第六夜
こんな夢を見た。
自分は町の中を歩いている。町は白と黒だけでできた、モノクローム映画のような風景であった。ものの輪郭はぼやけていて、明暗で世界が描かれていた。だが、存外よくわかる。たとえて言うなら、夏のカンカン照りの昼下がりから色を蒸発させたようだった。世界は光と影だけでできているのだ、と言ったどこかの小説を自分は思い出した。
町並みはどこかの繁華街の、中央通りから二、三本ほど外れた通りのようだった。まだ日が高いせいか、人は誰も歩いていない。猥雑な店のド派手な看板と居酒屋の筆文字の勢い良い「準備中」の立札が並んでいるかと思えば、妙に格式高いオーダーメイドスーツの店が気取って構えてあったり、一輪の花のように雑貨屋が開いていたりする。どんな人間も受け入れる懐の深さは、迷い込んだら出られない迷宮のような不気味さも感じさせた。歩いている人が自分以外にいれば、少しはその不気味さも薄れたかもしれない。
季節は真夏のようで、自分は額から流れる汗を何度もぬぐった。アスファルトとコンクリートで覆われた都会は巨大なフライパンと化して自分をじりじりと焼いていた。このまま目玉焼きのように固まって、一部にちょっと焦げができたりなんかして、「いや半熟が好みなんだよね」なんだとか言われながら巨人に頭からがぶりといかれる。そんな幻が自分の回りを飛び回っては暑さにあっという間に消えた。
自分はあまりに熱かったので日陰に入ろうと思った。しかし正午の天のようで、自分の影も建物の影も真下にぽとりと黒い溜まりを作っているだけだった。
自分は弱ってしまった。このまま歩き続けていれば日射病になって倒れてしまう。喉も乾いてきた。早めにどこか店を見つけて少し休憩しよう。辺りにコンビニは無いだろうか、と立ち止まった時のことだった。
ひた。ひた。
自分の後ろで足音がした。心臓が跳ねる。ただの街を歩く一般人であろう、とは思うものの、どうしても今までの経験上誰もいない道では背後の気配に敏感になってしまう。しのぶような控えめな足音だったことも不安に拍車を掛けた。自分は店を探すふりをしながら、耳をそばだてて背後を探った。
ひた。ひた。ひた、ひた。
足音は三、四メートルほど離れたところで止まった。嫌な感じだ。追跡や不意打ちのつもりなら下手くそとしか言いようがないが、それが逆に緊張を煽る。
きっとただの一般人だ、もし襲われたとしても逃げれば大丈夫だ、と自分を落ち着かせて、とりあえず早いところ人通りの多い場所へ行こうと自分は歩き始めた。足音はしばらくしてからついてきた。やはりこちらをある程度気にしていることは間違いない。自分は怪しまれない程度に足を速めた。暑さはさっきほどは感じなくなっていた。
自分は歩き続けた。妙にどこからも音がしない。自動車のエンジン音、セミの鳴き声、人のしゃべり声、なんでも良いから聞こえてほしいと願ったが、自分と後ろの足音以外は誰もうんともすんとも言わなかった。
実は後ろから追ってきているのは連続殺人犯、この町はすでに彼の手にかかっている、せっかく見つけた店に助けを求めても中はすでに血の海。そして自分も後ろからぐさり…白昼夢がうっとうしく自分を惑わす。いよいよもって暑さにやられてきたかもしれない。幻だとわかっているのに脳がその考えに侵食されていく。自分は大股で歩いた。角にコンビニのマークが見える。曲がれば入り口があるはずだ。
自分は軽く走るようにして角を曲がり、コンビニに駆け込んだ。冷房の風が火照った体を心地よく包み込む。「いらっしゃいませー」間延びした声が自分を迎えた。それと同時に世界に音が帰ってきた。帰ってきた、と言っても現実のコンビニと比べればずっと静かだったが、音があることは自分を大いに励ました。声を発した店員はよく見ればどこにもいなかったが、その時は何とも思わなかった。
足音はもう聞こえなかった。やはりただの歩く方向が同じ人だったか、それとも店に入ったので追跡をあきらめたか。後者であれば出た瞬間を待ち伏せされているかもしれない。どこか別のところから出られないか探そうと考えた。幸いコンビニは大きなビルの一階に作られたもので、探せばビルの中へ抜けられる場所はありそうだった。
とりあえず飲み物を探そう。喉が渇いて仕方ない。新発売のソーダが売っているかもしれないな。まだ少し熱の残る体を冷蔵庫の冷気で冷ましながら、自分は飲み物を物色した。所持金はあまり多くない。どれならお得だろうか、と考えていると、ふいに自分の手が止まった。
ひた。 ひた。 ひた。「いらっしゃいませー」 ひた。 ひた。
あの足音が来ていた。息が喉元で妙な音を立てた。逃げられないところへ追い込まれてしまった。自分はつとめて冷静に見えるよう飲み物を棚に戻し、店の奥に向かった。
心臓が暴れまわる。不味いことになっているかもしれない。奥まったところにあるトイレの横に、「〇〇ビル連絡戸」と札のかかった扉を見つけた。ここだ。自分はそのドアに飛びつくと、勢いよくその向こうへ抜けた。
そこはなぜか外階段だった。構造的にもビルの内部につくはずの扉だったが、ひゅうひゅうと風の吹き抜ける、ぼろっちい外階段へと自分は降り立った。金属がむき出しの足元がかたん、かたんと澄んだ音を立てる。だいぶ放置されているのかサビついていて自分は少しだけ不安を覚えた。
このビルが何のビルかは分からないが、とりあえずここから登って適当なところから中に入ろう。そう決めて、自分は階段を上り始めた。かたん、かたん、と二、三階分ほど上り、さてここらでどうかと戸を開けた。中は妙な紫色のぶよぶよしたのがうごめいていて、こりゃ駄目だと自分は静かに戸を閉じる。
下のほうでかたん、と音がした。追ってきた?自分は怖くなって、一目散に駆け出した。
戸を開ける。大事そうな会議の最中。これはダメ。
戸を開ける。霜が降りるほど寒い空気が襲ってきた。ここもダメだ。なんでどこもかしこも変な場所ばかりなのだ。自分は苛立ちを覚えながら、まだまだ上り続けた。足音はもう隠れる気は無いようで、一心不乱にこちらを目指して駆けあがってくる。自分は戸を乱暴に閉めてまた駆け出した。
そうして何時間経っただろうか、そろそろ疲労が限界というところで階段は途切れた。屋上についたのだ。とうとう来てしまったか、と自分は唾をのんだ。一体ここからどうして逃げ切ろう。自分はこの階段以外に下に降りられそうなところを探したが、見る限りでは無さそうだった。
足音ががんがん、がんがんと迫ってくる。自分は屋上へ躍り出た。
いったいどうすればいい。得体のしれない奴に捕まりたくなどない。思えば足音の主を一度も見ていない。恐ろしさで振り返ることなどできなかった。見てやろうと思ったが恐怖が勝って首が言うことを聞かない。足音がだんだん迫ってくる。自分は少しずつ、少しずつ屋上の縁へ足を進めていく。
ついに自分は端にたどり着いた。地上はかすんで見えるほど遠く、のぞき込むと足がすくんだ。それでも足音はひた、ひたと追いかけてくる。
飛び降りるしかないのだろうか。間違いなく死ぬ。下策だ。だがそれしか思いつかない。恐怖から逃れるためにはそれしか考えられない。しかしいかんせん高すぎる。地面に叩きつけられてぐちゃぐちゃになっている自分を想像して、腹の底が冷えるような感覚を覚えた。
死にたくない。捕まりたくない。飛び降りようか。ちょっと足に力を込めて、五十センチばかり先へ飛び出してみようか。まさか相手だってこの高さから飛んで追ってはこないだろう。
ふと自分は思った。これは夢なのではないか、と。思えば色がないだとか、音がないだとか、おかしいことばっかりじゃないか。夢なら説明がつく。
夢なら飛び降りても死にやしない。自分は息を吸った。




