴女のお父さんの事は?」
綾子は言葉を選んで尋ねた。優菜は綾子を見て、
「はい、知っています。というか、わかりました。あの人の声で」
「声で?」
綾子は眉をひそめた。優菜は座り直して、
「あの人、母が亡くなってしばらくすると、家に来るようになったんです。私は顔を合わせた事はなかったのですが、声は聞いていたので、事務所に凛太郎さんを訪ねてきた時、すぐにわかりました」
凛太郎は優菜の話を聞き、あの時、優菜が何故絵梨子に対して敵意むき出しだったのかがわかった。
「まあ、どちらも心配要らないわ。この事務所の中まで入ってくる事はないでしょうから。行き帰りが怖いのなら、私の家に住み込みでもいいし。私の車に乗って通勤すれば、心配ないでしょ?」
綾子のとんでもない提案に凛太郎は立ち上がり、優菜は、えっとなった。
「嬉しい提案ですが、それはちょっと……」
優菜は綾子の向こうに見える凛太郎をチラッと見てから言った。綾子は含み笑いをして、
「まあ、それはやり過ぎかしらね。相手は暴力団とかじゃないんだから、そこまで警戒する必要はないか」
立ち上がった凛太郎を見てから、優菜を見た。凛太郎は母に見られて椅子に戻った。
「そうですね」
優菜は凛太郎が驚いて立ち上がったのを見てしまったので、俯いた。
「そう言えば、優菜さんは今はどこに住んでいるのかしら?」
綾子が尋ねた。優菜は綾子を見て、
「今は、以前凛太郎さんが住んでいたアパートにいます」
「え?」
凛太郎はパソコンを開いて起動していたのだが、ハッとして優菜を見た。
「まだ、荷物はあまり移せていないのですが、必要最低限のものは運んでもらいました」
優菜は凛太郎を見ないように視線を下げて言った。
「そうなの」
綾子は若干引いていたが、
「父の事務所の顧客に不動産会社があって、そこの伝手で紹介してもらったんです。別に凛太郎さんが住んでいたからではありません」
綾子の反応に気づいた優菜が言った。
「ああ、そうですか」
綾子は早とちりをしているのがわかり、苦笑いした。
(母さん、優菜さんを警戒し過ぎだよ)
母の過敏な反応に凛太郎は呆れていた。




