急展開
「良かった。無事で本当に良かった」
代田がいる病室に入り、両腕が包帯だらけの彼を見た途端、茉祐子は号泣して駆け寄った。
「茉祐子さん、いや、中禅寺さん、来てくれたんですか? ありがとうございます」
代田は一緒にいる統括官が事情を知っているとは思っていないので、茉祐子を名字で呼んだ。
「もうバレてるよ、充」
茉祐子は涙を拭って言った。
「え?」
顔と頭は包帯に覆われていない代田は目を見開いて統括官を見た。
「まあ、そういう事だ。思っていたより元気そうで何よりだ」
統括官は苦笑いをして告げた。
「あ、ありがとうございます」
代田は幾分引きつり気味に応じた。
「顔は殴られなかったそうだな?」
統括官が言うと、茉祐子はビクッとした。代田は頷いて、
「はい。警告だと言ってました。だから、両腕はとんでもない方向に捻られて、肋骨も何本か折れていたそうです」
茉祐子はまた涙をこぼして、
「そんな……」
絶句してしまった。
「今まで、脅しや威嚇には幾度も遭遇したが、実際に襲撃されたのは私の記憶では一度もない。許し難い暴挙だ」
統括官は静かだが怒りに震えて言った。
「はい」
茉祐子は涙を拭いて統括官を見た。
「こんな事をさせた黒幕を何としても白日の下に引きずり出してやろう」
統括官は茉祐子を見た。
「当然です。でなければ、法治国家ではなくなります」
茉祐子は怒気を含んだ声で言った。
(茉祐子さん、ちょっと怖い)
それを見ていた代田は思った。
麻奈未は何事もなく国税局に着いていた。
「代田は思ったよりも元気だったそうだ。ホッとしたよ」
織部は情報部門の統括官からの連絡を受けて言った。
「それにしても、どういうつもりなんでしょうか? 国税局の人間を暴行して、只ですむと思っているのでしょうか?」
いつになく感情的になっている姉小路が声を荒らげた。
「いや、連間にしても、敷島にしても、そこまで愚かだとは思えない。あくまで推測だが、代田が撮影した敷島の手下達が独断でした事だと思う」
織部は腕組みをして告げた。
「だとしても、連間が何の罪にも問われないのは納得できませんよ」
麻奈未は姉小路が何故それ程怒っているのか少し不思議だった。
「今、警察がその事について捜査しているところだ。もちろん、我々も連間を追い詰めるために更なる証拠の積み重ねをしていく」
織部は姉小路と麻奈未を見た。その時、織部の机の電話の内線が鳴った。
「はい、織部です」
織部が素早く受話器を取った。
「はい。はい」
彼の顔は見る見るうちに曇っていく。麻奈未と姉小路はそれに気づき、顔を見合わせた。しばらく織部は相手の話を聞いていたが、
「わかりました。承服し兼ねますが、仕方ありません。伝えます」
溜息を吐きながら受話器を戻すと、麻奈未と姉小路を見た。
「ブレインホークに関する一連の脱税案件は、ブレインホークの社長と柿乃木税理士を起訴した事で終了とし、別の案件に取りかかるように局長から命令が下った」
織部は歯を食いしばって二人に告げた。
「え? どういう事ですか? 連間のルートはそのまま放置という事ですか?」
姉小路が尋ねた。麻奈未は織部の返答を待った。
「そういう事だ。国税庁長官から局長に直接連絡が入ったそうだ。今の内線は尼寺部長からだ」
織部は忌々しそうな顔をした。
「連間の圧力ですか?」
姉小路が更に訊いた。織部は姉小路を見て、
「それはわからないとしか言えん。長官は財務大臣から連絡をもらったそうだ」
「やっぱりそうとしか思えません。通常、財務大臣が特定の案件について長官に命令する事なんて考えられないですよ」
姉小路は語気を荒らげた。麻奈未は何も言えなかった。
(もしそうだとしても、もう私達にできる事はない。そんな上からの命令では、なす術がない。連間才明、恐ろしい人だ)
織部は姉小路の肩を叩いて、
「我々はできる事はした。堪えてくれ」
麻奈未は命令の流れを聞いて思った。
(事務次官を通していないのは、事務次官は国税庁長官とは後ろにいる国会議員が違うからだ。だから、財務大臣から国税庁長官に直接連絡が行った)
元財務官僚の父がいる麻奈未はそういう動きには敏感だった。
(そんな事がまかり通るなんて、国税局は誰のために動いているのか)
麻奈未は虚しくなった。
(先日、現職の国税局の職員が詐欺事件に関わっていた事がわかった時、職員の皆がそうではないと反論したかったけど、国会議員が自分に都合の悪い事を握り潰すのなら、もう納税者に何も言えなくなる)
麻奈未は母に会ってみようと思った。
「代田を襲った連中は三日前に敷島に辞表を提出しており、連間も敷島も傷害事件には無関係だと警察庁に連絡があったらしい。実行犯の五人が独断でした事だと」
織部は席に座りながら言った。姉小路は右の拳で左の掌を叩き、
「確かにそうかも知れないですが、その五人も、連間や敷島の手下でなければ、そんな事はしなかったはずです。許せませんよ」
麻奈未は姉小路と同意見だった。織部は姉小路を手で制して、
「柿乃木が録音していたボイスレコーダーの解析も、意味がないから中止しろと法務省から検察庁に通告があったそうだ」
「全部潰すつもりですか? どこまで汚いんだ」
姉小路は何度も右手の拳で左の掌を叩いた。
「尼寺部長の話では、脱税の件だけならとぼけるつもりだったが、傷害事件が起こってしまったので、とぼける事は無理だと考え、強硬手段に出てきたようだ」
織部は姉小路と麻奈未を見上げて言った。
「……」
姉小路は呆れて何も言葉が出ないようだった。
「連間は恐ろしい人物だ。局長が部長にブレインホークには手を出すなと言っていたらしいのだが、そういう事だったのかも知れないな」
織部はまた溜息を吐いた。
「統括官、独自に動いてみたいのですが」
麻奈未が言ったので、織部と姉小路は、
「ええ?」
異口同音に声をあげた。
「ご迷惑はおかけしません。少しだけ話を聞いてみたい人がいるんです」
麻奈未はまっすぐに織部を見た。織部は、
「わかった。任せる。君には独自のルートがあったな」
微笑んで応じた。
「はい」
麻奈未は微笑んで応じたが、姉小路は首を傾げた。
「テレビ、観てるか?」
綾子は凛太郎も優菜もいる状態で元の夫の木場隆之助から電話がかかってきたので、慌ててトイレに駆け込んだ。
「何よ、午前中に! 凛も優菜さんもまだ事務所にいるのよ! マナーモードだから良かったけど」
綾子は小声で隆之助を非難した。
「悪かったよ。とにかく、何チャンネルでもいいから観てくれ。国税局の職員が暴漢に襲われたらしい」
隆之助の言葉に綾子は思わず、
「何ですって!?」
つい麻奈未を思い出し、大声を出してしまった。
「母さん、大丈夫? 具合が悪いの?」
「所長、大丈夫ですか?」
トイレに籠った綾子の叫び声が聞こえたので、凛太郎と優菜がトイレの前まで来て尋ねた。
「大丈夫。何でもないわ。ちょっと転びそうになっただけだから」
綾子は咄嗟に嘘を吐いてその場をやり過ごそうとした。
「びっくりさせないでよ」
凛太郎は席に戻ったらしかったが、
「所長、凛太郎さんには言いづらい事ですか? 本当に大丈夫ですか?」
優菜が変に気を回して更に訊いてきた。綾子は苦笑いをして、
「本当に大丈夫よ、優菜さん。仕事に戻ってください」
「わかりました」
ようやく納得したのか、優菜も席に戻ったようだ。綾子は溜息を吐いて、
「その職員は男性? それとも女性?」
「それはわからない。とにかく、早く観てくれ。じゃあな」
隆之助はそれだけ言うと通話を切ってしまった。
「何よ、もう!」
綾子は口を尖らせてスマホを睨むと、トイレから出た。
「本当に大丈夫ですか、所長? お顔が赤いですけど」
優菜が立ち上がって言った。
「母さん、我慢しないで具合が悪いのなら、そう言ってよ」
凛太郎も立ち上がった。
(あんた達、どうしても私を下痢か便秘にしたいの?)
それはそれで嫌な綾子である。
「私はいたって健康です。心配無用」
綾子はソファのテーブルに置いてあるテレビのリモコンを取ると、電源を入れた。テレビの画面が映り、ニュース番組が流れた。
「ええ!?」
凛太郎が反応した。画面には『国税局職員暴漢に襲われ重傷で入院』と出ていたのだ。
「まさか、麻奈未さん……」
そこまで言いかけて、凛太郎は優菜がいるのを思い出し、口をつぐんだ。
(まなみさん? 誰?)
優菜は聞き逃さなかった。しかし、綾子がいる場で問い詰める事はできない。
(全く、間が抜けてるんだから!)
綾子は優菜が反応したのを見て、凛太郎の隙の多さに呆れてしまった。
「ほら、お客様のところに行く時間でしょ? 早く支度しなさい!」
綾子は助け船のつもりで言ったのだが、
「え? お客様?」
鈍感な凛太郎は綾子を見てキョトンとしている。
(バカ……)
綾子は息子の反応に唖然とした。
「ああ……」
そこまで来てようやく凛太郎は気がついた。そして取って付けたように、
「そうだね。出かけなくちゃ。行って来ます」
慌てて鞄を持つと、ドタドタとフロアを出て行った。
(先生がいらっしゃらない時に訊いてみよう)
優菜は脳裡にしっかりと「まなみ」という名前を刻み込んだ。
「行ってらっしゃい」
しかし、そんな思いは噯にも出さず、凛太郎を見送った。
(凛の奴、ボロを出すのが早過ぎよ。優菜さんとはできるだけ一緒にいないようにしないと、麻奈未さんの事を気づかれる)
綾子は早くも警戒レベルを最大にする事にした。
(日本の政治家はどうなっているの!?)
国税局への帰途、タクシーの後部座席で、茉祐子は連間の圧力で全てが潰されたのを知り、激怒していた。
「現場の人間は皆同じ気持ちだ。だが、もうどうする事もできない。上からの命令だ。逆らう事はできない」
隣に座っている統括官も悔しさで歯軋りをしていた。
「私はそんな命令聞くつもりはありません。このままでは、代田君があまりにも可哀想です」
茉祐子は統括官を見た。
「ダメだ。この一件で全てを失ったしまうのは、君程の能力がある人間には勿体なさ過ぎる。ここは堪えてくれ。どこかで必ず取り返せる」
統括官は茉祐子を見て告げた。
「ここで堪えたら、それこそやりたい放題の前例ができてしまいます。何としてもそれを阻止したいんです」
茉祐子の目が潤んでいるのを見て、統括官は二の句を継げなくなりそうだったが、
「自棄を起こすな。政治家も万能ではない。次の選挙で当選する保証はない。時が解決してくれる事もある」
茉祐子を宥めようと言葉を紡いだ。
「わかりました」
茉祐子は納得したふりをした。どうしても連間が許せなかったのだ。
「あ」
茉祐子はラインが来た事に気づき、スマホを取り出した。
(伊呂波坂先輩?)
茉祐子は何故麻奈未からラインが来たのかわからないまま、開いてみた。
『中禅寺さん、大丈夫。私が何とかする』
麻奈未のメッセージは謎めいたものだった。
(どういう事?)
茉祐子は首を傾げた。
「どうした?」
統括官が尋ねた。茉祐子はスマホの画面を見せて、
「伊呂波坂先輩から、こんなラインが来ました」
「む?」
統括官は画面を覗き込み、
「伊呂波坂君の父親はマルサだったから、何か手段があるという事ではないか? 多分、君が怒っていると思ったのだろう」
茉祐子は赤面して、
「え?」
スマホの画面を見直した。顔文字で泣いている顔を宥めている顔があった。
(伊呂波坂先輩……)
茉祐子は麻奈未の優しさに目を更に潤ませた。
「私を呼んだのは、この前の事に文句を言うため?」
美奈子はカフェのボックス席に座りながら訊いた。向かいの席に座っていた麻奈未は、
「そんな事で呼び出したりしないわ。お母さんに見られた時、もう観念していたから」
微笑んで応じたのだが、
「まあ、嫌味ね。私がお喋りだって言いたいの?」
美奈子は口を尖らせた。五十代とは思えないコケティッシュさがある。
(この感じが、男をダメにするのね)
麻奈未は美奈子があちこちで若い男と食事に行っていると聞いた事があるのだ。間違っても父の太蔵には教えられない。
「お喋りじゃないと思っているのなら、幸せね」
麻奈未は今度は本気で嫌味を言った。美奈子は肩をすくめて、
「はいはい。私の負けよ。で、何?」
テーブルに頬杖を突いた。麻奈未は声を低くして、
「黒幕の情報」
美奈子の顔が一瞬にして険しくなった。
「その話をするのなら、ここじゃダメ。私の知っている店にしましょう」
美奈子は無表情になり、立ち上がった。
「え?」
さっさと出て行ってしまう美奈子に驚き、麻奈未は慌てて伝票を掴むと、レジへ駆けた。
「ちょっと、待ってよ、お母さん!」
麻奈未は精算をすませると、美奈子を追いかけた。




