黒幕の本気
「はっ!」
代田充は飛び起きた。寝過ごした夢を見たのだ。
「わっ!」
隣を見ると、そこには可愛い寝息を立てている中禅寺茉祐子がいた。自分も茉祐子も何も着ていない。かけているのは薄手のタオルケット一枚で、暖房の効いた部屋だからこそ、寒くない状態だ。
(昨夜は茉祐子さんのアパートに泊まったんだっけ)
代田は茉祐子の顔を見つめた。
(ずっと気づかなかった。茉祐子さん、すごく綺麗だ。すぐそばで一緒に仕事をしていて、どうしてわからなかったんだろう?)
代田は茉祐子に顔を近づけ、キスをしようとした。
「あ、おはよう、充」
茉祐子が代田の動きで目をこすりながら起き上がった。
「あ、おはようございます、茉祐子さん」
代田は慌てて顔を離して赤面した。
「昨日は楽しかった。また楽しもうね」
茉祐子はベッドから何も羽織らずに出ると、浴室へ行った。
「わわっ!」
昨夜散々見たはずの茉祐子の肢体に驚き、代田は顔を背けた。
「シャワー一緒に浴びよう」
茉祐子がドア越しに呼びかけた。
「あ、はい」
代田は思わずベッドの脇に落ちているトランクスを履くと、浴室へ走った。
「起きて、高岡さん」
凛太郎は甘ったるい女性の声で目を覚ました。
「え? 優菜さん?」
まだ半分寝ぼけている凛太郎はぼんやりした顔で声の主を見た。
「そんな訳ないでしょ! 早く起きなさい!」
しかし、そこにいたのは綾子だった。
「わわ! 母さん、やめてよ! 勝手に俺の部屋に入らないでよ!」
凛太郎は飛び退いて抗議した。すると綾子は腰に手を当てて半目になり、
「何を偉そうに。ここは私の家。私が固定資産税を払っているの。あんたの部屋なんてないの。この部屋も私の部屋」
その言葉に凛太郎はいっぺんに目が覚め、
「申し訳ありません!」
ベッドの上で土下座をした。綾子は笑いを噛み殺しながら、
「似てた? 優菜さんだと思った?」
凛太郎は口を尖らせて、
「似てないよ。優菜さんはもっと声が可愛いから」
また地雷を踏んでしまった。
「ああ、そうですか。やっぱりあんたは優菜さんに下心があるのね。麻奈未さんにきっちり伝えておくから」
綾子がそう言ったので、凛太郎は血の気が引いた。
「違うよ! そういう意味で言ったんじゃないってば!」
慌てて言い訳する凛太郎を綾子は大笑いして、
「早く着替えなさい。遅刻したら、減給だからね」
部屋を出て行った。
「全く……」
不満だらけの実家暮らしに戻り、やるせない凛太郎であったが、母を怒らせると衣食住を失いかねないので、何も言えなかった。
代田は茉祐子のアパートを先に出た。一旦実家に戻って着替える必要があったからだ。
(昨日と同じ服を着ていたら、流石にまずい)
代田はお詫びの印と茉祐子からもらった一万円があるのでタクシーを拾った。
(茉祐子さん、絶対に結婚しましょう。もう貴女しかいません)
代田は一万円札を握りしめた。そんな風に浮かれていたため、代田は家の周囲に不審な連中がいるのに気づいていなかった。
(茉祐子さん)
タクシーを横づけで降りると、代田は家の前の門扉までの階段を駆け上がった。
「帰ってきたぞ」
一人が言った。
「出てきたら、しばらく後を尾けて、きっちり礼をするぞ」
もう一人が言うと、他の四人は黙って頷いた。五人の不審者は敷島幸雄の手下達だった。代田が写真を撮った者達である。
「バカな野郎だ。尾けるのは得意でも、尾けられるのはわからないみたいだな」
一人が言った。他の四人はニヤリとした。
茉祐子は代田が一旦実家に戻ると言ったので、
「同じ服でもいいでしょ? 自意識過剰だよ」
引き止めたのだが、
「いや、それだけじゃなくて、どうしても取りに行きたいものがあるんです」
頑なな代田の主張に押されて、見送った。
(何だろう? 嫌な感じがする……)
茉祐子は不安を覚えたが、
(考え過ぎか)
すぐに思い直して、出かける準備をした。そして何事もなく国税局に到着して、情報部門のフロアに行った。
「おはようございます」
茉祐子は緊張感のある顔でこちらを見た統括官に、
「おお、無事だったか」
いきなりそんな事を言われたので、心臓の鼓動が一気に速くなった。
「どういう事ですか?」
茉祐子は呼吸を整えて統括官に近づいた。統括官は、
「まずは座ってくれ」
統括官の席の前にあるソファを示した。
「はい」
茉祐子は意味がわからないままソファに腰を下ろした。統括官はその向かいに座り、
「実は、今朝、代田が何者かに襲われた」
茉祐子は嫌な予感の理由を知った気がした。
「大丈夫か、中禅寺?」
統括官は茉祐子がソファの肘掛けにもたれかかったのを見て尋ねた。
「はい、大丈夫です」
心臓が更に激しく動き出すのを感じながら、茉祐子は統括官を見た。
「代田は重傷だが、意識はあるそうだ。警察からの知らせによると、見覚えのある男五人に襲われたと言っているらしい。恐らく、君を尾行していた連中だと思われる」
統括官は茉祐子の様子を見つつ、話した。茉祐子は叫びそうになるのを必死に堪え、
「そう、ですか」
絞り出すように言った。
「代田の話では、そいつらは君も襲うと言っていたそうなので、心配していたんだよ」
茉祐子は最初の統括官の言葉の意味を理解した。
「もっと引き止めるべきでした」
茉祐子は両目から涙を零した。
「え?」
統括官が反応すると、
「昨日は代田君は私のアパートに泊まりました。朝、自分の家に行ってから出勤すると言ったので、引き止めたのです。もっと強く引き止めるべきでした」
茉祐子はとうとう泣き出してしまった。
「そうか。やはり、君達は付き合っていたんだね?」
茉祐子は嗚咽をあげながら、
「はい……」
統括官を見た。統括官が、
「部長に許可を得て、五人の尾行者の写真を警察にメールで送った。すぐにでも連中は確保されると思う。これから、代田の見舞いに行くのだが、一緒に行くかね?」
茉祐子は眼鏡を外して涙を拭って、
「はい。行きます。行かせてください」
統括官は黙ったまま頷いた。
麻奈未は平常心でいられなかった。代田が暴漢に襲われ、しかもそれが茉祐子を尾行していた連中だと聞き、鼓動が高鳴った。その日に限って聖生は早出で、太蔵は公演のため迎えの車が来て出かけてしまった。
(凛君……)
そんな時こそ頼りたい凛太郎に連絡をしようと思ったが、
(巻き込む事になるかも知れないからダメ)
統括官の織部の話だと、犯人は連間才明の秘書の敷島幸雄の手下で、半グレや暴力団構成員だった者達だという。警察が捜索しているが、まだ確保には至っていない。そんな危険な輩だとすれば、凛太郎を関わらせる事はできない。
『忙しくなると思われる。そのつもりでいてくれ』
織部の言葉に麻奈未は身が引き締まると同時に震えが来た。マルサである以上、危険はある。しかし、現実に同僚が襲われた事はなかった。脅迫や威嚇は数多くあったが、実力行使に出てきた者は今までいなかったのだ。
「なるべく人通りの多いところを通って、できれば地下鉄ではなく、バスかタクシーで来るようにして欲しい」
織部のアドバイスを聞き、麻奈未はタクシーを呼ぼうと思ったが、なりすましの可能性もあるので、躊躇した。
「誰かを迎えに行かせようか?」
織部が提案したが、来られるのが姉小路だと知り、
「申し訳ないので、バスで行きます」
別の意味で怖いので、丁重に断わった。
(代田君、ちょっとしか話した事ないけど、温厚そうな人だった。どんなに恐ろしかっただろう)
麻奈未は大通りへと急ぎながら、代田を哀れんだ。
(中禅寺さんは何も知らずに出勤して、局で知らされたそうだけど、怖かったろうな)
茉祐子と代田が付き合っている事は知らされていない麻奈未は、茉祐子が泣き崩れたとは夢にも思わなかった。そして、バスを待つ間、綾子に連絡した。
「おはようございます」
綾子は麻奈未の事情を知らないので、
「おはよう、麻奈未さん。凛と代わりましょうか?」
朝からハイテンションだったが、
「あ、時間がないので、手短にお話しします。これからしばらく忙しくなるので、ご連絡できないと思います。電話にも出られない事が多くなります。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
遮るように告げた。
「そうなの。残念ね。身体を壊さないようにしてね」
綾子の声は明らかに落胆していた。
「はい。では失礼します」
麻奈未はスマホを切ると、ハンドバッグに入れた。
「ええ? 麻奈未さんだったの?」
事務所に着くなり、綾子が通話を始めたので、凛太郎は口を尖らせて不満を漏らした。
「代わろうと思ったんだけど、時間がない、これから忙しくなるので連絡できないし、電話にも出られない事が多くなるって言われたのよ」
綾子は麻奈未が何故そんな連絡をよこしたのかわからなかったが、何かあったのだろうと思った。
「どうして母さんに連絡したんだろう?」
凛太郎はまだふくれっ面をしている。
「あんたにかけると、長くなるって思ったんでしょ。それくらい、察しなさいよ」
綾子は自分の机にハンドバッグを置きながら凛太郎を窘めた。
「そうなのかなあ。まだ、俺に何か思うところがあるんじゃないかなあ」
凛太郎はまたおかしな勘ぐりを始めた。
「愛する人をそう簡単に疑うもんじゃないわよ」
綾子が言うと、
「母さんに言われたくないよ」
父隆之助に対する綾子の態度を思い出した凛太郎は自分の机に近づいて言い返した。
「どういう意味?」
綾子がムッとして訊いた時、ドアフォンが鳴った。綾子は仕方なく机の上の受話器を取った。
「はい」
すると、
「おはようございます、高岡先生。柿乃木優菜です」
優菜の明るい声が聞こえた。凛太郎はビクッとした。
「どうぞ、お入りください」
綾子が応じた。ドアが開き、アイボリーホワイトのスカートスーツを着た優菜が入って来た。
「早いですね。まだ定時まで時間があるけど」
綾子は微笑んで立ち上がり、優菜に近づいた。そして凛太郎を見ると、
「ほら、今日からまた同僚になるんだから、きちんと挨拶しなさい」
凛太郎は立ち上がって、
「よろしくお願いします」
頭を下げた。優菜は会心の笑みで、
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人に向かって頭を深々と下げた。そして、
「私、どこにも伝がなかったので、先生に拾っていただいて、本当に感謝しています」
急に涙ぐんだので、綾子は慌てて、
「いやいや、そんな大層な事じゃないですよ。優菜さんなら、凛太郎がよく知っているし、間違いないのも聞きましたから、こちらとしても大歓迎ですよ」
フォローをした。
「ありがとうございます」
優菜は涙を拭いながら言った。綾子は凛太郎の向かいの席を示して、
「優菜さんはここを使ってください。会計ソフトは前の職場と同じなので、大丈夫ですよね」
「あ、はい」
優菜は凛太郎の向かいの机に近づき、チラッと凛太郎を見た。凛太郎はそれに気づいて微笑んで応じた。
「こら、優菜さんに色目を使うな、凛」
綾子は半目で窘めた。凛太郎は赤面して、
「そ、そんなつもりはないよ!」
口を尖らせた。
(そんなつもりはないのか……)
優菜は凛太郎の言葉に寂しさを覚えた。
「今朝、文京区の住宅街で、東京国税局の職員が何者かに襲われ、重傷を負いました。付近は人通りも少なく、目撃者はまだ見つかっていないとの事です」
事務室のテレビを消し、連間才明は机を挟んで直立不動の姿勢をとっている敷島幸雄を見た。
「どういうつもりだ?」
連間は静かに尋ねた。敷島は直立不動のままで、
「いえ、あの、私も全く寝耳に水でして……」
連間は机を右の拳で強く叩くと、
「そんな事を訊いているのではない! 私は何もするなと厳命したはずだぞ! その事についてどう思っているのか、訊いているのだ!」
「は、はい!」
敷島はビクッとして、
「連中とは連絡が取れず、どこにいるのかもわかりません。私の監督不行き届きです! 申し訳ありません!」
頭を下げて言った。
「そいつらが捕まれば、お前に繋がるのは必至だ。そして、私にもな。どう責任を取る?」
連間は目を細めた。敷島は顔を上げて、
「私が全部かぶります。先生にはご迷惑をおかけしません」
連間は回転椅子にもたれかかり、
「その意気は褒めてやる。しかし、お前が全部かぶったところで、私の政治家生命は終わる。今後、私についてくる者もいなくなる。お前が首を差し出したくらいでどうにかなる問題ではないのだ」
連間はスーツの内ポケットからスマホを取り出すと、
「この件は何があってももみ消す。お前にすら捜査の手が及ばないようにあらゆる方面に圧力をかける。それが唯一我々が生き残る道だ」
敷島は連間に対して初めて心の底から恐怖を感じた。
(この人はその気になれば総理大臣すら辞めさせられる人だった)
尋常ではない汗が敷島の顔を滴り落ちた。




