立ち回る男達
綾子は通話を切り、項垂れた。
(凛め、妙なところで隆之助と似てきた)
綾子は十年前、夫の木場隆之助と離婚した。隆之助は断固として認めなかったが、綾子は隆之助が不倫をしていたと確信している。だから、凛太郎が父親である隆之助に似てきたと感じたのだ。
(近づいてくる女を何の警戒心もなく信じて、あっさり受け入れてしまうところが、どうしようもなく似ている)
綾子はまた溜息を吐いた。
(凛も引き取れたし、親権も取れた。それが慰謝料を放棄する条件だった)
今更ながら、甘かったと思っている。隆之助を凛太郎からもっと遠ざけるべきだったと後悔しているのだ。だから、凛太郎は就職に当たって自分にではなく隆之助に相談し、挙げ句の果てに柿乃木啓輔の事務所に勤務する事になった。あらかじめ知っていれば、絶対に反対した。二度と顔を見たくない啓輔に会う羽目になるとは思っていなかったからだ。
(まあ、言いたい事言えたし、啓輔は塀の向こうに行くから、少しは溜飲が下がるけどね)
綾子はダイニングキッチンの明かりを点け、椅子に腰掛けると、ハンドバッグをテーブルに置いた。
(優菜さんはタチの悪い女には見えなかったけど、いずれにしても、凛の気持ちはどうあれ、麻奈未さんに申し訳ない。なるべく二人を長い時間会わせないようにしないと。少なくとも、二人きりにはならないように)
綾子は優菜を警戒している。
(凛は隆之助の悪いところを受け継いでいる。優菜さんに迫られたら、多分拒み切れない。それだけは絶対に防がないと)
すっかり麻奈未を気に入った綾子は、何があっても麻奈未の味方をしようと思った。
(元はと言えば、彼女を内勤で雇う事にした私のせいか)
綾子は苦笑いをした。その時、玄関のドアフォンが鳴った。
「うん?」
すでに時刻は深夜と言ってもいい時間だ。一体誰だろうと思いながら、綾子はモニターのボタンを押した。画面には凛太郎が映っていた。
「何だ、凛なの。どうしたの?」
綾子が尋ねると、凛太郎はムッとした顔で、
「俺、玄関の鍵持ってないんだよね。開けてよ」
綾子はそれを聞いて笑い出し、
「そうかそうか、昨日は母さんが一緒だったもんね。今すぐ開けるから」
モニターを切り、玄関へと走った。
「ごめんごめん、あんたから玄関の鍵を取り上げたの忘れてた」
綾子は凛太郎が一人暮らしを始めると言って出て行った朝、玄関の鍵を返せと怒鳴り、取り上げたのを思い出し、解錠してドアを開きながら詫びた。
「機嫌直してよ、凛。母さんが悪かったよお」
綾子が抱きついてきたので、
「ちょっと!」
凛太郎はそれを跳ね除けて玄関に入ると、スリッパを履いて階段を駆け上がろうとした。
「話をしてくれるんじゃないの?」
綾子は目を細めて凛太郎を見上げた。凛太郎は階段を戻り、
「着替えさせてよ」
綾子は凛太郎のスーツをクンクン嗅いで、
「優菜さんの香水の匂いが残っているから?」
「違うよ! 急いで来たから、汗を掻いてて、ベタついて気持ち悪いんだよ」
凛太郎は後退って言った。綾子は両手を腰に当てて、
「なら、そのままシャワー浴びちゃいなさい。服は洗濯カゴに入れておいて。クリーニングに出すから」
「そんな贅沢できないから、洗濯機で洗うよ」
凛太郎は浴室へ向かった。
「クリーニング代は母さんが出すから」
綾子がその背中に呼びかけた。
「わかった」
凛太郎はそのまま浴室へ入りかけた。
「母さんもまだお風呂入ってないのよ。一緒に入る?」
綾子が笑って言うと、
「絶対に嫌だ!」
目を吊り上げて凛太郎が振り返り、浴室に消えたので、
「冗談に決まってるじゃない、そこまで怒らなくてもさ……」
綾子は口を尖らせてすねた。
「ふう……」
優菜は誰もいない家に戻ると、大きく溜息を吐いた。
(高岡さんがいたアパートは今月いっぱい引っ越せないし……。この家の光熱費はお父さんの口座からの引き落としだからお金はかからないけど)
優菜は父啓輔の金で生活している気がして、実家にいるのが嫌だった。只、亡き母の思い出もある家なので、名残惜しさも湧いてきた。
「そうだ」
優菜は仏間へ行き、母親の位牌と写真を取り出した。
(お父さんは裁判の後、多分実刑になってそのまま刑務所に行くと弁護士の先生が言っていたから、お母さんも一緒に連れて行こう)
優菜は位牌と写真を袱紗に包むと、スーツケースに入れた。
(裁判の結果次第だと、莫大な罰金もあるかも知れないから、この家もお父さんの預金も差し押さえられるかもとも言われた)
優菜の目に涙が溢れてきた。
「どうしてこんな事になってしまったんだろう?」
呟いてみたが、何もわからなかった。まだ啓輔が不倫もしていなかった頃は幸せだった。いつも家の中に笑顔が溢れていた。母は陽気な人だったが故に父の裏切り行為によって精神を蝕まれたと思った。
(だからあの女は絶対に許さない)
優菜は野間口絵梨子の気取った顔を思い出した。
(どんな言い分があろうと、あの人は許さない。必ず罰を受けてもらう)
優菜はスーツケースを閉じると、仏間を出た。
麻奈未は家に戻っていた。
「お帰り、お姉」
聖生は妙に嬉しそうな顔をして出迎えた。
「只今。お父さんは?」
麻奈未は奥に視線を送った。聖生はチラッと後ろを見て、
「お風呂よ。お姉が戻るのを待っていたんだけど、待ちきれなくなってさっき入ったところ」
麻奈未を見てニヤついた。
「何よ?」
麻奈未は聖生の顔を見てムッとした。
「まあ、取り敢えず上がってよ。早く話を聞きたいから」
「あんたに話す事なんてないよ。お父さんに話すんだから」
麻奈未はフンと顔を背けると、スリッパを履き、リヴィングルームへ行った。
「つれない事言わないでよお。凛太郎さんとは会えたの?」
それでも聖生は食い下がってきた。
「それも言わない」
麻奈未は振り返らずに言った。
「何よお、いいじゃない、それくらい」
聖生は口を尖らせて更に食い下がった。
「いくら張り付いても、あんたには言わない。明日のうちに東京中に知れ渡っちゃうから」
麻奈未はソファにハンドバッグを投げ出して座った。
「私、お姉と凛太郎さんの事、誰にも言ってないよ」
聖生は向かいのソファに座った。しかし麻奈未は、
「凛君に近づくなって言ったのに、あんたは告白までした! もう信用度ガタ落ちなの!」
聖生は一瞬怯んだが、
「でもそれは撃沈したわ! もう関係ないでしょ」
開き直った。
「あんたが凛君に会いに行ったせいで、ややこしくなってるのよ!」
麻奈未はそこまで言ってあっとなった。
「ややこしくなってる? どういう事?」
聖生が身を乗り出した。
「言わない」
冷静さを取り戻した麻奈未は顔を背けた。
「帰っていたのか?」
風呂上がりで浴衣に着替えた太蔵が顔を出した。
「只今、お父さん。話がしたいんだけど」
麻奈未は立ち上がって太蔵を見た。
「まずは夕飯をすませなさい」
太蔵はそう言いながらソファに腰を下ろした。
「あ、うん」
麻奈未はハンドバッグを手に取り、
「着替えてくるね」
ソファから立ち上がってリヴィングルームを出て行った。
「成程ねえ。野間口絵梨子税理士か。あまりいい噂は聞かないわね」
綾子は凛太郎から何故すぐに事務所に戻れなかったのかをキッチンのテーブルで聞いた。
「知ってるの、野間口先生の事?」
凛太郎が尋ねた。綾子は肩をすくめて、
「知っているというか、聞こえてくるのよ。あちこちの税理士事務所の若い職員をたらしこんでつまみ食いしているって」
「つまみ食い?」
凛太郎は目を見開いた。
「あんた、優菜さんに感謝しなさいよ。優菜さんがいなかったら、あんたなんかたちまち餌食にされていたんだから」
綾子は凛太郎があまりにも驚いているので、ポンと左肩を叩いた。
「ああ、うん」
凛太郎は優菜がどうしてあの場にいたのか、絵梨子同様不思議だった。
「それにしても、その野間口絵梨子が、啓輔と不倫関係だったとは知らなかった」
綾子が言うと、凛太郎は、
「母さんと柿乃木所長はどういう関係なの?」
「関係って言わないの! 昔、間違って付き合った事があるだけなんだから」
綾子は顔を赤らめて凛太郎を睨みつけた。
「え? 付き合ってたの? てっきり、父さんを通じて知り合ったと思ってたんだけど」
凛太郎がまた驚いたので、綾子は、
「流石に木場もその辺はぼかす気遣いがあったのね。少しだけ見直した」
「母さん、父さんを悪く言い過ぎだよ。父さんが可哀想だ」
凛太郎が隆之助を庇ったので、
「何、あんた、あいつの肩を持つの?」
綾子が憤然として立ち上がった。
「いや、そういうつもりはないんだけど……」
凛太郎は母の機嫌を損ねては家を追い出されると思い、慌てて弁解した。
「気分が悪い。もう寝る」
綾子はそのままキッチンを出て行ってしまった。
「ああ……」
凛太郎は地雷を踏んでしまった事を感じ、項垂れた。
「縁は異なもの味なものだな」
太蔵は麻奈未の話を聞き終わると呟いた。
「それにしても、麻奈未と凛太郎君は間が悪いな」
太蔵は嬉しそうに言った。聖生はそれを見て目を丸くし、麻奈未は怪訝そうな顔になった。
「お父さん、何がおかしいの?」
麻奈未は太蔵が笑ったのに反応した。太蔵はすぐに真顔になり、
「いや、笑ったつもりはない。そう見えたのであれば、謝るよ」
そして、
「次にお誘いいただいた時は、万難を排して伺いますと、高岡先生に伝えてくれ」
話題を変えてきた。麻奈未がそれに気づいて何か言おうとすると、
「柿乃木税理士の後ろにいる黒幕について、私が織部に連絡したのは聞いているだろう」
太蔵は遮るように話し始めた。麻奈未は口を尖らせて、
「ええ。それが何か?」
聖生は何も聞いていないので、
「ええ? そんな展開になっているの?」
口を挟んだのだが、
「そのニュースソースはお母さんなんだよ」
太蔵の衝撃発言に、
「ええ!?」
麻奈未と一緒に叫んでしまった。
「まだジャーナリストとして動いているらしいのだが、その黒幕に関して言えば、気をつけないと非常に危険なんだ。おかしな事にならなければいいのだが」
太蔵の低い声がより深刻さを増していた。麻奈未と聖生は顔を見合わせた。
「私もできる限りの事をするつもりでいる。麻奈未と聖生も、お母さんに危ない真似をしないように言ってくれないか」
太蔵は真剣な眼差しで二人の娘を見た。
「はい」
麻奈未と聖生は静かに頷いた。
「何、こんな遅くに?」
自室でふて寝していた綾子は隆之助からの電話に不機嫌丸出しで応じた。
「相変わらず、機嫌が悪いな。まさかと思うが、もう寝ていたのか?」
隆之助はそう言ったが、すでに時刻は十二時を回っており、寝ていても不思議ではない時間だった。
「当たり前でしょ! 貴方と違って、私は行動する経営者なの! 今までと違って、職員がいるし、夜中まで遊び呆けている誰かさんと一緒にしないで」
綾子は画面に映る隆之助の名前を睨みつけた。
「ほう。凛太郎だけではなく、誰か雇ったのか?」
隆之助の声が言った。綾子はベッドから起き上がって、
「成り行きで、啓輔のお嬢さんを雇う事になったのよ」
「ああ、優菜ちゃんか」
その反応に綾子は眉をひそめて、
「知ってるの?」
「知ってるさ。啓輔は親友だったんだぞ。娘の事くらい、知ってて当然だろ」
すると綾子は、
「親友だった、ね。もうそうじゃないんだ?」
嫌味を込めて返した。
「今日、拘置所に行ったんだ。そしたら、あいつ、想像以上に元気で、散々毒づかれた挙句、絶交だって言われたんだよ」
隆之助の声が心なしか寂しそうだったので、綾子は、
「そうなんだ……」
声のトーンを落とした。
「明らかに虚勢を張っているのがわかって、こっちがつらくなったよ。だから君も面会に行ってやってくれ」
隆之助からの思わぬ要請に綾子は目を見開いた。
「バカな事言わないでよ。この前会って、もう二度と会わないって誓ったのに、わざわざ拘置所まで行く訳ないでしょ!」
綾子は大声で反論した。そして、凛太郎に聞こえたかも知れないと思い、ハッとした。
「そうか。そうだよな。君がそこまで啓輔を嫌っているのも仕方がないよな」
綾子は啓輔を振った後、それを癒してくれたのが隆之助だったのを思い出した。だが、
「もう眠いから、切るね」
さっさと通話を終え、スマホをベッド脇のワゴンに置くと、点けていた枕元の明かりを消し、横になった。
「お前ら、写真を撮られた事に気づいていなかったのか?」
薄明かりの中、敷島幸雄は中禅寺茉祐子を尾行していた男達を説教していた。
「申し訳ありません」
敷島より全員図体の大きい連中が正座して頭を下げていた。
「しばらく、東京を離れていろ。絶対に見つかるんじゃないぞ」
敷島は一人一人の頭を小突いた。
「はい」
男達は首をすくめて応じた。
「バカな真似はするなよ。これは先生からの厳命だ」
敷島は男達を見下ろして言った。




