野望の三角形
高岡綾子は目に前にいる女性が自分の息子の恋人だと知り、言葉を詰まらせて、
(この人が、凛の……)
麻奈未を見つめたままでいた。麻奈未は綾子が何も言わないので、
「あの?」
怖くなって声をかけた。綾子はハッと我に返り、
「ごめんなさいね、ちょっとびっくりしてしまって……」
前髪を掻き揚げてから、
「そうだったんですか。貴女が、凛の……」
麻奈未は改めて自分がどんな状態で綾子と遭遇したのかを思い出し、
「はい……」
顔を赤らめて俯いた。
「凛は貴女に会いに国税局へ行ったのですが、行き違いになったのですね?」
綾子が言うと、麻奈未は目を見開いて、
「え? そうなのですか?」
綾子は麻奈未の反応にクスッと笑って、
「やっぱり。だから、スマホで連絡した方がいいって言ったのに……。で、貴女がここにいるという事は、貴女も連絡しないで私の事務所に来たんですね?」
「あ、はい……」
麻奈未はまた顔を赤らめて俯いた。綾子は腕時計を見て時間を確認すると、
「私も顧客のところへ行かなければならないので、事務所で待っていてもらえますか?」
立ち上がった。麻奈未も立ち上がり、
「はい」
綾子は支払いをすませると、麻奈未を伴ってカフェを出た。
(母さん、まさか麻奈未さんを連れ出して……)
凛太郎の妄想がまた暴走を始めていた。綾子が麻奈未をどこかに連れていってしまったと思っているのだ。
「あ」
スマホを取り出して綾子に連絡をしようとしたが、また充電が切れていた。
(今日は全然充電していなかったんだ。どうしよう?)
凛太郎は事務所を飛び出して、舗道を走り出した。
(麻奈未さん、無事でいて!)
凛太郎は行く宛てもないのに必死になって走った。凛太郎が走り出したのは、麻奈未と綾子がいるカフェとは逆方向だった。凛太郎が見えなくなった頃、綾子と麻奈未が路地から曲がって舗道に出てきた。
「ごめんなさいね、グズな息子で」
綾子は麻奈未に詫びていた。
「そんな事ないです。私が年上なのにしっかりしていないのが悪かったんです」
麻奈未は綾子に頭を下げられて、恐縮していた。
「事務所で待っていれば、きっと来るはずですから」
綾子はドアの解錠をして麻奈未を中に入れると、
「申し訳ありませんが、ここで失礼します。鍵を閉めて、待っていてください」
それだけ言うと、階段を駆け下りて行った。
「ふう」
麻奈未は溜息を吐いてドアを閉めると、施錠した。
(凛君に連絡を)
スマホを取り出してかけてみたが、繋がらなかった。
(電波状態が悪いところにいるのかな?)
麻奈未はスマホをハンドバッグに入れると、ソファに腰を下ろした。
(何か、すっごく疲れた……)
麻奈未はソファに身体を沈めた。
麻奈未が事務所にいなかったので、すっかり混乱している凛太郎は冷静な判断ができなくなっていた。そこへ最悪の人物が現れた。
「先日はどうも」
野間口絵梨子だった。凛太郎はいきなり目の前に現れた絵梨子にビクッとして飛び退いた。
(一色の情報、結構あてになるのね)
絵梨子は目の前で動揺している凛太郎を見てほくそ笑んだ。彼女は一色雄大をすっかり籠絡していた。一色は絵梨子の僕と化しており、言われるがままであった。
「お母様の事務所に移られたそうですね。残念です」
絵梨子はがっかりしたふりをして凛太郎を見た。
「え? どういう事ですか?」
凛太郎は意味がわからずに尋ねた。絵梨子はフッと笑い、
「税理士会を通じて、あなた方柿乃木税理士事務所の職員の皆さんを助けてあげて欲しいと東京国税局が要請してきたのです」
「そうなんですか」
凛太郎は顔を引きつらせて応じた。
「立ち話も何ですから、どこかでお話ししませんか?」
絵梨子はスッと凛太郎の左腕に自分の右腕を絡ませた。
「え、あの……」
凛太郎は振り払う事ができず、絵梨子に連行された。
綾子は顧客との対面をすませて、事務所へ向かっていた。
(凛め、また充電が切れてるみたい。本当にダメなんだから)
そんなところが可愛いと思う綾子だが、麻奈未に呆れられてしまうとも思った。
(どこにいるのか見当もつかない。麻奈未さんに連絡してみよう)
カフェを出てすぐに麻奈未と連絡先の交換をすませている綾子は麻奈未に連絡した。
「はい、伊呂波坂です」
麻奈未はワンコールで出た。綾子は麻奈未が直立不動になっているのを思い描いて苦笑した。
「凛は戻っていませんよね? 連絡もないですよね?」
すると麻奈未の声は、
「はい。電源が切れているのでしょうか?」
若干裏返っていた。
「そうみたいですね。もう少しでそちらに着きますので、申し訳ないのですが、お待ちください」
「わかりました」
綾子はスマホを切った。その瞬間、呼び出し音が鳴り出した。
(凛?)
期待して画面を見たが、凛太郎ではなかった。登録がない携帯電話の番号が出ている。
(誰かしら?)
綾子は首を傾げて通話を開始した。
「はい、高岡です」
すると、
「高岡先生、柿乃木優菜です。今、大丈夫でしょうか?」
綾子は優菜に『そしてそれでも尚、ここにはいられないと思ったら、私に連絡を頂戴』と言ったのを思い出した。
「はい、大丈夫ですよ。お父さんとは話はできましたか?」
綾子は苦笑いをしてきいた。
「はい。父が辞めても構わないと言ったので、そうする事にしました。父は逮捕されて、拘置所に入るようです」
「それは大変ですね。優菜さんはどうなさるつもりですか?」
綾子は雑居ビルの前に着いたので、スマホを左手に持ち替え、ロビーへのドアを押し開いた。
「図々しいとは思うのですが、高岡先生の事務所で使っていただけないかと思って、ご連絡しました」
優菜の声は小さくなっていた。綾子は微笑んで階段を昇り始め、
「ウチも私一人で回していたので、内勤業務の人がいた方がいいと思っていました。ウチのような零細事務所でもよろしければ、おいでください」
それは綾子の嘘偽りのない言葉だった。
「ありがとうございます。とても嬉しいです。実は今、先生の事務所の近くまで来ているので、今からお伺いしてもいいですか?」
優菜の予想外の返しに綾子はギョッとしてしまった。
(麻奈未さんと優菜さんのバッティングは絶対にまずい!)
綾子は作り笑顔になり、
「今日はもう事務所に戻らずに帰宅するつもりでしたので、明日にしてもらえませんか?」
「そうですか。そうですよね。図々し過ぎました。申し訳ありません」
優菜の声はまた小さくなった。綾子はすかさず、
「そんな事はないですよ。只、今日は私も出先なので」
言い訳をした。
「はい」
優菜の声はまだ小さい。綾子は、
「明日、いらっしゃる前に一度私の携帯に連絡をください。出ていると申し訳ないので」
「わかりました。お気遣いありがとうございます、ではまた明日、連絡を致します」
優菜の声がやや大きくなったので、
「お待ちしていますね」
綾子は通話を終えた。そして、明日かかって来た時のためにすぐに優菜の番号を登録した。
「ごめんなさいね、お待たせして」
綾子はドアを解錠して中に入ると麻奈未に詫びた。
「いえ、お気になさらず。私が勝手に来てしまったのですから」
麻奈未はソファから立ち上がって言った。
「どうしますか? もう少し凛を待ってみます?」
綾子は机の上にバンドバッグを置き、回転椅子に座って麻奈未を見た。
「ご迷惑ではないですか?」
麻奈未は申し訳ない気持ちになっていた。
「いえ、全然。凛に一言言わないと気がすまないので、帰るまで待つつもりです」
綾子は微笑んで応じた。そして、
「それから、麻奈未さんには申し訳ないのですが、一人女性の内勤の人を雇う事にしました」
麻奈未はその言葉にピクンとした。
「やっぱり、気になりますか?」
綾子はそのリアクションを見て訊いた。麻奈未はハッとして、
「いえ、そんな事はありません」
綾子は苦笑いをして、
「その女性は柿乃木税理士のお嬢さんなんです」
麻奈未はそれを聞いて聖生が言った事を思い出した。
『その子、お姉と違って穏やかそうだったし、胸も大きかったから』
麻奈未は顔が引きつるのを感じながらも、
「そうですか。先生の人事に私が何か言える立場ではありませんから」
綾子も麻奈未の表情が強張るのを見て取ったので、
「そんな大袈裟な事ではないですよ。とにかく、凛がおかしな事をしないように監視はしますので」
冗談ぽく言ったつもりだったが、
「いえ、その、私、そんなに嫉妬深く見えますか?」
麻奈未が顔を赤らめたので、
「そんなつもりはないですよ。只、その子、凛に好意を持っているみたいなので」
綾子はつい言ってしまった。
「え?」
麻奈未は目を見開いた。
「凛は全くその子を恋愛対象と見ていないので、取り越し苦労だとは思いますけど、結構積極的な女性みたいで」
綾子自身も優菜を警戒しているので、そんな事を言ってしまい、あっとなった。しかし、麻奈未は、
「大丈夫です。その人の事は少しだけ凛太郎さんから聞いています。年下ですから、心配はしていません」
自身がありそうな返事をした。
「そうですか。凛はやっぱり年上が好きなんですね」
綾子が言うと、麻奈未はハッとして、
「いえ、その、あの、ええとですね……」
真っ赤になって俯いた。綾子は、
「凛は小さい頃から、幼稚園の先生や学校の先生を好きになっていましたから、そう思ったのですよ。麻奈未さんも長女でしょう?」
「あ、はい」
見事に見抜いてくる綾子に麻奈未は気圧され気味である。
「凛は一人っ子ですから、お姉さんが欲しかったみたいなんです。麻奈未さんに甘えたいのですよ、きっと」
綾子は微笑んで言った。
「だとしたら、私ダメですね。どこかで隙を作らないようにしていた気がします。凛太郎さんには怖がられていたのではないかと思います」
麻奈未は溜息混じりに言った。綾子は微笑んだままで、
「そんな事はないと思いますよ。会って話せば、全部誤解だってわかるでしょう」
「そうですかね」
麻奈未は引きつり笑顔で応じた。
「お腹空きませんか?」
不意に綾子が言った。
「そう言えば……」
綾子の言葉に麻奈未の胃が鳴って反応してしまったので、彼女はまた顔を赤らめた。
「空いてるみたいですね。どこかで夕ご飯を食べませんか?」
綾子が回転椅子から立ち上がった。すると麻奈未は、
「申し訳ありません、昨日父の夕ご飯の当番をサボってしまったので、今日は帰らないと妹に叱られます」
綾子は笑って、
「なら、お父様も妹さんもご一緒にどうですか? お父様は査察の鬼と言われた伊呂波坂太蔵さんですよね?」
麻奈未は綾子が父を知っているらしいのに目を見開いて、
「え? 父をご存知なんですか?」
綾子は嬉しそうに麻奈未に近づき、
「ええ。私が最初に勤めていた会計事務所の顧客が査察に入られまして、その時お見かけしました」
「そうなんですか」
麻奈未は嬉々として話す綾子を見て驚くしかなかった。
「ええと、あの……」
凛太郎は絵梨子に強引に中華レストランの個室に連れ込まれ、混乱していた。
「貴方は伊呂波坂麻奈未とどういう関係ですか?」
四脚ある椅子の一つに座らされた凛太郎に対して、絵梨子は隣の椅子に座って凛太郎ににじり寄っていた。
「え?」
まさかと思っていた名前を言われ、凛太郎はわかりやすいリアクションをしてしまった。
「なるほど。付き合っているのですね?」
絵梨子は吐息がかかる程顔を近づけて言った。
「いえ、付き合っていません」
凛太郎はそれは事実なので、絵梨子を真っ直ぐに見て言った。絵梨子は眉をひそめて、
「何故嘘を吐くのですか? 伊呂波坂に口止めされているのですか?」
右手で凛太郎の左頬を撫でた。
(どう答えれば正解なんだ?)
凛太郎は絵梨子から目を背けて黙り込んだ。
「そういう事ね。貴方は伊呂波坂の言うがままの人なんですね」
絵梨子は目を細めて凛太郎の顔を覗いた。
「伊呂波坂の妹と面識があるのに、伊呂波坂とは面識がないなんてあり得ないんですよ。本当の事を言ってください」
絵梨子は凛太郎の顔を両手でぐいと自分の方へ向けた。
(何だ、この人? 何のためにこんな事を?)
凛太郎には絵梨子の真意がわからない。まさか麻奈未を恨んでいるからとは想像もできない。
(どう答えても麻奈未さんに迷惑がかかる。とにかく、この人から逃げないと)
正常な思考を取り戻した凛太郎は絵梨子を押しのけて、
「失礼します」
椅子から立ち上がると、個室を出て行こうとした。
「逃げるのなら、それでもいい。その代わり、貴方と伊呂波坂の事を週刊誌に流す。国税局の査察官が税理士事務所の職員と交際していて、情報を漏らしている、とね」
絵梨子の顔が険しくなった。口調も強い。
「え?」
凛太郎は目を見開いて絵梨子を見た。
「そうすれば、伊呂波坂は国税局を辞めざるを得なくなる。それでもいいの?」
絵梨子は目を細めて凛太郎を見た。
「そんな事、誰も信じないですよ。お好きにどうぞ」
凛太郎は強く言い返した。しかし、絵梨子は鼻で笑い、
「信じなくてもいいのよ。国税局の査察官が税理士事務所の職員と交際していて、その税理士事務所が査察に入られたという事実があれば、世の中の人はどう判断するかしら?」
凛太郎の背中を冷たい汗が流れ落ちた。
「さあ、本当の事を話してちょうだい、凛太郎さん」
絵梨子は勝ち誇った顔で告げた。




