ii
いまの時勢で、年端もいかない子どもたちがどうやって生きているのか、清心は詳しくしらない。病が流行をはじめたとき、清心はもう小学校高学年で、その後、どんどん人が減り、社会がすたれていく真っただ中を、父にまもられて生きのびてきていた。
肉親があり、運よくまもられている子はいい。だが、保護者をなくした子たちが、ぬすむ、飼われる以外に生きるすべがあるとは、到底楽観できない。
飢えに駆られて奪い、追われ、痣だらけになる子どもを、清心もいく度か目にしていた。傷だらけで路傍に倒れ、動かなくなった幼い子を、ときおりみかけることがあった。
ほかにも、悪い噂が、折りにふれちらほらと囁かれていた。どれも、目を瞑り、耳をふさいで、叫びだしたくなるような内容だった。
清心はそのうち、どの子もたすけられなかった。
まもれなかったし、すくえなかった。
力も権利もなにもなかった。
――外に出るのは大人の役目だ。
それは、久野との確たる取り決めだった。
他人の子を預かっている身だからではない。
久野が、そして清心自身もすでに、子どもたちをうしなうのが怖いからである。
食料調達や家財道具の手配、燃料の補給などは、もっぱら久野がうけもっている。車で出かけ、情報収集をかねて、近所づきあいや用聞きをしてくる。専門ではないが、久野は器用だから、簡単な機械の修理や道具の手入れなど、たのまれることも多いらしい。ガスコンロやバイクを直し、包丁や鋏を研いで、かわりに野菜や果物、衣類、古道具などをもらって帰ってくる。
どうしても用入りで、久野にたのみにくいとき、町内会へ挨拶にいくときなどは、たまさか清心も同行する。しかしほとんど、清心は久野の留守のあいだ、校内の仕事にあたる。食料のやりくりを考えたり、ごみを片付けたりするだけでない。衣類や寝具の数には限りがあり、洗濯を毎日、それ以上に、継ぎ当てやサイズ直しをひっきりなしにしなければならない。
部屋の掃除や、簡単な洗濯、布団干しなど、子どもたちがやってくれることもある。それでも大人の仕事が減らないため、子どもの自習と遊びの時間は長い。読み書きと初歩の算数は、上の子が下の子に教えている。そのほかは独学と、久野や清心が時間をつくって教えることでまかなっている。上の子ほど手薄になるのが難点ではある。
知利処と信乃はいつも一緒で、休み時間は本を読んだり絵をかいたりしている。昆陽太は下の子の面倒をよくみて、中庭や教室で先頭をきって遊んでいる。五人全員であそぶこともある。
基本的に仲はいい。いさかいも長くは続かなかった。
おおむね、うまくまとまっている。
それが清心の所感だった。
着任したばかりのころ、清心はその感想を、久野と、桜をのぞく子どもたち、五人の関係についていだいていた。完成した美しい輪。大学を出、社会にはじめて放りだされた清心には、それは近寄りがたくみえた。
しかし、久野の気遣いと、子どもたちの懐っこさによって、新参者の清心もこの一年弱で、皆にたよられるようになっている。
「先生、花瓶しらない?」
午前中、清心が保健室で縫い物をしていると、開きっ放しの戸口に亮治が立っていた。
昆陽太や、小さい桜よりも、気のやさしいところがある子である。普段は昆陽太とつるんでいることが多いが、今は一人である。
清心は針を使う手をとめた。
「花瓶? 何か活けるの?」
「うん。白い花が咲いてたの。信乃と知利処が摘んできたんだよ」
「大きいのなら、あった気がするけど」
「小さいガラスのやつだよ。前まで、教室のここにつるしてたの。しらない?」
亮治は戸口の柱をたたいてしめした。清心は思いかえしたが、おぼえがなかった。
清心が来る前のことかもしれない。
「一輪挿しかな。御免、しらないわ。コップでもいい?」
「じゃぁ、自分で探すよ。お邪魔しました」
「待って。わたしも行く」
布を置いて、清心は立ち上がった。廊下を二人で給食室に向かって歩く。亮治はしばらく行くと、清心のズボンをつかんでひいた。
「ぼくわかるよ」
「うん。でも先生もお花みたいな。一緒に行っていい?」
「しょうがないなぁ」
言い草と悪意のなさがかみあわない。どこでおぼえてくるのだろうと、清心はつくづく謎に思う。
「どんなコップがいいの?」
「透明なの」
「大きさは? 小さくていいの?」
「うん。お花もちっちゃいからいいの」
そんな花が咲いていただろうか。
まさか外に出たわけではあるまいな。
ふと不安になり、清心はきいた。
「どんな花?」
「白いちっちゃいのが、いっぱいついてた」
「そう。どこに咲いてたの?」
「中庭だよ。畑の近く」
「……そう」
声色を変えないように、清心は気をつけた。
「皆、よくみてるね。先生、全然気づかなかったわ」
「うん。大丈夫。安心してね、先生」
ぎゅっと、亮治は清心のズボンをつかむ手に力をこめた。
「誰もお外には出ないよ」
清心は亮治をみおろす。
亮治も、まっすぐ清心をみあげている。
「心配しないで」
ズボンをつかむ小さい手にふれ、清心はそれをつないだ。
「そうね。ありがとう」
「どういたしまして」
きちんとお辞儀するさまが愛らしい。不安をみすかされる自分が情けなくて、わかってくれる子がいることが泣きそうなほどうれしい。
とりわけ、亮治は察しがいいのだ。この子に不安をさとられ、皆に伝染させてしまわないよう、清心はかなり努力する必要があった。
いつ緊急の事態が起こるともかぎらない。何かあったとき、自身がまず落ち着いていなければならない。
そうあるには清心は未熟だった。だがこればかりは、久野にも、ほかの誰にもたよるわけにはいかないのだ。
コップをみつけて教室に行くと、児童用のロッカーの上に、知利処と信乃が花をならべていた。
数をかぞえていたらしい。清心たちが近づくと、二人とも手をとめた。
「はい」
亮治がコップをさしだす。信乃が受けとり、それきり動かないので、亮治は花をかきあつめてコップに入れた。
「花瓶だよ」
「水入れてくる」
信乃が言い、知利処とともに廊下へ駆け出した。亮治がそれに続く。清心は教卓の引き出しから鋏をとって、手洗い場にいる三人に追いついた。
コップからは水と花があふれていた。信乃の手もとから流れでる細い花を、知利処の手がせきとめようとしている。清心は後ろから手をのばし、一旦、水をとめた。
「待って。さきに茎を切った方がいいよ」
コップから一つつまんで、茎をたどり、切り口の手前に刃をあてる。やって御覧と言って信乃に鋏をわたした。
花はナズナだった。春の七草の一つだが、即座にあとの六つが出てこない。
清心は口をつぐみ、信乃が茎を切るのをみまもった。
「何て名前?」
「ナズナよ」
亮治の問いに、知利処が答えた。清心が口をきく間もなかった。
「春の七草よ。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、スズナ、スズシロ、ホトケノザ。そうでしょ?」
知利処は皆をみまわす。清心が頷くのをみて続けた。
「七草粥にして食べるの。お正月にね」
「食べるの?」
亮治と信乃が異口同音におどろく。信乃は鋏をとめ、亮治はナズナをじっとみつめる。
「もう四月だよ」
「ばか、いまは食べないわよ。お正月に食べるの」
「お花を?」
「芽を食べるの。花が咲く前よ。薬草なのよ」
ふぅんと亮治が応じる。すごいねぇとつぶやく信乃は、手もとがおろそかになっている。
「健康をお祈りするのよね。よく知ってるね、知利処は」
言いそえながら、清心は信乃の手から鋏をとった。刃物を持ったまま気が漫ろになるのはあぶない。やってみると知利処に問うと、知利処は首を横にふった。
清心は亮治にきく。
「やる?」
「うん」
刃をとじ、柄の方を亮治に向けて、鋏をわたした。亮治は楽しそうにナズナの茎を切った。
「ちょっとななめに切ると、水をたくさん吸って元気になるよ」
「こう?」
「そう。上手ね」
亮治が切った花を、信乃がいそいそとコップに活ける。知利処は興味をうしなったように、つと身をひるがえして廊下を戻っていった。
「知利処ちゃん」
信乃が呼ぶ。知利処はふりむかないで返事をする。
「終わったら持ってきて」
うんと答える信乃の声が弱々しい。
咄嗟のことに、清心も、何と声をかけたらよいかわからなかった。
清心の、知利処との関係は円満ではない。それが清心の言動によるものか、知利処のとしごろの心理状態によるものか、判断はつきがたい。
知利処は信乃と仲がいいが、いつも一緒にいることをのぞんでいるわけではないようだ。男の子たちをうとんじる様子もしばしばみられるが、あそぶときは邪険にしないし、よく世話もやく。気まぐれといえばそれまでである。
けれど、清心には、ただただ不安定なようにみえる。
しようがないのかもしれない。狭い、とじきった校舎の中で、代わり映えのしない面子で、一日一日をかつかつやりすごしている。校舎の中さえ自由はなく、どんな時間でも、外からみえる廊下や、外に声がもれる体育館ではあそばないようにと、久野と清心が言いふくめている。
知利処も昆陽太もそれをよくきき、ほかの子をみちびいている。おのおの事情があって保護者とわかれた子どもたちだ。周りのものをまもろうとする気持ちは、自然と強くなるようである。
だが、年齢も十を越えると、みえる世界もひろがる。
そのときを迎えてなお、のびていく場所がみつからなければ、鬱々ともするだろう。
久野が知利処に図書室の出入りを特別に許可しているのは、そういう事情があってのことである。薬品類のある理科室は言うまでもなく、そのほかの特別教室も、多くが外に面しているから児童たちには出入りを禁じている。しかし一番年長で、久野と清心の教えが行き届かない知利処には、みずから知識を手に入れる方途が必要である。
さいわい、知利処は独りで知識を得るすべを身につけている。得た知識を独占するでもなく、特権を悪用するでもなく、要所要所で役立ててくれている。
賢い子だ。
得がたい子である。
円満にいかないのはわびしいが、しいて求めるわけにもいかない。
遠からず力になれる日もあるだろう。年上の同性として、いまはそのときしくじらないことだけを願おう。
清心がそんなことを思っていると、不意に亮治の明るい声がひびいた。
信乃を元気づけるように、ナズナの花瓶を両手に持たせて、教室を指さしている。
「できた。ほら、信乃、持ってこう」
「うん」
亮治と信乃の仲がいいのも、清心にはたのもしかった。
夕刻、子どもたちは洗濯物をとりこんでたたみ、各自の物にわけて仕舞う。その間、清心はそのうちの一人とともに、夕食を用意する。食事の準備の手伝いは、児童の中から一人ずつ、日替わりの当番制である。
五人の児童は曜日ごとに丁度一巡する。土日は割り当てがなく、日曜はさらに清心も勤務免除で、久野が代わりに食事の支度をしてくれる。
今日は水曜で、亮治がその当番である。毎週、順番がまわってきても、昆陽太などは毎回のように苦手がるし、桜も信乃もまだたどたどしいが、亮治はすすんで手伝ってくれる。包丁の代わりに果物ナイフを持つ手はあぶなっかしいが、細々した作業をこのむのは生まれつきのようだった。
ジャガイモの皮をむき、大きめに切って水にさらす。七人分の量を、飽きもせず一心にこなしてくれる。知利処の次に料理ができるのは、間違いなく亮治である。
清心はタマネギを切りおえて、豚肉にとりかかった。
「先生」
「ん?」
亮治は切ったジャガイモを、つかむ左手ごと水にひたしてはなす。元々が小さいジャガイモは、半分の大きさになって、音もなく水の中にしずんでいく。
「どうした?」
「皆のこと、好き?」
清心は思わず亮治をみた。亮治は別のジャガイモを熱心にみつめていた。
「好きよ」
迷いはない。ただ、不安があった。
亮治にこういう質問をされることは、いままでなかった。
そっかと小声で言って、亮治はまたジャガイモを切る。
その声が明るかったので、清心はいくらか落ち着くことができた。
切った豚肉にコショウをふり、キャベツをはいで、あらう。
「ぼくのことは?」
「好きよ」
笑みがうかぶ。
したうのをみとめてもらえるなら、うまくいくような気がする。
「知利処も?」
「勿論、好きよ」
「久野先生は?」
水をとめる。
あぁ、しまったと思った。
「好きよ」
亮治の問いに、他意があるのかないのか、どうにもわからない。
それでもその場は何気ない風をよそおった。
間があいた分、もう手遅れだったかもしれないが。
「そっか……ねぇ先生、ぼくも先生好きだよ」
素直な言葉だ。
清心は破顔した。
「ありがとう」
そのいきさつを久野に話すと、久野は静かにほほえんだ。
「おめでとう」
「何ですか。もう、からかわないで下さい」
そんな返事がくるとは思っていなかった清心は、少々うろたえた。当然、自分に都合のよくないことは省いてつたえたが、省いたことに関して若干の後ろめたさがあった。
児童たちが順番に湯を使っているあいだ、清心と久野は視聴覚室で話をする。視聴覚室はインターネットに通じる唯一のパソコンのある場所である。いたずらでもされるとかなわないので、使わないときは施錠しているが、常に使う必要がある部屋でもある。
普通の教室の一・五倍の広さで、調度はほとんどない。パソコンとそのための机、椅子がひと揃いと、長机がふたつ、椅子が四脚、それがすべてである。中庭に面し、北校舎三階に位置する。カーテンが残っているのが奇跡だと清心は思う。
なかばひらいたカーテンの、窓の外の暗闇には、南校舎二階の隅、給湯室の明かりがみてとれる。窓をふさぎ、換気口を生かして簡易的なシャワールームに改造されたそこに、子どもたちは出入りするのだ。久野も清心も、それほどそちらに注意することはないが、目の端にひっかかるのがほどよい場所である。
久野は長机に向かって、業務日誌をひらいている。日誌とはいえ、記入するのは仕入れた物品のリストとその他気づいたことくらいで、実質、家計簿に近い。今年度分は使いはじめたばかりなのでまだ薄く、新しい。前のものが貼り紙や折り跡、湿気でふくれてごわごわになっていたのを、清心は感慨ぶかく思いかえした。
パソコンのデスクについてメールのチェックをする。それが清心の朝晩の日課である。今夜もそれを終え、久野の方へ椅子ごと向きなおった。
「どうしたんでしょう。滅多にそんなことを言う子じゃないのに」
話題は亮治である。亮治の言行自体というより、おもに、省略した後ろめたい部分のために、清心には気がかりなのだった。
久野はペンを動かす手をとめた。
目線はノートにおとしたまま、いやと応じる。
「本当になつかれたと思っていいんじゃないかな。亮治は、おとなしい分、人をみるからさ」
「いまになって、うちとけてくれたということ?」
「そう。素直によろこぶところだよ」
そうかしらと清心はつぶやく。照れと、半分残った疑心のために、その声は上の空である。
「もっと仲よくなれるわけだ。よかったね、清心先生」
追い討ちをかけられた。面映さのあまり、清心はどんな顔をしたものやらわからなかった。
久野先生にはおよびませんと、小声で返すのが精一杯である。
久野はまた何か書きつけながら話を続けた。清心は視野の外縁で、給湯室のドアがひらく様子がないか気にしていた。
「もし気になるなら気をつけていてあげるといい。なつかれたのは本当でも、それだけじゃないかもしれない。そう思うんでしょう?」
その通りである。
寸分の誤差もない。
清心は大きく頷いた。
久野はといえば、普段の通り、ノートに対面しているだけだ。
なぜこれほど適確な推察ができるのだろう?
この類いの驚きを、清心はよく久野から味わう。
いつかこうなれる日がくるだろうか。そのたび、考えてはみても、自分には到底無理だという気がした。
多分、持って生まれた天分が違う。
その点、清心は、自分が教師に向いていないのだろうことを痛切に感じる。
清心の頷きをみてから、久野はすぐ日誌に戻った。
「季節がら、不安定になってることもあるから。清心さんがちょっとみててあげるだけでも違うと思うよ」
心強い言葉だった。
目は合わないが、そういうときほど真剣な人である。
久野の声にはいつも、押しつけがましくない説得力があった。
「繊細な子ですもんね」
「うん」
それきり、久野はしばらく日誌に集中した。清心はパソコンに対して、情報収集をこころみ、いつもどおり碌な成果も得られず、通信を切った。
日誌を書きあげたらしい久野が、ノートの背を机に打つ音がきこえた。ぱらぱらとページを繰って、最後にとじて机に置く。
次のせりふが、何をさしたものか、清心にはすぐわからなかった。
「でも――それに、正直だ。子どもは可愛いね」