iv (1)
目覚めると保健室にいた。寝台を囲うカーテンをあけ、壁の時計をみる。時刻は九時を四分の一まわっている。
清心は布団を半身にかけたまま、呆然と時計をながめる。
寝坊にもほどがある。
ベッドから降りようと、布団をのけて足を抜く。両足が布団から出きらないうちに、動くのがいやに億劫なことに気づいた。
全身が怠い。頭が重く、膝の上に垂れるとそれきり動かない。
やがて堪えられなくなり、枕辺に額を戻した。
どのくらいそうしていたのだろう。清心さんと名を呼ばれ、まぶたを押し開けると久野の姿がみえた。
窓を背に立ち、逆光で、表情がよく読みとれない。
「具合悪い?」
何か応えねばと思い、清心は緩慢に頷いた。
「すみません……頭痛がして、起きられないんです」
言葉をしぼりだす。久野の手がのびてきて、前髪をそっとかきよせた。
「今日はやすんでていいよ。子どもたちには、体調が悪いって言っておいたから。おなかはすいてる?」
清心は頭をふった。久野の手は清心の短い髪をひと梳きし、離れていった。
「また後でくるよ。おやすみ」
昼ごろには戸口で物音がし、横目でみると亮治が顔をのぞかせていた。
「清心先生、大丈夫?」
じっと目をみかえし、清心は顎をひく。亮治の陰には信乃がおり、随分遠慮がちにこちらをうかがっている。
「お昼御飯、食べられる?」
清心は少し考え、目で肯いた。
「そうね。ちょっと持ってきてくれる?」
「うん、わかった」
「ちょっとだけ」
「うん」
亮治が膳を持ってふたたびやってきたときには、昆陽太と一緒だった。
「先生、ゆっくりしててね」
亮治が声をかけてくれる。昆陽太は無言でそばに立っている。二人の後ろ、遠くにやはり信乃がいて、廊下の向こう端から視線だけを投げてきている。
入ってきにくいのだろうか。ただおとなしいというだけでは収まらない様子である。
逆に遠慮も物怖じもしない昆陽太は、入ってきても何もいわない。
何もわからない。わたしは何もしらないのだなと思いながら、上体を起こして箸をとった。
食事を始め、助けが要らないことをみてとると、亮治たちは帰っていった。軽く箸をつけるにとどめてまた休んでいると、いつの間にやら膳は下げられた。
三時すぎ、久野がイチゴを持ってきてくれた。
けさの外出で手に入れたものらしい。小ぶりで真っ赤に熟れている。町内会の菜園がこっそり栽培しているのだと、いく分自慢げに教えてくれた。
清心は礼を述べた。
「おやつに、みんなにも」
「一人で食べて」
正面にしゃがんで、押し止めるように久野は清心の腕にふれる。
「清心のために貰ってきたんだ」
伏しがちの目があさっての方へ逸れて、とうとう体ごとあちらを向いてしまった。清心は右手の甲を鼻先にあて、わけもなく机の上をみつめた。頬が熱い。
頭痛はもうほぼひいている。このまま寝つづけるのは怠慢のような気がする。
せめて夕食の準備だけでもと、寝台から降りようとすると、久野がこちらをかえりみた。
「働いちゃ駄目だよ」
清心は返事につまった。
「夕飯は、今日は俺と知利処で作る」
知利処が今日の当番なのである。それなら清心の出る幕はないかもしれない。
「皆と同じ量、食べられそうなら、食卓で一緒に食べてもいいけど」
種類ならいざしらず、量は無理そうだ。
「今日はここでゆっくりしてて」
よほど素直に顔に出たのか、清心の考えを正確に汲んで、久野は有無をいわさず出ていった。
立ち去りぎわ、横顔でかすかに笑んで。
「あしたからちゃんと元気になって、皆を安心させてあげて」
足音が遠ざかる。
きこえなくなる。
無音になってからしばらく、清心は久野の言葉を反芻する。
父をなくしたいま、それは大切なしるべである。
翌朝、いつもより早く起き、寝台をととのえた。臨時の私室をひきはらって廊下を歩むと、耳が何かの物音をひろった。
保健室から西へきた、北校舎一階の突き当たりである。音は廊下を左に折れた奥の方からひびいている。
軽い、小さな、足音のようなものだ。速まったり緩やかになったりしながら、絶え間なく続いている。
清心は廊下を曲がった。南校舎までのびた廊下をみわたす。音の源はみあたらず、途中を今度は右に曲がった方角からのようである。
そちらにあるのは短い廊下と体育用具室のドア、そして体育館だ。柔らかいものが床をたたくようなリズムが、低く弱く、高い天井と広い空間に反響している。
体育館の入り口に、清心は歩をすすめた。
フロアの真ん中、やや左寄りに、休みなく動く人影がある。
軽やかに駆け、無駄のないまっすぐな姿勢で跳ねる。着地し、半回転をくりかえして直線の足跡をえがく。静止し、後ろに向かってはばたきながら回転し、もとの向きで降りる。
飛ぶようなステップで館内を斜めに走り、ピタリとポーズをとったところで清心に気づいた。
距離はあるが、ほかに人のいない体育館では二人の間に遮るものはない。
すっと、フィルタを入れ替えるように表情を変え、知利処は無造作な直立になおった。
普段の所作でこちらへあるいてくる。
もったいないことをしたと清心は感じた。
「おはようございます」
「おはよう」
律儀に挨拶し、横をすりぬけて出ていこうとする知利処に、あわてて声をかける。
「バレエを、ならっていたの?」
清心を通り越してから、知利処は立ち止まった。
頷く。
「昔」
ぽつりと応じる。答えはそれだけのようである。
昔ってと、つい反応しそうになり、清心はすんでのところでのみこむ。
多分、本人はいたってまじめだ。その語はおそらく二度と戻らない過去をさしている。
ふと知利処の足もとをみる。靴はなく、靴下がすりきれ、踵がむきだしになっている。
「靴は?」
知利処は片足を後ろにあげてつまんだ。
「これでいいの。靴も裸足もすべらなすぎるし、いい靴下だとすべりすぎる」
「シューズはないの?」
「サイズが合いません」
馬鹿なことをきいた。清心は口をとざした。
「うるさかったですか」
ふりかえってみつめられ、清心は首を横にふった。
そうと知利処はつぶやく。体育館は外の公道に面しているから、子どもたちには原則、使用を禁じているのだ。
しかし頭ごなしに否定するのはひどい。
舞踊は美しかった。バレエについて清心は詳しくないが、かなり高度な文化だということは理解できた。
それを誰にみせるでもなく、たった独りで保持しているのだ。
惜しいと思う。観る者がいてこその技芸であろう。
高い気位。忍耐。知利処はいつも端然と立ち、堂々とふるまう。
舞を演ずる脳裏には、きっと晴れ晴れしい音楽がかなでられていることだろう。
「この時間なら、誰も通らないでしょう。音も、あの程度なら外にはきこえないわ」
知利処は目顔で肯き、踵をかえしかけた。
横顔を過ぎた辺りで動きをとめた。完全にはふりむかず、目も合わせず、清心には右目の目尻とまつげが辛うじてみえる。
「先生、具合はもういいの?」
――背筋がこわばった。
逡巡し、できるかぎり慎重に、清心は言葉をえらんだ。
久野の助言を耳の奥に再生する。
「うん。きのうは御免ね。当番、ありがとう」
「別に」
素っ気なく応え、知利処は廊下の角へきえていった。
その後姿をみおくり、無人の館内へ首をめぐらせて、清心は音をたてないように深く息をついた。
緊張していた。
知利処との関係は、和合もなければ馴れ合いもないのに違いなかった。
叔母から電話があったのは、訃報を受けとった翌々日の夜だった。宿直室でまず久野が受話器をとり、清心を呼んでくれた。
久野の居室に一人きりで、久しぶりに叔母と話した。内容のせいだろう、叔母は極力感情をおさえたような声を遣った。
告げられたのは事務的なことばかりである。通夜はすませたこと、密葬にするつもりであること、遺言状がみつかったこと。遺言状には、清心の処遇について、簡単に書かれていたこと。
それによれば、父は己の葬式に娘が参列することをあえてのぞんではいないようだった。清心には大事なつとめがあるから、強いてこさせないようにと、そういう主旨だった。
ただ、叔母としては清心の列席に否やはないという。暖かい時節であるから葬儀自体はすすめてしまうが、仕事と交通の都合がついて、きたいようなら、いつでもきていい。迎える準備はととのえておくし、父も決して嫌がりはしない。よくよく考えて、もしくるときは連絡をよこすように。
それが叔母の意思だった。清心は礼をいい、電話を切った。
以来、たびたび、そのことについて考えている。
父の死に目にあえず、ひとめ顔をみることすらかなわないかもしれないが、せめて香をあげ手を合わせたい。
叔母や医師に挨拶し、末期の様子をきいておきたい。
仕事に大きな穴をあけるというのでなければ、父の思いを裏切ることにはならないだろう。
その点、叔母の気遣いはありがたい。叔母にもきちんと対面し、いままでの世話を感謝したい。
しかし、現実的な問題がある。職務もそうだが、最たるものは交通手段である。
公共の交通機関は大部分が麻痺している。この学校に車は一台あるが、清心は運転ができない。かといって久野についてきてもらうわけにはいかない。留守中、久野に学校をすべてまかせるなら、清心は別に車をたのまなければならない。
個人タクシーは、二、三町村に一軒ほどの割合で生きている。ただしそれが信頼できる業者かどうかは賭けに近い。誘拐や強盗のような真似をするところもあれば、人が確かでも車の整備がなっていないところもある。事前の吟味と、ある程度の運、それに仮にも公務員として、町内会の許可を仰ぐ必要もあるだろう。
久野に相談しようと何度か思ったが、ゆうべ電話を借りて以来、うまくタイミングが合わない。やぶれた布団を替えたり、市へ行く準備をしたりと、日ごろの慌しさにまぎれて二人で話せずにいる。
いまも久野は、朝の市から一旦戻り、ふたたび外出している。清心は子どもらとともに中庭にいる。先夜の雨ののち雑草が勢いよくのびてきたので、児童総出で草刈りをしているのである。
日は出ているが雲も多く、風があって、照ったり翳ったりしていた。中庭は広く、菜園の周りを中心に刈るようにいってはいるが、なかなかそうもいかない。午後も時間を過ごすにつれ、子どもらはてんでばらばらの方角を刈り、追いかけっこを始め、むしった草をちらかしてあそびだしている。
中庭の芝生は恰好の遊び場なのだ。それでまなぶこともある、飽きるのもわかる、とがめる気にはなれない。清心も、まさか徹底的に刈る必要はないといった裏に、非常時食用とするためという理由があるとはいえなかった。
子どもらがあそぶにまかせて校舎に入り、麦茶をわかして、ひきかえした。
「麦茶あるよ。休憩にしよう」
呼ばわると、ようやくひとところにあつめられる。草刈りの途中で放りだしてきた軍手を、人の分まで亮治がひろってくる。信乃は編んだ草冠を軍手と一緒に水道場に置く。知利処が軍手と鎌を置き、手をあらう一方、昆陽太と桜は緑色にそまった手でコップをつかむ。
茶は温かいままだったが、皆よろこんでよく飲んだ。ひと息入れて草刈りを再開すると、素直に菜園の周囲へ戻った。
小さい四人が各自の持ち場をきめて、最後に作業についた知利処をみて、不意に清心は気づいた。
目をすまして、何度か疑うが、確信の方がまさる。コップの盆と薬缶をかかえて普段どおりに呼んだ。
「知利処。ちょっときて」
知利処がふりむき、数歩寄ってくる。ほかの子らもふりむく。
「何?」
「ちょっと図書室あけてくれる?」
「え、読書ですか?」
「ううん、調べ物したいの」
いいけどと応えて知利処も戸口をくぐった。清心は残った皆に草刈りを続けるよう指示し、盆と薬缶をすぐそばの手洗い場に下げた。
「鍵、部屋にあるんだけど」
それは好都合である。清心は知利処をうながして階上を目指す。
「じゃあ、先に部屋に行こう」
北校舎の三階、女児らの私室に入り、鍵はいいからズボンの替えを持つように言う。
怪訝そうな知利処をつれて今度は保健室へ行き、戸棚の低いところをあけて中身を取り出した。
「気分は悪くない?」
「え……はい」
お尻は気持ち悪くないときくと、あからさまに顔をしかめた。
女性の生理について問うてみると知識はないらしい。意外とさもありなんが半々という心境で、清心はひとまず入り用のものを持たせ、つかいかたを教えてトイレに向かわせた。
いくら読書をこのんでいても、小学校の児童書と図鑑と名作劇場では高がしれている。保健室にはハンドブックがあるから、それを読んでもらうのが手っ取り早そうだが、それも次回のことである。
実地なのだ。いまは直接教えた方がいい。
少しして戻ってくると、知利処は心なしか顔を青ざめさせていた。
汚れた下着とズボンをひきとり、洗濯のコツはあとで教えるからと言って、寝台にすわらせる。
知利処は不安そうである。傍らの丸椅子に腰かけて、清心はそこに向き合う。
怖がらなくていいよと、最初に告げた。
なるべく淡々と、それでいてつきはなさないように、声色に気をつけて清心は話した。いま知利処の体に起こっていることを何と呼ぶかということ、それが大体ひとつきごとにやってくること、女の子の体が大人になったあかしだということ。
お祝いだからお赤飯を炊いたりもするというと、ふるふると首をふった。
「それはいい」
「そうだね。皆びっくりするもんね」
あまりおおっぴらにすることはないが、恥ずかしがることではない。貧血を起こすこともあるからそのときは遠慮しない方がいい。
ただ、いまのところ校内でそれがきちんとわかるのが清心と知利処の二人だけであるから、困ったらいつでもいってくれるように。
そこまで説くと、知利処の表情もうっすらやわらいだ。清心は安心させるようにほほえんだ。
「体をあったかくして、じっとしてるのが本当は一番いいの。眠くない?」
「少し」
「今日はもうやすんでいいよ」
知利処が替えたズボンは、明るい水色のショートパンツである。えらぶほど衣服がないので致し方ない。布団をとって寝かせようとして、知利処が足をあげたとき、太腿の痣が目に入った。
清心は手をとめた。
「知利処……」
「はい」
ショートパンツの裾から、みえるかみえないかという位置である。
痣自体は小さい。目立たないし、事故か、自分で無意識につけてしまったものかとも思うが、怪しい。
鬱血がむらさきいろに変じる手前のあかいろをしている。
重ねたようにふたつ。
咄嗟に手首をとって内側をみる。おどろき、身をすくめる知利処に、ちょっと御免ねといってTシャツの袖をまくる。
袖の奥、腕の付け根の内側に、くっきりと赤い細長い跡がある。
清心は息をつめた。
言葉をさがした。
「これ、どうしたの?」
「え」
「痣」
知利処の顔色が変わった。
ぱっとうつむいて目をあげない。
清心の背筋に寒気がはしる。
靴下に手をやると、あっと短く知利処が叫ぶ。僅かにみじろぐが抵抗はない。
白い足首に、同様の傷がある。
両脚、両腕に―― 一対の。
知利処は逆らわなかった。清心がたしかめるのに、されるがままになっていた。
清心はそっと両方の袖をなおした。言葉がみつからない。声もほとんど出る気がしない。
一縷の望みと、事実を把握しようとする気持ちから、シャツの裾に手をかける。
少しめくると、脇腹に広く跡があった。
息をのみ、すぐさま裾をおろした。
決定的だ。
誰がみてもそれとわかる――。
清心は呼吸をわすれ、丸椅子に腰をおとした。
全身の関節付近、服に隠れるやわらかい部位に、鬱血がある。
人の指の形の。
互いに何もいわず、目も合わず、清心は座したきり動けない。
右手だけが知利処の左手にふれている。その小さな手がシーツを握る。
清心は思わずそれを両手でくるんだ。
知利処の全身が小刻みにふるえ、急に肩と首が大きくぶれた。先生と、かぼそくつぶやき、清心をみた顔はぐしゃぐしゃである。
清心は席を立ち、知利処を抱きしめた。知利処は清心の肩に顔を押しつけてわんわん泣いた。
身も世もない。その泣きざまが本当だった。
清心はかたく目を瞑り、ひたすら念じて薄い背中をさする。何が起こっている。何が起こっている?
このいたいけな体の、ようやく大人の入り口にさしかかったばかりの子に。
声がやみ、しばらくしゃくりあげ、清心の背にすがっていた手が腕にうつった。そうっとすきまをあけると、手がさらに肩先のシャツをつかんだ。ぷるぷるとふるえている。
殺したような、かすれ声が呼ぶ。
「せ、先生」
清心はその背中をゆっくりたたきつづける。いわなくていい。いわなくていい。
何もいわずにいると、知利処はじき体の力を抜いた。清心の胸に頭を預け、やがて気をうしなうように眠った。
何もいえなかった。きけなかった。いわせていいものかわからなかった。
知利処をベッドに横たえ、布団をかけて、泣きつかれた寝顔をみつめる。
きれいな肌。黒い、細い髪。まだとしつきがきざまれていない顔。
頬に無惨な涙の跡。
かならずきこう。でもそれはいまではない。
あまりにも、負うものが重すぎる。