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混乱する三角形

 東京国税局の職員が襲われた事件を気にしているのは、木場隆之助と高岡綾子だけではなかった。

(まさか、伊呂波坂麻奈未が襲われたんじゃないでしょうね?)

 麻奈未に逆恨みをしている税理士の野間口絵梨子も苛立っていた。

(伊呂波坂は私がいたぶるのよ。他の誰にも手出しはさせない!)

 絵梨子は散々利用してきた姉小路潤の携帯電話に連絡した。コールが続き、留守番電話サービスにつながった。

「姉小路君、そういうつもりなら、出るとこに出ましょうか? すぐに折り返し連絡を頂戴)

 絵梨子は感情を押し殺してメッセージを残した。するとわずか数秒で姉小路が折り返してきた。

「絵梨子さん、勘弁してよ。俺だって忙しいんだからさ」

 息を弾ませた姉小路の声が言った。絵梨子はフッと笑い、

「あら、そうなの。貴方が暴漢に襲われたのかと思ったわ」

 カマをかけた。

「それはどうも。残念だけど、俺はピンピンしているよ」

 姉小路が言い返すと、

「そうなの。まさか、伊呂波坂が襲われたんじゃないわよね?」

「伊呂波坂ちゃんも元気だよ。黒幕は絵梨子さんだったのかい?」

 姉小路の声が低くなった。

「バカ言わないでよ。伊呂波坂は私が直接言葉でいたぶってやりたいんだから、そんな事をするはずがないでしょう?」

 絵梨子は姉小路をまたいじめてやろうと思いながら、

「伊呂波坂が無事ならそれでいいわ。じゃあまたね、姉小路君」

 姉小路の返事を待たずに通話を終えた。

(国税局はやっぱり怖いところね。勤めなくてよかった)

 絵梨子はスマホを操作して、別のところにかけた。

「お疲れ様。柿乃木税理士の小娘が働いているのは高岡先生の事務所よね?」

 絵梨子が尋ねた。

「はい、そうです。それが何か?」

 電話の相手は優菜の元同僚の一色雄大だった。

「小娘を見張って頂戴。あの子にもお礼をしたいから」

「わかりました。見張るだけでいいですか?」

 優菜に未練がある一色が訊いた。

「そうよ。間違っても手を出しちゃダメだからね、坊や」

 絵梨子の通告に一色は、

「もちろんです。今の俺は身も心も先生に捧げていますから」

「お願いね」

 絵梨子は身震いをして通話を終えた。

(こいつ、本気でいたぶっても喜ぶから、始末が悪い)

 絵梨子は一色が邪魔になってきていた。


「誰からですか?」

 姉小路がフロアの隅でヒソヒソ話しているのを見ていた麻奈未が声をかけた。姉小路は、

「野間口絵梨子。襲われたのは伊呂波坂ちゃんかと訊いてきたよ」

 正直に告げた。麻奈未は目を見開いて、

「野間口先輩が? どういうつもりなんでしょう?」

 姉小路はスマホをスーツのポケットに入れながら、

「さあね。あの人の考えている事はわからないよ」

「そうですね」

 麻奈未はそれだけ言うと、席に戻って行った。

(お母さんから聞いた事を統括官に伝えたけど、どこまで信じていいかわからない)

 麻奈未は美奈子が『明日の朝には、状況がひっくり返っていると思うから』と言った事を不安に思っていた。

(今頃、部長に話しているのよね)

 麻奈未は織部の席を見た。

「それにしてもさ、さっきの伊呂波坂ちゃんの話、本当だったら凄いよね」

 姉小路が机越しに話しかけてきた。麻奈未は姉小路を見て、

「私にもどこまで事実なのかはわからないです」

 姉小路は身を乗り出して、

「統括官が言っていた別ルートって、伊呂波坂ちゃんのお母さんだよね?」

 麻奈未はその言葉にギョッとして、

「どうして知っているんですか?」

 姉小路には知られたくなかったので驚いてしまった。

「いやあ、伊呂波坂ちゃんのお母さんに偶然街で会ってさ。何か情報があったら、教えてって、色っぽい目で言われて名刺渡されて、名字が伊呂波坂だったからそうかなと思って訊いたんだよ」

 姉小路は照れ臭そうに言った。

(お母さん、誰彼構わずなのね……)

 麻奈未は美奈子と親子の縁を切ろうかと思った。

(しかも、姉小路さん、お母さんに誘われたら、本気にしちゃいそうで怖い)

 麻奈未の中では、姉小路はとんでもなくチャラいと思われているのだ。

「伊呂波坂ちゃんのお母さん、若いよね? 伊呂波坂ちゃんのお姉さんに見えたよ」

 本日二度目のその言葉に麻奈未はカチンときて、

「老け顔で悪かったですね。セクハラで部長に言ってもいいですか?」

 姉小路を睨みつけた。

「あ、いや、そうじゃないんだよ。お母さんが凄く若いって事だよお。伊呂波坂ちゃんが老け顔だなんて、思った事ないよ」

 姉小路は中禅寺茉祐子の『伊呂波坂先輩達に何かするつもりなら、覚悟してください。国税局の女性を全員、敵に回しますからね』という脅し文句を思い出して震え上がった。

「そうですか」

 麻奈未は作り笑顔で応じると、書類に目を向けた。姉小路は溜息を吐き、パソコンを開いて作業を始めた。

「あら?」

 麻奈未はその時、聖生からラインが入っているのに気がついた。

(茉祐子が落ち込んでいるから、励ましてあげようよ)

 聖生は親友の茉祐子の事を知り、麻奈未に連絡してきた。

(わかった。後で場所と時間を教えて)

 査察がなくなったので時間ができた麻奈未は茉祐子を慰めようと思った。

(凛君も誘おうか)

 ふと思いついたのだが、

(ダメだ。柿乃木税理士のお嬢さんがいる時にかけるのはまずい)

 優菜の存在を思い出し、諦めた。そして、凛太郎からの着信に気づいた。

(もう、凛君、タイミングが悪い!)

 姉小路と話している時にかかってきていたのだ。それも三回も。

「え? 何? まだ怒ってる?」

 つい姉小路を睨んでしまったので、彼がビビったのを見て、

「いえ、別に」

 また作り笑顔で応じ、スマホをスーツのポケットに入れた。

(マナーモードになっているから、ここがいい)

 振動を肌で感じられるのを考えた。


「麻奈未さん、出てくれないよ」

 凛太郎は落ち込んでいた。

「例の事件のせいで忙しいのかも知れないわ。少し待ちなさい。昼休みにかけてみれば?」

 優菜から凛太郎を引き離すために、綾子は凛太郎を伴ってタクシーで顧客のところに向かっていた。

「この機会に何としても連絡をつけなさい。何度もあんたを連れ出していたら、流石に優菜さんに変に思われるから」

 綾子はスマホで調べ物をしながら言った。

「変にってどういう事?」

 凛太郎はピンと来ていない。綾子は半目になって、

「あんたをマザコン男だと思うって事よ」

「ええ? マザコン?」

 凛太郎があからさまに嫌そうな顔をしたので、綾子はムッとして、

「そのリアクション、私と出かけるのは迷惑だという事?」

 凛太郎は地雷を踏んだ事に気づき、

「いや、決してそういう意味ではないんだ、母さん」

 嫌な汗を掻いて弁解した。

「いいのよ、凛。母さんはそんな凛が好きなんだから」

 綾子は凛太郎の頭を撫でた。

「やめてよ!」

 凛太郎は笑って振り払った。綾子はそれも嬉しそうに受け止めて、

「もう、あんただけなんだからね、母さんが頼れるのは。見捨てないでよ」

 急に涙ぐんだので、

「え、どういう事?」

 凛太郎は目を見開いた。綾子は涙を拭って、

「だって、父さんが母さんを見捨てたから、凛に見捨てられたら、もう誰もいなくなってしまうからよ」

 凛太郎は溜息を吐いて、

「母さんを見捨てたりしないよ。母一人、子一人じゃないか」

「凛!」

 綾子は嬉しさのあまり、凛太郎を抱きしめた。

「ちょっと、母さん!」

 凛太郎は運転手がチラッとルームミラーでこちらを見たのに気づき、焦っていた。

「でも、ちょっとさっきは驚いたよ」

 凛太郎は綾子を押し戻して言った。

「え? 何が?」

 綾子には何の事かわからない。凛太郎はクスッと笑い、

「さっき、母さん、しばらくぶりに父さんて言ったじゃないか。自覚してなかったの?」

「え?」

 綾子は赤面した。

(そんな事、言ったの?)

 凛太郎は綾子のリアクションを見ていなかった。

「母さんは、ずっと父さんの事をあいつとか、あの男とか呼んでたじゃないか。何かあったのかなって思った」

 凛太郎に微笑んで顔を見られて、綾子は慌てた。

(あの時、隆之助に言われた事と、私が言ってしまった事が影響したのかしら?)

 凛太郎は前を向いて、

「俺は、母さんと父さんが仲良くしてくれるのが一番なんだけどね」

「凛……」

 凛太郎の本音を聞き、綾子はキュンとしてしまった。


(また逃げられてしまった……)

 優菜は凛太郎が嬉々として綾子と出かけるのを見て思った。「嬉々として」には優菜の凛太郎に対する感情が載せられている。

(凛太郎さんて、やっぱりマザコン?)

 綾子が危惧していた事が現実になろうとしている。その時だった。

「え?」

 優菜は自分のスマホが鳴るのに驚いた。

(誰?)

 優菜は着信音を分けていないので、誰からの着信なのかは見ないとわからない。

「うわ……」

 それは一色雄大からだったので、ゾッとしてしまった。出ないでおこうかと思ったが、帰りに待ち伏せされるのも怖いので、仕方なく通話を開始した。

「はい」

 それでも、嫌々出たのはわからせたいので、不機嫌な声で応じた。

「ああ、優菜さん。元気にしていますか?」

 一色の調子のいい声が聞こえた。

「はい、何とか。どうされましたか?」

 更に不機嫌全開で応じる。一色は笑ったようだったが、

「今は憧れの高岡先輩と仕事ができて嬉しそうですね?」

 嫌味のような事を言われたので、

「別に憧れてはいません。只、貴方のように不快なイメージはありませんけど」

 不機嫌を通り越して、敵意を向けた。

「それは残念ですね。僕は貴女に好意しかないのですが」

 一色の言葉は全部寒気がすると優菜は思った。

「ご用件は何でしょうか? 今、仕事中なのですが」

 優菜は苛ついてしまった。一色はまた笑ったようだ。

「優菜さんが野間口先生に睨まれている事をお伝えしようかと思いましてね」

 一色の言った事に優菜はビクッとした。

「野間口先生に?」

 優菜は険のある顔の絵梨子を思い出した。

「貴女に二度も邪魔をされたのを酷くご立腹でしてね。気をつけてくださいね。あの先生は執念深いですから」

 一色は笑いながら告げた。

「それはどうもありがとうございます。今はその野間口先生の事務所で働いているのですね?」

 優菜は嫌味を返した。

「そうですよ。僕は優秀ですからね。来年には税理士資格を取り、やがては事務所を開くつもりです。どこかの誰かさんと違って、向上心があるんです」

 一色は明らかに凛太郎を意図した物言いをした。

「それはご立派ですね。では失礼します」

 優菜は通話を終えて、マナーモードにした。

(何よ、あいつ! 本当に嫌味な奴!)

 

 お昼休みになり、麻奈未は茉祐子と共に外に出た。

「ここですか」

 茉祐子が店の看板を見上げて言った。麻奈未は苦笑いをして、

「聖生に任せたのが間違いだったかな?」

「いえ、大丈夫です」

 聖生の親友である茉祐子は麻奈未の言葉に笑顔で応じた。聖生が予約したのは、安いうまいが売りの蕎麦屋だったのだ。

(お蕎麦じゃ元気になれないでしょ?)

 麻奈未は暖簾のれんをくぐりながら、聖生に注意しようと思った。

「お姉、茉祐子、こっちこっち!」

 すでに奥の座敷に座っている聖生が膝立ちで手招きしている。麻奈未は茉祐子と顔を見合わせてから聖生に近づいた。

「みんな、天ぷらそばセットでいいよね?」

 しかも聖生は注文もすませていた。麻奈未は聖生の向かいに腰を下ろして、

「注文は全員が着いてからそれぞれすればいいでしょ? どうして勝手に決めてしまうの?」

 すると聖生は目を丸くして麻奈未あねを見て、

「お昼休みの時間は限られているんだから、さっさと注文しないといけないでしょ? 効率を考えたんだけど?」

 麻奈未が何か言い返そうとすると、

「私はそれでいいですから」

 聖生の隣に座った茉祐子が言ったので、麻奈未は引き下がるしかない。聖生は得意そうに麻奈未を見てニヤリとした。

「それにしても、災難だったよね、茉祐子の彼氏は」

 聖生はいきなり核心に触れて来た。

「聖生、それは秘密事項なんだから、軽々しく話題にしないで」

 麻奈未が小声でたしなめた。聖生は肩をすくめて、

「ああ、そうだっけ。ごめんなさい」

 全然悪びれた様子もなく言った。

「じゃあさ、三人の間では全然秘密じゃない凛太郎さんの話にする?」

 聖生がいきなり矛先を麻奈未に向けて来たので、

「ちょっと、それもあまり話題にしないでよ。国税局の関係者も狙われる可能性があるんだから」

 麻奈未は目で茉祐子に合図しながら言った。

「え? そうなの? じゃあ、私達、何も話せないじゃん」

 聖生は不満そうに口を尖らせた。

「そう言えば、聖生は男につきまとわれて困ってるって言ってたよね?」

 茉祐子が麻奈未に目で合図して言った。聖生はピクンとして、

「その事に触れる? お姉には知られたくなかったんだけどなあ」

 麻奈未は聖生の言葉に反応して、

「ストーカー被害を受けているの?」

 聖生を見て尋ねた。聖生は笑って、

「そこまでじゃないんだけど、署の同僚に交際を迫られてね」

「同僚? それはまた困った事ね。あまり強く言えないでしょ?」

 麻奈未はどんどん深刻に考えてしまっている。

「私がガツンと言ってあげましょうか?」

 茉祐子が言った。聖生は茉祐子を見て、

「いくら超肉食のあんたでも、あいつはダメだと思うけどね」

「そういう意味で言ったんじゃないから。私には恋人がいるんだよ」

 茉祐子はムッとして、首に下げているネックレスを見せた。

「それを取りに戻ったせいで、襲われちゃったんだっけ」

 聖生がネックレスをジッと見た。麻奈未もネックレスを見て、

「そうなんだ。そこまで進んでいたのね」

 茉祐子を見て微笑んだ。茉祐子は照れ臭そうに笑って、

「進んでいるというか、進まされてしまったというか……。純情な人なんです」

 ネックレスを戻した。そこへ天ぷらそばセットが運ばれて来た。

「天ぷらが冷めないうちに食べちゃいましょうか」

 聖生が割り箸を二人に渡して言った。

「時間もないですからね」

 茉祐子は割り箸を割りながら言った。

「そうね」

 麻奈未も割り箸を割った。


「麻奈未さん、出ないよ。留守番電話になっちゃうよ」

 凛太郎と綾子もお昼休みで別の蕎麦屋にいた。こちらは江戸時代から続く老舗だ。

「根気よくかけなさい。あんたが間の抜けた事をしたせいで、今日まで連絡が取れていないんだから」

 綾子は黒い箸で天ぷらを取りながら言った。

「わかってるよ」

 凛太郎はリダイアルしたが、麻奈未は出なかった。

「すぐにかけ直すんじゃなくて、少し間を置いてからかけるのよ。何かしている時だったら、すぐには出られないでしょ?」

 綾子が窘めた。凛太郎は口を尖らせて、

「わかったよ」

 スマホをテーブルに置き、箸を取った。

「麻奈未さん、例の事件で忙しくて、出られないのかしら?」

 綾子が言うと、

「そう言えば、職員は男性だってどこからの情報なの?」

 凛太郎が訊くと、綾子は口に入れかけた海老の天ぷらを噴きそうになった。

「どうしたの?」

 凛太郎は母のリアクションに疑問を抱いたが、

「何でもない」

 綾子は顔を赤らめて回答を拒否した。

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