麻奈未、凛太郎に別れを告げる
高層ビルの谷間にある公園のベンチに若い男女が並んで座っていた。
「別れましょ、私達」
いきなり切り出されたセンター分けの黒髪で紺のスーツの男は言葉が口から出て来なかった。
「理由はわかるでしょ。私と貴方では無理なの。最初からわかっていた事なのよ」
黒のショートカットで黒のパンツスーツの女はそれだけ言うとベンチから立ち上がり、抜けるような青空の下、歩き去った。
「……」
男は絶句したまま、その後ろ姿を見ていた。
(やっちゃった!)
一方、女は歩きながら落ち込んでいた。
(あんな言い方、凛君が傷つく。バカ、麻奈未のバカ!)
女は男から見えない位置に来ると、項垂れて歩いた。
(どんな理由をくっつけても、凛君を傷つけてしまうだろうけど、もっと言いようがあったのよ!)
自分を責め続けながら、女は近くの地下鉄の駅の階段を降りていった。
(何が悪かったんだろう?)
男も公園を出て、JRの駅へ向かっていた。
(やっぱり、高嶺の花だったのかな? 麻奈未さんは東京国税局査察部の切れ者、俺は税理士事務所の一職員に過ぎない。ふられて当然だな)
男は無理に自分で納得しようとしていた。
麻奈未は大江戸線の築地市場駅で降り、東京国税局へと向かっていた。
「ヤッホー、お姉!」
背後から陽気な女性の声が聞こえてきた。麻奈未は眉間にしわを寄せた顔で振り返る。
「どうしてあんたがここにいるのよ?」
麻奈未は仁王立ちで栗色でゆるふわのボブのボタニカルのワンピースを着た女性に尋ねた。するとその女性はふふんと笑い、
「ここにいたんじゃなくて、お姉が凛太郎さんに別れ話を切り出したところから見ていたんすけど?」
「ええっ!?」
麻奈未は思わず大声を出してしまった。通行人の幾人かが怪訝そうな顔で通り過ぎて行った。それに気づいた麻奈未はその女性を引っ張って建物の陰に連れて行き、
「どういうつもりなの、聖生?」
詰め寄って問い質した。
「どういうつもりも何も、お姉がこの世の終わりみたいな顔して地下鉄の階段降りて行くのを見たら、実の妹としては、これは心配になるっていう事なんだけど?」
聖生と呼ばれた女性は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「え?」
麻奈未はその指摘にギョッとして一歩退いた。
「ねえ、何があったの? 凛太郎さんの怒涛の猛アタックをかわしてかわしてかわしまくったのに、最終的には『よろしくお願いします』って何も知らない深窓の令嬢みたいにOKしたお姉から別れを切り出すなんて」
今度は聖生が麻奈未に詰め寄った。麻奈未は俯いて、
「言えない。こればかりは、あんたにも言えない」
麻奈未の頑固さを知っている聖生は大きく溜息を吐いた。
「査察絡み?」
それでも聖生は食い下がってみた。
「それも言えない」
麻奈未はそっぽを向いた。
「そういう事ね。わかった。了解。全て承知しました」
聖生はニヤッとした。麻奈未は聖生の変貌に目を細めて、
「何、その笑みは?」
聖生は腕を組んで姉を見ると、
「って事は、今、凛太郎さんはフリーって事よね?」
「は?」
麻奈未は刹那聖生の言葉の意味がわからなかったが、
「あっ!」
すぐに何を考えているのか気づいた。
「あんたまさか……?」
姉の反応に妹は我が意を得たりとばかりに右の口角を吊り上げ、
「そうよ。凛太郎さんに告るの」
「ちょっと!」
麻奈未は容赦ない聖生の言葉に怒りを露わにした。
「あんたねえ!」
麻奈未が唾がかかるくらい顔を近づけると、
「お姉は別れたんでしょ? だったらあれこれ言われる筋合いはないと思うんだけど?」
聖生は麻奈未の肩を押して顔を離した。
「ダメ! あんただけはダメ!」
麻奈未は目を潤ませて怒鳴った。聖生は首を傾げて、
「はあ? 別れたのに凛太郎さんを束縛するの? それにあんただけはダメってどういう事よ?」
麻奈未は聖生の視線に堪えられないのか、顔を俯かせて、
「束縛とか、そういうんじゃないの! あんたと凛君が付き合うと、凛君がダメになるの!」
「何よそれ? まるで私が性悪女みたいじゃないの!」
聖生も声を荒らげた。
「そうじゃない! あんたと付き合った男は、みんな自堕落になったって聞いたわ!」
麻奈未が言い返した。
「う……」
聖生は身に覚えがあるのか、ぐっと詰まった。
「だから、絶対にあんたが凛君と付き合うのは許さない!」
麻奈未はプイと顔を背けると、踵を返して歩き去った。
「そんなの横暴よ! 私は告白するから!」
聖生も捨て台詞のように叫ぶと、麻奈未と反対方向へと歩き出した。
「お帰りなさい」
凛太郎は職場に戻った。麻奈未と別れて傷心の状態である。声をかけたのは、税理士事務所の所長である柿乃木啓輔の愛娘の優菜だ。クリクリッとした目と縦ロールの栗色の髪で、事務所の制服である紺のベストとスカートの下にアイボリーホワイトのカットソーブラウスを着ている。
「あ、只今戻りました」
凛太郎は優菜の笑顔を見るのがつらくて、俯き加減に応じた。
「どうしたんですか、高岡さん? 元気ないですね?」
優菜が凛太郎の顔を覗き込む。
「あ、いや別に」
凛太郎は苦笑いをして、そそくさと自分のデスクへと歩を進めた。
「この世の終わりみたいな顔してたね」
優菜の背後にスッと立った男。黒のスーツに青のネクタイを締め、黒髪を整髪料できっちり七三に分けた長身で、妙に優菜に顔を寄せている。
「あ、一色さん、お帰りなさい」
優菜はあまりにも一色の顔が近かったので、思わず飛び退いた。
「高岡さん、何かあったのかな? いつもなら、優菜ちゃんに笑顔で挨拶するのにさ」
一色は凛太郎の事を心配するような口ぶりだが、顔は嬉しそうだ。
「さあ、どうでしょう」
優菜は一色を一瞥すると、給湯室へと歩いていく。その間ずっと席でボオッとしている凛太郎を観ているのを一色は口をへの字にして眺めていた。
「只今戻りました」
麻奈未は部署に戻ると、自分の席に行く前に上司である統括官の席に赴いた。
「話はできたかね?」
ロマンスグレーの髪をオールバックにしてチャコールグレイのスーツを着た五十代半ばくらいの恰幅のいい男が書類から目を上げて麻奈未を見た。
「はい」
麻奈未は軽く一礼して「統括官 織部 利一郎」と書かれたプレートを見てから、統括官の顔を見た。
「理由を聞かれたか?」
織部は書類を机の端に片づけて尋ねた。麻奈未は伏し目がちになって、
「いえ。言葉が出ないくらい驚いていたので、何か聞かれる前にその場を去りました」
織部は一瞬麻奈未を見つめたが、
「そうか。ご苦労だった。これで君の交際相手も、まずい立場にはならんだろう」
謎めいた事を言った。麻奈未は目を上げて、
「はい」
一礼して、自分の机に行こうとした。
「伊呂波坂」
織部が麻奈未の背中に声をかけた。
「はい」
麻奈未は振り返って応じた。織部は、
「悪かったな。無理をさせて」
すると麻奈未は微笑んで、
「いえ、私はマルサですから。当然の事をしただけです」
もう一度頭を下げると、席に戻った。
「よう、お疲れ」
向かいの席の男が陽気に声をかけて来た。長身痩躯で、グレーに白の縦縞が入ったスーツを着た長髪で切れ長の眼をした麻奈未と同年代の男である。
「お疲れ様です」
麻奈未はチラッとその男を見て応じ、椅子に腰を下ろした。
「どうしたの、伊呂波坂ちゃん、元気ないね? 何か落ち込むような事があった?」
男はスッと席を回り込むと、麻奈未の隣の席の椅子にドンと腰掛けた。
「いえ、別に。元気はありますので」
麻奈未は男を見た。男は肩をすくめて、
「無理してるねえ。どこからどう見たって元気あるようには見えないよ。よかったら相談に乗るから」
いきなり距離を詰めると、麻奈未の右手を両手で包み込むように握った。
「姉小路、例の査察の件の進捗状況は?」
見かねた織部が男に呼びかけた。姉小路と呼ばれた男は立ち上がって織部を見ると、
「いつでも大丈夫です」
畏まって告げた。
「なら、きちんと文書で報告しろ。手を抜くな」
織部は強い口調で言った。
「はい!」
姉小路は慌てて自分の席に戻ると、パソコンを立ち上げた。麻奈未はホッとして織部を見ると、会釈をした。織部はそれに軽く頷いてみせた。
(私が凛君と付き合っているのを知っているのは、ここでは統括官だけだから、助かった)
麻奈未を気持ちを切り替えるためにパソコンを開くと、書類の作成に取りかかった。
仕事が一段落したので、麻奈未はロビーにある自動販売機コーナーへ行き、ホットコーヒーを買った。
「お疲れ様です、伊呂波坂先輩」
後から来た女性が声をかけて来た。三つ編みの黒髪で、ダークグレイのパンツスーツを着ている。黒縁眼鏡をかけた大人しそうな外見である。
「ああ、お疲れ様、中禅寺さん」
麻奈未は振り返って微笑んだ。中禅寺と呼ばれた女性は自販機でホットレモンティーを買いながら、
「そう言えば、今日、彼氏さんと話をして来たんですよね?」
麻奈未は飲みかけたコーヒーを噴き出しそうになったが何とか堪え、
(そうか、この子、聖生と同級生なんだっけ)
記憶を辿ってから、
「聖生に聞いたの?」
すると中禅寺は麻奈未に近づいて、
「違いますよ。そもそも、伊呂波坂先輩の彼氏さんが内偵対象の法人の顧問税理士の先生のところの職員さんだって織部統括官に伝えたの、私なんですよ」
麻奈未はハッとして、
「そうなの? ああ、そうか、中禅寺さん、ナサケだっけ?」
ナサケというのは「情報部門」の情の字から来ている別名だ。情報部門は嫌疑者の内偵調査が主な仕事で、嫌疑関係者の身辺調査を行う部署であり、捜索担当(実施部門:別名ミノリ)に引き継ぐ事を担っている。
「はい。あ、もちろん、聖生ちゃんには喋っていませんし、統括官以外査察の誰にも話していませんから」
中禅寺は声を低くして言った。
「中禅寺さんを疑ってはいないから、安心して」
麻奈未は苦笑いをして応じた。
「ありがとうございます。では」
中禅寺は紙コップを持ったまま、自分の部署に戻って行った。
(じゃあ、聖生があの場にいたのは、全くの偶然て事か)
考え過ぎたと思った麻奈未は、グッとコーヒーを飲み干すと、紙コップをゴミ箱に放り込んだ。
(凛君とは永遠にお別れって訳じゃないんだから、そんなに気にやむ事はないのよね)
麻奈未は廊下を勢いよく歩いた。
日没からしばらくして、聖生はその日の業務を終えると、すぐさま凛太郎が勤務する税理士事務所へと向かった。
(お姉には悪いけど、凛太郎さんは私がいただく。今まで付き合ってきた男達とは毛色が違うけど、いい感じなのは間違いない)
聖生はニヤリとして、凛太郎の勤務先が入っているビルを見上げた。
「柿乃木啓輔税理士事務所、ね」
ビルのエントランスに掲げられたフロアのプレートには各階毎の企業名が書かれている。柿乃木税理士事務所は最上階の十階にある。
「まだ帰ってはいないよね」
聖生はエントランスに立っている警備員に微笑むと、ロビーのソファへ歩を進め、ゆっくりと腰を下ろして脚を組んだ。警備員が聖生の脚をチラチラ見ているのは気づいているが、何も言わない。
「お」
エレベーターが到着した音が聞こえたので、聖生はそちらに視線を向けた。期待通り、扉が開くと凛太郎が降りて来た。
「む?」
立ち上がりかけた聖生は眉を顰めた。凛太郎の隣に若い女性がいたのだ。聖生はその女性を知らないが、凛太郎は親しげにその女性と話している。聖生はそばに置いてある観葉植物に隠れるようにして観察する。
(同僚?)
まずはそう思った。しかし、それにしても女性は凛太郎に近い。まるで恋人のようにも見える。その時、もう一基のエレベーターが降りて来て扉が開いた。
「優菜ちゃん、所長が探してたよ」
聖生から見ても軽薄そうに見える男が言った。
「わかりました」
凛太郎と並んで歩いていた女性は溜息を吐いて振り返ると、後から来た男が扉を開けていたエレベーターに一緒に乗り、上がって行った。
(何だか、ラッキー!)
聖生は一見軽薄そうなその男に心の中で感謝した。
「ふう」
凛太郎も溜息を吐き、ロビーを抜けてビルを出て行こうとした。
「お疲れ様です、凛太郎さん」
聖生は観葉植物の陰から飛び出すと、通り過ぎる凛太郎に声をかけた。
「え?」
いきなり横から女性が出て来たので、凛太郎は思わず飛び退いて身構えた。
「やだあ、私、不審者じゃないですよお。麻奈未の妹の聖生ですってば」
聖生は満面笑顔で言った。凛太郎はハッとしてまじまじと聖生を見てから、
「あ、そうですね。ごめんなさい、ちょっとびっくりしました」
頭を下げて詫びた。聖生は間髪入れずに凛太郎の右腕に自分の右腕を絡ませて、
「ここでは何ですから、カフェで話しましょうか」
半ば強引に連れ出した。
麻奈未も国税局を出ていた。
(やっぱり同行できないよね)
彼女は査察の仕事から外された。それは仕方がないと納得していたつもりだったが、実際にそれを言い渡されるときつかった。
(税理士事務所勤務の人と付き合うってダメなのかな?)
凛太郎は麻奈未にとって可愛い弟のような存在であった。彼といると居心地が良かったが、恋人かというと、そうは思えないものがあった。
(私は酷い女だ。凛君を弄んだようなものだ)
業務に集中していた時はなかった負の感情がまたじわじわとこみ上げて来た。
(査察の日はまだ確定していないけど、しばらくは会わない方がいい。凛君のためにも)
そう思った時、心配事が蘇った。
「あ!」
麻奈未は妹の事を思い出した。
(聖生、まさか凛君に会いに行ったんじゃ……)
居ても立ってもいられなくなり、麻奈未は地下鉄の階段を駆け下りていた。




