直接対決
凛太郎は野間口絵梨子の口撃に陥落しそうになっていた。
「場所を変えましょう」
料理を堪能した絵梨子は、押し黙って椅子にもたれかかっている凛太郎に告げた。凛太郎は返事もせずにいたが、
「さあ」
絵梨子に力任せに左腕を引っ張られて立ち上がらされた。
「行きましょうか」
絵梨子は凛太郎に口を近づけて囁き、腕を組むと個室から出た。
(こいつ、見かけより強い。簡単に白状するかと思ったけど、貝のように口をつぐんだ)
絵梨子は作戦を変える事にした。
(一色雄大にはお預け作戦が効いたけど、こいつは逆に強引に奪う作戦が有効みたいね)
二人は店を出た。外はすっかり暗くなり、肌寒さを感じる気温になっていた。
(伊呂波坂麻奈未には、私と同じ思いをしてもらう)
絵梨子は凛太郎の腕を取り、舗道を歩き出そうとした。
「やっと出てきましたね、野間口先生」
背後から女性の声が聞こえた。
「え?」
絵梨子はその声にビクッとして振り返った。そこには仁王立ちをした優菜が立っていた。
(どうしてこの女がここに?)
絵梨子は混乱した。優菜は唖然としている絵梨子から凛太郎を引き離して、
「何故私がいるのか、わからないみたいですね。先生って案外、間が抜けていますね」
ニヤリとして絵梨子を見た。
「え?」
まだ状況を理解していない絵梨子は怯えた目で優菜を見た。
「まあ、それはどうでもいいです。とにかく、高岡さんに近づくのをやめてもらえますか?」
優菜は絵梨子を射抜くような目で見た。絵梨子はすっかり気圧されていた。
(何故この女はここまで迫力があるの? 柿乃木から聞いた限りでは、おとなしくて引っ込み思案のはずなのに……)
絵梨子は優菜が自分に対してだけ強く出られるのを知らない。柿乃木啓輔が絵梨子と不倫をした事が始まりなのだ。
「それから、どういう理由で高岡さんに近づいたのかは知りませんが、貴女が今まで私の父として来た事、そして私と母をそのせいで苦しめた事、絶対に許しませんので、次に高岡さんに近づいたら、貴女の事を税理士会に告発して、最終的には税理士の資格を奪いますから」
優菜は絵梨子に詰め寄った。絵梨子はよろよろと後退り、横にあるガードレールに掴まって転ぶのを回避した。
(全部知っているという事?)
絵梨子の顔から血の気が引いた。凛太郎を落として、麻奈未を苦しめるつもりが、優菜の登場によって立場が変わってしまった。
「優菜さん……」
優菜の様子を見ていた凛太郎も驚いていた。
「高岡さん、行きましょう」
優菜は凛太郎の左腕を取り、絵梨子が立っているのと反対の方向を見た。
「あ、うん……」
優菜に助けられたのは理解している凛太郎は、チラッと絵梨子を見てから優菜と歩き出した。絵梨子はそれを只呆然と見ているだけだった。
「すみません、せっかくお誘いいただいたのに」
麻奈未は事務所を出ながら綾子に詫びた。
「いいえ、気にしないでください。私が自分勝手に言い出した事ですから」
綾子はドアを施錠しながら微笑んで麻奈未を見た。
「父は、信じられないでしょうが、結構人見知りで初対面の人と話すのが苦手なんです。少しずつ、縁を強くしていけたらと思います」
麻奈未は頭を下げた。綾子の夕食の誘いを父親の太蔵に確認したら、疲れているので、外に出たくないと言われたのだ。聖生は乗り気だったので、がっかりしていた。
「そうですね。麻奈未さんと凛が結婚すれば、もっとお近づきになれるでしょうから」
綾子は深い意味はなく言ったつもりだったのだが、「結婚」という単語に麻奈未はギクッとした。
「あら? 私、先走りました? 麻奈未さんは凛との結婚は考えていないのですか?」
階段を下りながら麻奈未のリアクションに気づいた綾子が言った。
「いえ、そういう訳では……。凛君、いえ、凛太郎さんと連絡もうまく取れないのに結婚の事を考える余裕がなくて」
麻奈未はドギマギしてしまった。
「私は是非凛太郎と結婚して欲しいと思っていますよ。麻奈未さんの人柄はよくわかったつもりですから」
綾子が言うと、麻奈未はまた顔を赤らめて、
「あ、ありがとうございます。私も凛太郎さんとそうなれたらいいと思います」
いたたまれない様子だったので、綾子は、
「ごめんなさいね、引き止めてしまって。凛にはよく言っておきますから」
話を打ち切る事にした。
「はい。ではまた」
麻奈未は深々と頭を下げると、雑居ビルの前で綾子と別れた。
(凛にはもったいない人だわ)
綾子は麻奈未の背中を見て思った。
「今朝の残りがあったっけ」
一人で外食するのは面倒くさくなった綾子は帰宅する事にした。
「優菜さん、お礼に夕食をご馳走させてください」
凛太郎は舗道を歩きながら言った。
「え? いいんですか? 先日、私がお誘いした時は断られたので、嫌われているのかと思っていました」
優菜が微笑んで凛太郎を見上げたので、凛太郎は、
「本当に申し訳ありませんでした。あの時は、誰かと食事なんてできる状況ではなかったので……」
頭を下げて詫びた。
「そうなんですか?」
優菜は小首を傾げて応じた。凛太郎は頭を掻いて、
「実はあの日、交際している人に別れ話を切り出されて、ずっと呆然としていたんです」
「ええ?」
優菜は凛太郎に恋人がいたのを知り、目を見開いた。
「そうだったんですか。ごめんなさい、そんな時にお誘いしてしまって……」
凛太郎が恋人に振られて落ち込んでいたという事実も優菜には衝撃だった。つい俯いてしまった。
「いえ、それは平気です。と、ここです。ここの海鮮丼が抜群に美味しいんです」
凛太郎は優菜の心情に思いを致す事もなく告げた。
「海鮮丼ですか」
優菜は目を上げて暖簾を見た。
「優菜さん、海鮮は大丈夫でした? 何も考えずに来てしまいましたが」
凛太郎はハッとして尋ねた。優菜は弱々しく笑って、
「大丈夫ですよ。むしろ大好きです」
その場を取り繕った。
「そう、良かった」
凛太郎の笑顔を見て、優菜は、
(高岡さんが誰かと交際していた事なんて、気に病んでも仕方がない。それに別れたって言ったのだから、今はいないって事よね)
前向きに考える事にした。
(むしろ、こうして二人きりで食事をできるんだから、それを楽しまなきゃ)
優菜は凛太郎と一緒に暖簾をくぐった。
「お誘いいただき、光栄です」
絵梨子の僕と化している一色雄大は突然絵梨子から呼び出されて、先程まで凛太郎がいた中華レストランの個室にいた。
「気にしなくていいわ。貴方の貴重な情報で、高岡凛太郎と会えたのだから」
絵梨子は作り笑顔で応じた。
(こいつで憂さを晴らす。徹底的にいたぶってあげるからね)
一色は一度絵梨子とホテルに行っている。しかし、絵梨子に触れる事は許されず、逆に叩かれたり蹴られたりした。
(とんだ変態だってわかったから、いいおもちゃになる。叩かれて喜ぶ奴だったなんて)
絵梨子は嬉々としてメニューを見ている一色に、
「何でも頼んでね。私は先にすませたから」
「はい」
一色はヘラヘラしてメニューを眺めた。
「ねえ」
絵梨子は距離を詰めて一色の太ももに右手を置いた。
「は、はい」
一色はメニューを置いて絵梨子を見た。
「貴方、知り合いに週刊誌の記者いない?」
絵梨子は顔を近づけて尋ねた。一色は絵梨子の顔が近いので赤面して、
「週刊誌の記者に知り合いはいません」
「あっそ」
絵梨子は途端に一色から離れ、自分の席に戻った。
「え、あの……?」
一色は自分が何かしくじったのではないかと感じた。
「それから、柿乃木税理士事務所の方はどうなっているの?」
絵梨子は険しい顔で訊いた。一色はビクッとしながらも、
「柿乃木所長が逮捕されて、顧客が全部離れたようです。事務所はビルの管理会社から立ち退きを迫られているみたいです」
絵梨子は眉をひそめて、
「娘がいたわよね。その子はどうしているの?」
一色は注文を聞きに来た店員にメニューを見せて告げてから、
「ああ、優菜ちゃんですか。彼女は事務所を辞めて、他で働くみたいですよ」
絵梨子は右手を顎に当てて考え込んだ。そして、
「もう何も旨味はないわね、柿乃木税理士事務所には。顧客が全部離れた時点で、終わったも同然よね」
一色を見た。一色は頷いて、
「今は所長の裁判の弁護を引き受けた弁護士の先生が対応しているみたいで、民事の方は問題はないようです」
絵梨子はフッと笑って、
「金の切れ目が縁の切れ目。柿乃木の再起は可能性ゼロね」
「だと思います」
一色はニヤリとして、
「それで、私は先生のところで雇ってもらえるのでしょうか?」
揉み手をしながら尋ねた。絵梨子はニヤッとして、
「ええ、もちろん。貴方には高岡凛太郎と柿乃木優菜の監視をお願いするわ」
「畏まりました」
一色は恭しく頭を下げた。
(あんたは高岡凛太郎と柿乃木優菜のどちらにも恨みがあるだろうから、面白くなりそうね)
絵梨子は一色の暴走を期待していた。
「そうか。やや当てが外れたな」
人の少なくなった東京国税局査察部情報部門のフロアでは、統括官と茉祐子、そして代田が話をしていた。
「はい。柿乃木税理士は録音に夢中で、その音質には気が回らなかったらしく、再生したものはほとんど何を話しているのかわからない上に、誰が話しているのかもわからない程酷いものだったようです」
茉祐子は統括官を真っ直ぐに見て告げた。
「しかも、柿乃木はボイスレコーダーをスーツの内ポケットに入れていたため、布が擦れる音が入っていて、声を拾い出すのにも技術が必要なので、分析には時間がかかりそうです」
代田が言い添えた。統括官は頷いて、
「まあ、いずれにしても、柿乃木税理士が相手に隠して録音しているものは証拠としては弱いからな。それを突破口にして、連間に辿り着ければ良かったのだが」
「そうですね」
茉祐子と代田は顔を見合わせてから異口同音に言った。
「今日はもう終わりにしようか。ご苦労だった」
統括官は席を立って二人を労った。
「ありがとうございます」
二人はまた異口同音に言った。
「君達、短期間にいいコンビになったな」
統括官は二人の関係を知らずに言った。
「そうですか?」
茉祐子と代田はまた顔を見合わせてから言った。
「お先に失礼します」
茉祐子と代田は一礼するとフロアを出て行った。
「あいつら、付き合っているのかな?」
統括官は二人が出て行ってから呟いた。
「バレちゃったかな?」
廊下を歩きながら茉祐子が言った。
「バレましたかね?」
代田が応じた。
「何も悪い事はしていないから、問題ないよ」
誰もいないのを確認して、茉祐子は右腕を代田の左腕に絡ませた。
「ちゅ、中禅寺さん!」
代田は茉祐子の柔らかいものを二の腕に感じて叫んだ。
「名字呼びは二人きりの時は禁止でしょ、充」
茉祐子は代田の左の二の腕をつねった。
「あ、はい、茉祐子さん!」
代田は涙ぐんで応じた。
「私のアパートに来る?」
茉祐子が耳元で尋ねた。
「はい」
代田は声を裏返らせた。
「昨日の続き、しましょ」
茉祐子は代田の左頬にキスをした。
「ひい!」
意表を突かれた代田がまた叫んだ。
「柿乃木の阿呆が会話を録音していたらしいのですが、不明瞭なため、内容は何もわからないようです」
衆議院議員の連間才明の自宅の書斎で、秘書の敷島幸雄が告げた。
「そんな事は心配していない。それよりも、お前が勝手にしでかしたマルサの女の尾行の方が問題だ」
黒革張りのソファに身を沈めた連間は眉間にしわを寄せて敷島を睨みつけた。
「は、はい!」
敷島はソファから立ち上がり、直立不動になった。
「そのせいで、私はしたくもない要請を国税庁にしなければならなくなった。これがどういう事かわかるか?」
連間は目を細めた。敷島は額を流れ落ちる汗をハンドタオルで拭いながら、
「あの、その、ええと……」
おたおたするばかりで、言葉が出て来ない。連間は右手で肘掛を強く叩き、
「長官に借りを作ったという事だよ! そんな事も思いつかんのか!?」
怒鳴りつけた。
「は、はい!」
敷島は改めて直立不動になった。
「柿乃木とブレインホークは完全に私と無関係の流れだったのに、お前の勇み足のせいで繋がっていると教えてしまった。その上、長官には見返りを仄めかされた」
連間は静かに続けた。敷島は硬直したままだ。
「検察と国税は恐らく査察部長の尼寺が見せた写真から、お前の部下を割り出して探すだろう。絶対にお前の名前も私の名前も口にするなと厳命しろ」
連間は敷島を見上げた。
「はい!」
敷島は涙ぐんで応じた。
凛太郎はしばらくぶりに楽しい夕食ができたと思っていた。優菜と二人きりの食事は初めてだったが、優菜が思っていた以上に話が上手で、凛太郎は聞き役に回れたからだ。優菜が事務所の内勤に決まったと聞き、母と二人きりの息苦しさを解消できるとホッとしていた。
「そうだ、お母様にご連絡した方がいいのではないですか?」
優菜が言った。凛太郎はその言葉にギクッとして、
「え? 母に?」
何を連絡するつもりだと思った。優菜はクスッと笑い、
「充電が切れて、連絡できていないのでしょう? どうぞ」
ササッと綾子の携帯に通話を開始して凛太郎に差し出した。
「あ、いや、第一声は優菜さんの方がいいですよ」
凛太郎は綾子に勘ぐられるのを恐れて提案した。
「そうですね」
優菜はスマホを耳に当てて、
「夜分遅くすみません、柿乃木優菜です」
綾子はいきなり優菜から連絡が入ったのでびっくりして、
「ああ、優菜さん。どうしました?」
無理に笑顔を作って尋ねた。
「今、凛太郎さんとお食事をしています」
優菜の声が弾んでいるように思えたので、
「え?」
綾子は眉をひそめた。
「凛太郎さんに代わりますね」
優菜の声が告げ、
「もしもし」
凛太郎の声が聞こえた。綾子は我が息子の無神経さにカチンと来たが、すぐそばに優菜がいるので怒る事もできず、
「まだ充電できていないの? それにどうして優菜さんと一緒なの?」
畳み掛けるように訊いた。
「事情は帰ってから話すよ。とにかく、ごめん」
凛太郎は母の言葉を遮るように謝った。
「麻奈未さんもずっと待っていたのよ」
綾子が言うと、
「ええ? そうなの?」
凛太郎の声が大きくなった。
凛太郎は目の前に優菜がいるので、麻奈未の名前は出せないと考え、
「それも帰ってから聞くよ。とにかくごめん」
優菜にスマホを返した。
「申し訳ありません。私からも事情を説明します。明日からよろしくお願いします。では失礼します」
優菜は通話を終え、スマホをハンドバッグにしまった。
(麻奈未さんと母さん、会ってたんだ。どんな話をしたんだろう?)
凛太郎はそればかり気になってしまい、優菜が話しているのをほとんど聞いていなかった。




