第五夜
こんな夢を見た。
遠く遠く。遠くにある火。自分はそれを、波で揺れる小舟の上で見ていた。あそこには姉がいるのだと、姉とは分からないが恐らくそんなものがいると分かっていたのに助けに行かなかった。夜の海はぼんやりとした半月の明かりだけで進むには心もとなく、ただ少しずつその火が遠ざかっているのを見るだけだった。
小舟には自分だけが乗っていた。母も父も、知るような人間は誰一人としてそばにいない。唯一つ、きらりと光るかんざしだけが手の中にある。
どうやら母も父も火の中にいるようだった。彼らは誰も、自分がどこにいるかを分かっていない。自分たちの外の世界がどれだけ暗く静かであるのかを知らない。酷く冷めた頭でそれを考えていた。まるで自分ではないように。
その火はいろいろな様子を映していた。朝の陽ざしの光や、目覚めるときの誰かに呼ばれるような感覚。喧嘩しながら学校へ行った道。楽しい時間はあっという間に過ぎて、夜になる。怖い怖い怖い夜。あれが来る。あれが来る。
そこで自分は我に返る。火に引きずり込まれそうになっていた頭を振って、ふざけた考えを押し出した。
あの火はまた少し遠ざかっていた。姉の気配も遠く、知らないところへ消えていってしまう。引き留める気はなかった。けれど追い出す気も無かった。ただ今までみたいにそこにいてほしかった。
かんざしが忘れるな、というようにきらりと光る。苦しい言葉。「あんな風になるな」誰かの声が聴こえたような気がした。なんだか急にかんざしがとてもとても嫌なものに見えて、衝動的に右腕を振り上げる。海に投げ捨ててしまえ、と命令したのに腕は動かなかった。自分は諦めてかんざしを目に見えないところにやった。小舟がこころもとなげにぎいぎい揺れる。静かな海の上だった。明かりも陸も、あの火以外にはなにも見えやしない。唯一見える満月(さっきは半月だったような?)も、手の届かないところで笑っていやがる。
あの火がまた大きく揺らめく。はっとして目を向けると、何かが見えてきた。怖い物。あれ。あれ。目をそらさなくては。だけどまた動けない。
気味の悪いバケモノだった。あれは。テレビに映っていた。リポーターが何か言っている。いつの間にか自分はその現場にいてマイクを握っていた。牛に人の目をねじりこんだみたいな奇妙な生き物がこっちに思いっきり走ってきた。きゃあ。とっさに悲鳴を上げると、自分は小舟の上に戻っていた。あの火がどんどん、今までより勢いを増して遠ざかっていく。海の上が魚の跳ねる音、波の音、海猫の鳴き声でにわかに騒がしくなる。それらに追い立てられるようにして、小舟はぎいちょんぎいちょんと不安な音を立てながらどんどん遠ざかっていく。
逃げられた。怖い物から逃げられた。そのはずなのに。
家族の気配がどんどん薄れていく。まるで生まれた時から一人で生きていたように、自分が変わっていく。家族などいなかったように、子供時代などなかったように、あの火などなかったように。やだよう、と自分は抵抗しようとするが、波は激しく小舟を進ませる。かんざしが言う。「これで良かったんだぜ」違う。自分はただ、あの火みたいに生きたかっただけなんだ。三日月が意地悪く嗤ってやがるぜ。どうしてだよ。
どれだけ遠ざかっても、それでもしかしあの火は消えなかった。赤くちろちろしている。遠くで揺らめいている。自分の家族をそこに残して。
あれ、ずっと漢字を間違えている。けど、消して直すのは面倒くさいなあ。