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この手に残ったのは傷跡だけ

17


 尾上は最愛の妻を荼毘にふす暇もなく、横須賀鎮守府に早々に戻らざるを得なかった。

 燈子の長い髪をひと房だけ切り取り、あの燈子が恥ずかしがった守り袋にそっとしまっていた。

それを胸のポケットに大切に押し込んで、尾上は俺にたった一言だけ残して出ていった。

『川村、死ぬなよ。』

 それは貴方でしょうがという俺の返事も聞こえないふりをして駆け出して行った。

「馨さんは……もう死を恐れはしないわね。」

 この場に一番いたかったはずの尾上がいないことで、すべてを悟った喜代は声を殺して泣いていた。

 俺たちは慰める言葉一つもたないまま、ひたすらに立ち尽くすしかできなかった。

 喜代の言葉通り、尾上は死を恐れずに、思うままに行動するだろう。

軍人なのだからといえば当然なのだけれど、燈子がいることが尾上をつなぎとめていた楔のようなものだった。

 昔のように、誰かを生かすことができるのなら、尾上は自分が泥を飲むことを躊躇せず選び、突き進む。

これはきっとそうだという推測ではなく、間違いなくそうなるという確信だ。

燈子と出会う前の尾上に戻るだけだというように、尾上はふるまうだろう。

彼がこの出会いによって変わっていたとしても、きっと結果は同じだ。

何が一番大事かを考える尾上は、己の命は二の次。

日本を生かせる道があるのなら、命を簡単に爆弾にかえてしまいかねない。

「止めてやらんと……。」

 気だけが急くが、尾上を止めるための手立てが俺にはない。

 燈子が亡くなった日、尾上は横空の駐機場で、紫電改をみあげながら俺と小泉にある話をした。

最後まで何も口を出さないという条件付きのそれはまるで遺言だった。

「俺は今橋の親父を護る意味でも松山へでる。 えこひいきと噂の俺が温存されていれば少なからず親父が動きにくくなる。 だが、実のところ343に俺は必要ない。 だから結局は鹿屋へいくことを選ぶことになるだろう。 鹿屋には可愛い馬鹿たれどもが特攻と向き合って死にかけているだろうから俺が行ってやらんと。 えこひいきが鹿屋におれば親父はもっと動きやすくなる。 でも、俺が抜けたら親父は仕事がしにくくなるだろう。 だから、これからはお前たちが動くんだ。 それがだめになったのなら、343へ行き、すすんで紫電改に乗れ。 343もだめというならば日本はもうだめだ。 だったら次を考えろ。 だめな日本を護る方法を考えられるよう、なじられても何をしても生き残れ。 ひよっこに爆弾を背負わせて飛ばすような日本じゃなくて、国防のために飛ばせる日本を取り戻すんだ。 川村、お前を俺の後任にするよう指示がでる手筈だ。 小泉、お前の方が、機転が利くから、川村を護れ。 それから、お前たち、絶対に今橋の親父を殺すな。 あいつは日本を護れる最後の空の男だ。 今橋の親父のもとで偉くなれ。 多少偉くなれたのならば、お前たちの無茶も笑って許されるはずだ。 せいぜい、俺の階級は超えてくれよ? 以上、終わり!」

 尾上はにっこりと笑って、ゆっくりとうなずいた。

「燈子がな、空は敵ばかりじゃないでしょうって言いやがったんだ。」

 尾上は燈子の最期の言葉を思い出して、また、ゆっくりと笑った。

『空をあんなに楽しそうに飛ぶあなたの妻で幸せでした。 これからはあなたが護りたいものを護りたいだけ飛べば良い。 空は敵ばかりではないでしょう?』

 そう言ったそうだ。

 最期までとんでもなく心を奪っていく女性だと思った。

 最期の瞬間にも燈子は尾上を愛して、俺との約束通り尾上の心を護り、自由にした。

「だから、俺は俺がやりたいように護りたいだけ飛ぶ。 そのかわりにお前たちはもうしばらく不自由でいてくれ。」

 俺も小泉も泣いたら良いのか、笑ったらよいのかもうわかりやしなかった。

 尾上らしい言葉が並んだ結果、二人とも、置いてきぼりだ。

 俺は尾上がどんな想いで話したのかと思うと今でも鼻の奥が痛くなってくる。

「喜代さん、尾上さんをやっぱり俺はむざむざ死なせるわけにはいかない。 だから、343へ向かいます。 俺たちはやっぱり追いかけたい。 来るなと言われても、行きたい。」

 俺の傍で小泉が当然のように大きくうなずいた。

「俺たちが行ったところで変えられることは何もないかもしれないけれど、せめてもの足かせにはなれるかと思うから。 あの人が躊躇なく進もうとするなら壁になりたい。」

 俺たちに粘れというのならば、尾上も粘るべきなのだ。

だから、とにかく、邪魔だと言われても、そばに行かねばならないと心底思った。

尾上にとっては生き残ることは残酷で辛酸をなめる未来かもしれないが、それでも、尾上は生きるべきなのだ。

燈子ならば、尾上にきっとそう諭したはずだ。

 俺は尾上から預かっていた燈子の手紙を取り出してみた。

 燈子からの生きろという想いがぎっしりとつまっているだけに重みを感じた。

「理子さん、俺はこれを焼いてしまうかもしれない。 だから、これを預かっていてもらえないか?」

 俺はすぐそばに立っていた理子にそれを差し出した。護ってくれるのは彼女しか考えられなかったから、ごく自然に差し出してしまった。

「お断りします。 迷惑や!」

 理子は力いっぱいに俺につき返してくる。

 こんな時に何を言うのだと俺は開いた口がふさがらなかった。

「帰ってくるつもりが毛頭ない人からの預かり物なんて、迷惑でしかないやんか!」

 理子はまっすぐに俺を見て言い放った。怒りをはらんだ声なのに、震えている。

「帰ってくるつもりがあるんやったら預かります。 そのつもりがあるのん?」

 神戸弁まるだしで、感情を隠すこともなく声を大にして言っている理子をよく見ると泣いていた。

 尾上を散々鈍感だと言ってきたのに、俺もたいしてかわりがなかった。

 理子は燈子が尾上を案じたように、俺を案じてくれていたのに気づけていなかった。

「帰ってくるよ。」

 こんな時にも嘘がさらりと口をついて出る俺は自分が嫌になりそうだった。

「嘘がうまいから信用できへんわ。」

 理子の言葉に俺は不覚にも言い返す言葉を見失ってしまった。

 燈子なら、清濁併せのんでくれていそうなものをこの理子は正々堂々と突き返してくる。

 見透かされている。それがこんなに痛いとは思ってもみなかった。

「帰ってくるのが嘘じゃないんやったら、どうやってそれを証明するのん? 証明できん口約束なんか信じられへん。 だから、絶対、預からへん。 それを持ってた方がよっぽど生き抜くしかないはずや! 姉さんへの想いを抱いていた方がよっぽど強くなれるんと違うのん?」

 手厳しい理子の攻撃が俺の心をえぐり続ける。

 見事なまでに喜代と小泉にこの恋心を堂々と暴露されてしまう始末だ。

「証明できるもんがない限り私は絶対に預からへん!」

 徹底抗戦の構えの理子に、俺は奇策をしかけることにした。

 ここまで痛い想いをするのならば道連れだ。

「では、こうしよう。 結婚してください。」

 この素直すぎる爆弾娘が俺の嫁なのだろうともう腹は座った。

 それに泣かせたままでここから去るわけにはいかない。

 強気な理子を引きずり出してから行くのがせめても気持ちという奴だ。

「俺は軍人だから結婚一つにも許可がいる。 許可は早々に尾上さんにだしていただく。」

「頭がおかしいのん?」

 俺の言葉を遮るように理子が口をはさんだ。

「いたって冷静や。 俺はその手紙一式を預かってもらわんと困る。 帰ってくるつもりはあるが、それを証明できんのなら預かってもらえへんのやろ?」

「暴論や!」

「暴論ね。 仕方がないやろ? 俺は尾上組の軍人なんやから!」

「頭がおかしいわ!」

「おかしくって悪いか? 君を嫁にして、戦地に赴けば、俺は責任を感じ、簡単には死ねん。帰ってこなくてはならなくなる。 どうや? これ以上の証明はないと思うけど? 俺の足かせになる勇気はあるんか? それとも、その勇気もなく、俺の秘めておきたかった想いを公にさらして、堂々と喧嘩を売ったんか?」

 自分でもびっくりするくらい意地悪な物言いをしたと思う。

理子は悔しそうに唇をかんだ。ここで引くのなら、それはそれで良い。

 でも、理子がきっと俺のたった一人だ。だから、俺の売った喧嘩を必ず彼女は買う。

「わかったわ、受けて立つ。 結婚したるわ!」

 やっぱりこうなる。わかっていた気はしたがなかなかに重い荷物だ。

 理子は一生懸命すぎるし、真面目すぎる。そして、燈子顔負けの情け深さだ。

「交渉成立。 はい、預かって。 どうぞ、よろしく。」

「わかったわ!」

 俺と理子は軽くにらみ合う。

これが俺たちの不格好な始まりだった。

 理子の目にはもう涙はない。それでいいんだと自然に手が伸びる。

 理子をそっと抱きしめてみて、尾上の気持ちがよく分かった。

 確かに、これは怖い。死んでしまえば彼女をもう護れなくなる。

ひたすらに面倒なものができてしまったことがこれほどに温かいとはと知り、尾上の言葉を思い出して、おかしくなってきた。

『絶対一人の方が楽に空を飛べる。』

 本当だなとか考えながら俺はぽんぽんと理子の背をたたいてやる。 

「本当に帰ってくるつもりだから覚悟しておけよ?」

「嘘つきにならんことをせいぜい祈ってるわ。」

 理子の強がりもここまでくると愛おしい。

「へいへい。」

 久しぶりに腹の底から笑えた気がした。尾上と燈子に色気がないと言っていた俺の方が重症だ。燈子とは違いすぎるが、理子とはごく自然に悪態をつくことも、素直に泣くこともできる。

 喜代と小泉が唖然としていても、もう気になりやしない。

 そして、俺と小泉は二人を山梨へ送り出し、横須賀へ戻った。



※ 

 

この頃すでに343部隊は横須賀から松山へ移動し、運用開始されていた。

そして、尾上が早々に中央からの航空参謀として松山へ異動したのは燈子の死からわずか2日後だった。

俺や小泉すら知らなかったこの異動日を尾上は燈子に告げることができずにいたらしく、『実は参っていた。』なんて乾いた笑いを浮かべていたが、きっと燈子はそんなことはお見通しだったように思う。

憔悴しきっていた精神状態を部隊の人間には何一つ見せることもなく、尾上は膨大な量の指令書をバッグに詰め込みながら気丈に笑った。

伸ばしっぱなしを髭はそのまま、やや血色のない肌色のくせに、出会った時と同じように豪快に笑うのだ。

「じゃあな。」

 俺達にこれだけかよというくらい短い挨拶をして、尾上はそれはそれはすっきりした顔をして、何の憂いもなく異動に応じた。

航空参謀であるにもかかわらず自ら操縦桿を握り松山へ飛び立ってしまう始末だ。

 結局、俺たちの懇願は一切受け入れられず、俺は大尉に、小泉は中尉に昇格して、今橋の参謀として二人とも尾上よろしく軍服には参謀飾緒をつけるはめになった。

 戦況の悪化はもうどうにも食い止めることができず、松山へ行った尾上の心配をしたくともできるような環境ではなかった。

尾上がこなしていた膨大な仕事の量を実際に目の前にしてみて、俺も小泉も開いた口がふさがらなかった。

正直、燈子の傍へ戻りながらどうやってこれをさばいていたのかの見当がつかない現実にふりまわされてあっさりと2か月が過ぎた。

上官としての最後の仕事だと、尾上が俺の結婚許可の書類を送り付けてきたのはちょうどその頃だった。


【川村宗一郎大尉殿

 貴殿の結婚申請を受理。 申請内容に不備なし。

 提出書類を送付する。

 

お前が義理の弟になるのは傍迷惑だ。 本当に手短なところで片づけやがって。

せいぜい幸せになってみろ。 俺より幸せにはなれんだろうがな。

海軍中佐 尾上馨】

                        

 今橋にそれを見せると、あごひげに手を伸ばして大笑いした後でこう言った。

「これは結構、悔しがっているはずだ。」

「なるほど……相変わらずな負けず嫌いなことで。」

「この書類の山を捨ててしまいたいわい。」

「もはやどれが重要な案件かわからんじゃないですか……。 まったく!」

 俺は手早く今橋の机に広がったままの書類をまとめる。

本当にどこまでも似ている。俺の上官になる人は大雑把すぎる。

世話の焼ける吾人ばかりと出くわす俺も不運の極みだと笑い飛ばすしかない。

「なぁ、川村。 尾上が早々に鹿屋へ異動となるようだ。」

 今橋はふいに天井を見上げて、苛立ったように唸った。

その表情は苦虫をかみ潰したよう.

「あの馬鹿、多賀少佐のかわりに自分が鹿屋へでると上申したようだ。」

 苦しい表情をしたまま今橋は万事休すというようにうつむいた。

「あれだけつぶしたはずなのに343に特攻の話しが来たそうだ。 もちろん、そうはならんかったがな。 尾上が343の者の代わりに航空参謀を辞して鹿屋に出ると言い出した時期が同じだ。 何をしたのやら……。」

 特攻が例にもれず343部隊でも行われようとしていたことは未然に防いでいたはずだったが、どうにも今橋の知らない所で潜り抜けていたようだった。

それをいかにしてはじき返したのか、海軍中佐の階級を盾にして尾上が何をしたのかは何となく想像がついた。

「松山へ行かせてください。 詳細をきき、時期尚早と止めてきます!」

「お前にそれができるか?」

「あの人を止められるのは私だけです!」 

「行ってきてくれるか?」

「はい!」

 今橋は頼むと力なく呟いた。

 あれだけ松山へは出さないと言い切っていた今橋が俺を遣いにでもやるということは本当に背に腹を変えられないギリギリなのだろうと悟った。

 時間が惜しかった。

尾上の情報がこちらに届いているということは、尾上のことだそれよりも早くさらに動いていることが予想できる。

 今橋の指示を受けてから小一時間。

急かすに急かして機体を準備させ、コックピットに体を滑り込ませた。

「尾上さん、急いじゃだめだ!」

松山へ向かおうと操縦桿に手をかけたその瞬間、駐機場をかけてくる小泉が目に入った。発動機の音で、何を言っているのか聞き取れない。

 手信号は発動機停止の合図だ。

「どうした?」

 こんな時に何があるっていうんだと俺は機体から飛び降りる。

「松山へ行っても尾上さんにはもう逢えません。」

 小泉の声が震えている。

 ゴーグルをはずすと、小泉がもうぐちゃぐちゃになるほどに泣いているのがわかる。

「どういうことだ?」

「尾上さんが未帰還のままです。 昨日、鹿屋の状況視察に松山からでていたそうなんです。 今日、鹿屋から松山へ戻る途中、鹿児島沖で343部隊と合流する寸手の所で、敵機の奇襲にあい、わずか3機で16機相手にして……。」

「それは確かな情報なのか?」

「さきほど、何度も何度も今橋中将が確認をされました。」

「尾上さんの列機は!?」

「相当やられていたようですが2機とも戻ってきたそうです。」

「何やってんだ! 指揮官機を護れんとは恥を知れ! こんなの嘘だ!」

 俺はゴーグルを足元へ投げ捨てた。

 こんなことがあってたまるか、俺は尾上さんを連れ戻すために行こうとしていたんだ。

 何でこうなる。

何で、尾上さんが未帰還にならねばならんのだ。

「嘘だ! あってたまるか!」

 俺は今橋のもとへ全力でかけていく。

 あまりの焦りに足がからまって、駐機場に転がった。

「尾上さん、なんでだよ。」

 晴天過ぎる空がこんなに憎いとは。

 駐機場に寝転がり見上げた空は、尾上と出会った時と同じだ。

 まぶしくて、腹立たしくて、両腕で目を覆ってもまだまぶしい。

 若かったあの時は尾上が悪魔に見えたのに、今はどうだ。

追いかけたくて仕方がない男だ。

「俺はあなたがいたから飛べたんだ。」

 涙の止め方がわからない。

 小泉に支えられるようにして出戻った執務室までの道のりのことはもう覚えていなかった。

 今橋が必死に尾上の安否を確認する内に、尾上が343部隊を離れた経緯が浮かび上がってきた。

 343を特別扱いするものかという海軍上層部の参謀から特攻要請が繰り返し松山へ届き、尾上はその参謀を後ろに乗せて特攻というものがどういうものかお見せしますと言い張ったそうだ。

国防最期の砦である343部隊で特攻をするのならば、まずは指揮官機からやるのが上策だと、喧嘩を売ったそうだ。

 343空の上層部がそれに賛同し、『さぁ、どうする?』と迫った結果、343空における特攻は見送られることとなったらしい。

 尾上はそれを見届けて、鹿屋に配属になっていた同期の早坂と自分の交換を司令に申し入れたらしい。

航空参謀として役不足であり、搭乗員としても古傷だらけの自分より、健康な早坂を343空付きの参謀として戻せと上申したらしい。

 そして、その人員交換を成立させるために紫電改に慣れさせる必要がある早坂を鹿屋から連れ帰るその最中に奇襲を受けたのだ。

「列機を逃がしたというのか? 指揮官機が盾になる馬鹿がどこにいる!?」

あれだけ俺に指揮官機にのる自分の命の価値を考えろと言ったくせに、自分自身はそれを放棄した。

早坂は指揮官機ではなく、列機後席に乗っていた。だから、尾上は列機を護ったのだろう。

でも、俺はどうしても納得がいかなかった。

尾上と早坂ならば、俺は尾上を護る。尾上が怒り狂っても、俺は尾上を護る。

「尾上さん、俺たちはあんたが護られなかったら意味がないんだ!」

 俺は早坂には申し訳なかったが、どうして逆じゃないんだと思ってしまった。

目の前にいた今橋は電話連絡を受け、愕然として膝を折った。

松山へ戻った早坂と鹿屋へ戻った相田がそれぞれに尾上の最期を語ったそうだ。

「馨は1対10だったらしい……。 しかも、その他の6機はB29がおったそうだ。」

 特攻より過酷と言われる日本本土をしきりに襲い始めた大型爆撃機と対峙していたというのだ。

B29は装甲が厚く、強力な機銃を備え、操縦、爆撃、機銃と任務が分かれた搭乗員を擁して挑んでくる。何もかも一人でこなす紫電改とは大違いだ。

 早坂の話しによると、尾上は何とか343部隊の集合ポイントまで逃げ切れと指示を出し、もう1機とともに、隊列を組んでいたB29の横っ腹に突っ込んだらしい。

 急に真横から現れた尾上機に隊列を崩されたB29は器用に飛び回る紫電改をうまく追えなかったそうだ。

 しかし、それを警護していたF6Fグラマン10機が紫電改2機を見逃すはずがない。

 わずか2機で計8機を撃墜。

残り2機が退避し、終わったはずだったと最後まで尾上と一緒に飛んでいた鹿屋へ戻った相田大尉は言葉を失ったという。

 尾上がどうして未帰還となったのかを今橋はなかなか言葉に出せなかった。

「中将!」

 俺は今橋のデスクを思い切りこぶしで殴りつけた。

「尾上さんに何があったんです!? あの人が簡単に墜とされるはずがないんだ!」

 海軍航空隊でも指折りのパイロットである尾上だ。

 最期まで絶対に諦めたりしないはずなのだ。

 俺達にあれだけ何度も口が酸っぱくなるくらい生きて戻れと言った男だ。

「倍数のB29の新たな隊列が後方から現れたらしい。 当然、倍数のグラマンもいる。 馨は損傷のひどかった相田機を援護しながら空域離脱を試みたが、松山どころか鹿児島沖にまで押し戻されたそうだ。 とにかく逃げろと手で相田に指示を出したのが馨をみた最期だったそうだ。 相田の退路を切り開くために馨は倍数のグラマンの目につくように飛行したそうだ。 そんな馨の機体を追うこともかなわず、相田は鹿屋へ命かながら戻ったらしい。 馨の最期は誰にもわからん。 だが、343の者が海上を哨戒したが馨の搭乗していた紫電改のかけらはどこにもみつからんかったそうだ。 もう生きているとは考えにくい。」

尾上の死は間違いないものであり、俺と小泉は二度と尾上に逢えなくなったことを今橋から告げられ、俺はその場に崩れ落ちた。

小泉も同様で、すぐに立ち上がることができなかった。

そして、俺たちは最愛の師匠をあっけなく失ってしまった。

「馨は燈子さんを失ってわずか2ヶ月で……。」

 今橋はデスクを何度も何度もたたきつけながら、声を殺して泣いた。

 殺しても死なないはずだった尾上がこうもあっけなく散るなんてと俺はもうどうしたらよいのかわからなくなった。

燈子を失った時以上の痛みに目の前が真っ暗になった。

 俺も小泉も二人とも、唯一の肉親である尾上の祖母喜代にこの事実を伝えることができず、今橋が疎開先へと短い手紙を届けてくれることとなった。 

 燈子ともう逢えている頃だろうか。

 燈子に早すぎると怒られたら良いんだ。

「早すぎると怒ってください、あの人を。」

 人間の涙は枯れようがないほどにあふれてくるらしい。

男のくせにと言われても仕方がない。

俺は尾上馨が居てくれたから今ここに居るのだから。

 そんな俺たちに悲しんでいる暇など与えない時代の波は大きなうねりをもって、さらに日本全土へ襲い掛かってきた。

時代は米国の圧倒的な戦力が、沖縄へ、そして、本土へと一気に迫ってくることとなった。

昭和20年初夏、尾上を失ってわずか2ヶ月後、343空ははからずも尾上の後を追うように鹿屋と大村基地へと場所をうつすこととなった。

紫電改は局地迎撃機としては抜群の性能をもっているが、唯一の欠陥があった。

それは零戦と比べ航続力がないことだ。

それが九州へ基地を移す理由の一端になった。

九州へ移したとしても、そのデメリットは大きく響いた。

鹿屋・大村から飛び立ったとしても長い距離を飛ぶことのできない紫電改では沖縄との往復ができないのだ。

つまり、鹿屋や大村から飛び立って、ぎりぎり交戦をして帰還できる範囲は九州南方、つまりは奄美大島や喜界島あたりが限界線となる。

特攻機が米軍の艦艇をめがけて沖縄へ飛んでいく先に敵機が立ちはだかるのを紫電改が捕捉して交戦し、特攻機がまっすぐ目標空域へ到達できるよう支援する作戦などが主なものとかわっていた。

「いずれは皆が尾上さんのやろうとしたことをするはめになったわけだ……。」

 尾上が343空を離れようが離れまいが、紫電改の宿命は同じだったのだ。

 B29と死線を交えること、特攻機を援護することが紫電改の宿命。

 あれだけ試行錯誤した紫電改がどれほどのことができたのだろう。

 連合国側からコードネーム『GEORGE』と名付けられ、敵機パイロットを震撼させるほどの性能をもっていたのに、配備される数が戦況と共に激減してしまった。

物資不足だけが問題だったわけではない。

紫電改を量産しようにもその生産ラインが破壊されしまってはどうにもならなかった。

尾上の死以降、今橋は終戦のその時まで、俺達が部隊へ出ることを徹底的に許さなかった。

『尾上の想いを引き継げる人間は生き延びなくてはならない。 耐えろ。』

 耳にたこができるくらい繰り返し聞かされ、俺達は横須賀鎮守府で今橋と共に悔しさに耐えて、終戦を迎えたのだ。

 軍関係者としてGHQの取り調べを受け、俺が理子のもとへ戻ることができたのは終戦から半年ほどしてからだった。

 何の言葉もなかったが飛びついてきてくれた理子のあたたかさに、俺はせきを切ったようにひたすらに泣いたことを覚えている。

 悪夢にうなされる度に、よく生きていてくれたと何度も何度も抱きしめてくれた理子の存在に救われた。ぼろぼろの心を持ったまま海軍大尉で終戦を迎えた俺の背を押し、理子は生きるしかないのだからもう一度日本を護れと叱咤してくれた。

 そして、陸軍は警察予備隊を経て陸上自衛隊、海軍の残存部隊は海上警備隊を経て海上自衛隊、そして航空自衛隊が新設されることとなる。

 俺も小泉も今橋と共に紆余曲折をへて、航空自衛隊の一員となった。

 なけなしの力を振り絞って生きているうちに、尾上が夢見た日本を何度でも護るためにだけに飛ぶ猛者が集まる組織ができたのだ。

『生かされた意味をはき違えてはいけません。 無駄に生きるために生かされたのではないでしょう? 情けない! 日本男児のくせに!』

本当に、あの時、とんでもないプロポーズをしたものだが、理子と結婚してみてよかったことしかない。

 これはのろけでもなんでもないが、本当に人生を振り返って思うのだ。

 理子という存在がなかったなら、俺はきっと尾上を追って死に急いでいたと思う。

 そして、年月が流れ、この目の前にいるひ孫が、あの時の燈子のやりたかったことをきっとやり遂げることになると思うと愉快で仕方なくなる。

 このひ孫の前に、尾上の続きをやり遂げる男がきっと現れて困らせるのだ。

 でも、きっとそれでいい。この手紙を護ってきた意味がここに始まりを迎えるのだから。




If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.

                  Raymond Chandler (レイモンド・チャンドラー) 

【タフでなければ生きていけない。 そして、優しくなれなければ生きている資格がない。】



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