iv (2)
その日の夕、夜、晩としきりに、清心は知利処の様子をうかがった。暮れ方はよく寝ていて起こすにしのびなく、夜は食事をすすめるのが精一杯だった。食後、久野との談話を終えて訪ねると、暗い保健室内で知利処は目をさましていたようである。
入り口で声をかけると小さな返事があった。清心は懐中電灯で足もとを照らして入室した。ベッドサイドに立ち、懐中電灯をけして、代わりにスタンドのライトをともした。
横たわったままの知利処は細めた目をとじたりあけたりした。それから虚空をみつめ、清心とは目を合わさなかった。
スツールに腰をおろし、清心はきいた。
「少し話せる?」
清心を一瞥し、知利処は頷いた。
こわばる気分を声にのせないよう、清心は細心の注意をはらった。
「その痣、いつつけられたの?」
答えはない。
耳を隠すまっすぐな髪と頬の線、その向こうの鼻先を清心はみつめる。
おそらく、こばまれているわけではなかった。
「どこで? 外に出たことがあった?」
彼方を向いたまま、ふるりと首を横にふる。
そうだろうと清心は脳裏で肯く。無闇に規則をやぶる子ではない。
「学校の中?」
瞬間、布団の端を握って、知利処はあちらへ面をそらせた。
言葉はない。どういう反応なのか、清心はいぶかる。
まさかとは思うが、校内なのだろうか。
戸をたて、目隠しをし、施錠しているとはいえ校舎は広い。
極力音をたてず、明かりをつけず、姿をみせずに過ごしているが、隠れ果せているわけでもなければ、外に人がいないわけでもない。
抜け道があるのか。
あるとしたら、それをいつの間にみつけ、使われているのか。
もしくは別の方法で、否、何れにせよ――。
そんなえたいのしれない加害者の侵入をゆるしたのか。
下手をすればいまもまだ、それをゆるしているかもしれないのだ。
肌が粟だつのを、清心は自覚した。
知利処はこちらをみない。
何もいわない理由が、怖気か、逃避か、それともほかの何かか、清心には皆目わからない。
無理やりいわせてはならない。それだけは、観念として清心のうちにある。
ためらい、かなり迷いながら、清心はまた口をひらく。
「一度だけ? それとも、何度か……」
さらに体ごとそむけて、知利処は布団の中で丸くなる。華奢な肩と髪の毛が、表情をまるきり遮った。
「どんな人?」
強く頭をふって、知利処はこちらへ寝返りをうつ。涙に濡れた目で清心をみ、くりかえし、痛ましいほど首を左右にふらせた。
ききすぎたのだ。清心は立ち上がり、頼りない肩口にふれた。
なおも動く知利処の頭をなでた。押さえつけるように、強く。落ち着いてくれるように。
「御免。御免ね。言わなくていい」
苦しげに乱れる息の音が、耳のすぐそばにひびく。
「御免ね……」
ほかの何の言葉もかけられなかった。
その苦痛をわかろうとしたところで、多分、清心には仮定することしかできない。
同情も想像も、本物にはならない。
昂りがさめるのをまった。それだけが、清心にできることだった。
「先生」
ひっと、短く息を吸って、知利処が小声で呼んだ。
うんと、清心は囁きで応えた。
唇がわななき、呼吸がととのわないらしい、知利処は清心の手首をさがしあててつかむ。
髪をなでていた左手だけを、両手で、弱々しく握った。
「先生……わたし」
濡れて光る瞳が心細げにゆれている。視点がさだまらない。
清心は決意をもって、ゆっくりと布団の端に腰かけた。
つかまれた左手に右手をかさね、力をこめる。熱をわけるように。
「わたし……」
「大丈夫よ。もう二度と、怖いことは起こさない」
黒い目が、不安そうに、それでも清心の目をみた。
清心はじっとそれをみかえす。
「つらいことはなくしましょう。協力してくれる?」
僅かだが、首が縦に動いた。清心はできる限りゆったりとほほえんだ。
「いまじゃなくていい、もし言えるようになったら、そのとき教えて。それまでは、わたしたちのうちの誰かと、かならず一緒にいて。一人にならないで」
ずり落ちそうになる片手を受けとめて、知利処の両手を合わせて握りこむ。
虚勢でも、強く、勇気づけるのだ。
「無理はしないで。怖くなったらいつでも、すぐにきて。もし何もなくても、どんなときでも。できそう?」
潤んだ眼はゆれたまま清心をみていた。返事はない。清心はもう一度問うように、かるく首をかしげる。
知利処の両手は力をうしなっている。
わたしと、唇が動いて、ほとんど呼気となってきえた。
「もう……」
清心は首を横にふる。
「大丈夫よ。いやなことはなくせるし、忘れましょう。怪我はなおる。痣はきえるよ。これから大きくなっていくんだから。言ったでしょう、生理は大人になったあかしだって」
それのしくみの説明はまだだったが、始めると長くなる。端折るために、清心はわざとおどけたような顔をつくってみせる。
「むかしは、生理がくるたびに悪いものを流して、それで女性は清らかになるって言われてたくらいなんだよ」
現代の認識としては、最悪の事態にはいたっていないということである。それを聞き分ける余裕はないだろう。
曖昧でも力技でもいいのだ。
自棄になってはいけない。
取り返しのつかないことなどない。
理想論でかまわない。
「これから、何度も悪いものを出して、知利処はどんどん綺麗になるよ。背がのびて、女の子らしくなって、ますます優しくなれる。いま以上に」
黒い瞳で清心をみさだめたまま、そうかなと、知利処は蚊のなくような声を出した。
清心はきっぱりと肯く。
「そうだよ」
重たそうにまばたいて、知利処は目をとじた。気づけば呼吸が穏やかになっている。目尻から涙の残りが一滴、頬をつたう。
清心は雫を指の腹ですくった。
「だからぐっすり眠って。一緒にいようか?」
目をとじた顔を横にふって、知利処はいいと答えた。清心の手を一度、かるく握りかえした。
清心はほっとする。
どうにか、うまくやれたようである。
おやすみをいい、サイドテーブルの明かりをけした。懐中電灯をさげて廊下に出た。
夜の闇が均等に、校舎の内と外を満たしている。
翌早朝から、清心は校舎一階のドアと窓を点検してまわった。先にざっと一巡し、戸に手をかけて見掛けではなく締まっているかあらためた。次に、午前中、久野の元からマスターキーを借りだして、使っていない教室の戸をひとつひとつあけて確認した。
外から室内へは、窓がやぶられなければ入れないが、教室から廊下へは足もとの低い板戸をはずせば簡単に出入りできる。特に南校舎は、教室がグラウンドと花壇に接しているから、一階はいつも施錠され、廃屋のようにしんとしている。
幸いといっていいものかどうか、不審な点は北、南、東校舎いずれにもみあたらなかった。一番、目がとどかない南校舎に異常がなかったことで、清心は肩透かしをくらったような、行き詰まったような気分がした。人しれず事件が起こりそうなところなど、校内でほかに思いつかない。
自習の指図と日常の家事のあいまに点検をこなした。昼食どきには知利処も皆と合流し、以後、何事もなかったようにふるまっている。いつもよりおとなしいが、知利処が体調をくずしたことは皆しっているので、とりたてて混乱をまねくような心配は少なそうだった。知利処も清心がいったとおり、単独行動をする様子はなかった。
マスターキーを借りる理由を、久野には戸締りの点検のためとだけいった。昨夜のミーティングでも、知利処が寝こんだ理由の半分も清心は告げなかった。
隠すのではない。隠しとおすのは、いい結果にはつながらないに違いない。正体不明の狼藉者に対抗するには、おそらくこちらも腕にものをいわせなければならない。数にだってたよった方がいい。一人で太刀打ちできるとは考えていない。
しかし事が事である。
できるなら裏づけをとって、正確に把握したい。
知利処の気持ちを慮っても、清心はたまたま気づいてしまっただけなのだから、一人にしられたからといって皆にしられてかまわないとはいかないだろう。
……とりわけ久野に、知利処はよくなついている。
報告はもっと事態がみえてきてからだ。
清心はマスターキーをポケットにしまった。子どもらに午後の学習の指示をあたえて、自らは北校舎の三階に向かった。中庭に面したベランダに干した、全員分の布団をとりこむのである。
布団叩きが一本しかないので、この役目には誰か一人がつくことになる。大体、清心がかたづけてしまうことが多いが、知利処や昆陽太もときどきやってくれる。清心がたのんだときや、清心がわすれていたときなどに。
ベランダに出ると、南校舎の陰の中にダークグレーのワゴン車がとまっているのがみえた。
今日は久野が校内にいる。体育館と南北校舎をむすぶ西側の廊下は、途中、床が低くなっていて、両壁面のシャッターをあけることで体育館わきから中庭へ通り抜けられる。車は使わないときは、中庭まで久野が乗り入れてとめる。外に出しておくわけにいかないからだ。
昼前までは車の整備をしていたが、いま久野の姿はなかった。包丁を研いでくれるといっていたから、給食室かもしれない。
布団を運んでは、とってかえして次の布団をたたく。
単純な動作をくりかえしながら、清心は考え事を再開する。
ゆうべ、父の葬儀について久野にきかれた。久野としては清心の忌引きをとどめるつもりはなく、むしろすすんで留守をひきうけてくれそうな態度だった。
それに対して清心は、父の遺志と叔母の意向を話した上で、いま少し考えてみると答えた。
久野は遠慮しないよういってくれたが、正直、遠出を考えている場合ではなくなった。
この状況で、知利処を放りだすのは無責任である。
知利処が話せるようになるには、まだまだ時間がかかるだろう。でも、戸締りの確認や、見回りだけなら清心にもできる。特に前者は早急にやるべきだ。
知利処の気持ちや体の状態も、安定していない。事情をしる清心がきえては、ふせげる事故もふせげなくなる。
のっぴきならぬ事態にあるのだ。
昨晩、清心はたしかに、知利処に自分をたよらせた。
これでいいのだと思う。
きっと、こういうことなのだ。
亡父の遺志、それに己の思いと、尊い同僚のこころざしは。
布団を入れおえ、教室に顔を出すと、久野が児童たちの指導をしていた。先刻、包丁を研ぎ、ついでに皮むき器と調理用の鋏もみてくれたという。礼をいってその場をまかせ、清心は給食室へうつった。夕食の下ごしらえをする。
それがすむと、マスターキーを握り、いま一度、校舎出入り口の点検にかえった。
のこる西は体育館とそこへ通ずる廊下である。
廊下のガラス戸は清心もときどき利用する。体育館裏へ向かう直近の戸口である。大抵、内側から鍵をあけ、戸だけしめてしばらく離れるが、短時間だし、出入りのタイミングに習慣も規則もない。堆肥づくりを始めたのもごく最近のことで、しきりに手入れもしていない。外の誰かがねらって入れるあけかたではなかった。
中庭へのシャッターの開閉は、かならず久野の出入りをともなう。シャッター自体に鍵がついていて、久野は出るときも入るときも、わすれず施錠している。車を出し入れする隙に入りこむことは、可能かもしれないが、考えにくい。久野やほかの誰かにみつかる恐れがあるし、よしんば入れたとして、校内の誰にもみつからず知利処をとらえ、さらに出ていく、しかもそれをくりかえすというのは到底、人間業でない。
一応、触ってたしかめたが、鍵は抜かりなく機能している。
あとは体育館だが、これも見込みは少なく思えた。
体育館の西側には玄関がある。行事等の際、開放すれば、外から直接館内へ入れるのである。
しかし、実際、玄関ホールをはさんで二重扉になっているのだ。外側の分厚いガラス扉を通り抜けても、内側の大きな板戸が侵入をはばむ。
板戸はしっかり締まっていた。普段手をかけないから敷居に埃がつもっている。わざわざ開錠して外のガラス扉をみたが、こちらも風雨にさらされ汚れていたものの錠は下りていた。戸の隅に小さな亀裂が走っているが、割られているわけではない。
館内に戻る。窓にはすべて破損防止のための鉄格子がついている。たとえ鍵があいていても侵入できまい。念のため窓の鍵も全部調べ、格子が外れるところがないのも確認する。異常はない。
ほかに西側玄関とは別に、外と行き来できる戸口が四ヶ所ある。小さな明かり取りのついた鉄製のドアで、金具に鉄の棒を通し、南京錠でかためるという古風だが頑丈なものである。さびついていてふれるとうるさいし、もれなく内鍵なので、このドアをやぶるにはかなりの労力がいる。この錠前にはマスターキーも通用しないのだ。
案の定、問題はなかった。
清心は息をつき、マスターキーを指先でもてあそんだ。
どういうことだろう。
そもそも、体育館で間違いが起こったとは、清心はほとんど考えていない。廊下との出入り口は開きっ放しだし、構造上、音が反響しやすいから、場合によっては廊下どころか南北校舎までつたわってしまう。かといって二つの出入り口を締め切ると、いくら静かにしめたとしても、誰かが通りかかったら不自然だと気づいてしまう。
第一、そんなところで踊れないだろう。
どこか見落としがあったのだろうか。いままでチェックしてきた中で。
それとも一階だけでなく、二階以上も問題にするべきか。そんなアクロバティクスも考慮しなければいけないのか。
そういえば給食室の勝手口がゆるんでいた。慣れた場所だから気を抜きがちだが、そういうところを疑うべきなのか。
考え考え、体育館を後にする。
はなから校内ではなかったということもありうる。知利処がみだりに外に出るとは思えないが、何か理由があったのかもしれない。校内だったと明言していたわけではない。
廊下をすすむうち、何かが視野の端にひっかかった。
清心は足をとめた。
空が西日で赤く輝いている。それまでほとんど無意識に南へ向かっていた。
窓の外に体育館の外壁と、ぽつんと植えられたクヌギとその下生えがみえる。
左手の離れたところに、強い光を背にうけて、黒くしずむ四角い建物がある。
南校舎の西というより、グラウンドの北西にあたっている。
体育用具倉庫。
……まさかと、清心は思う。
校内といえば、校内だろうか。外ではないという気がする。
マスターキーでおそらくあくだろう。否、あける必要があるのであれば、疑いは元から小さい。
屋外用の道具倉庫である。いつ以来かしらないが、清心はきてからこの方、無縁だ。
えたいがしれない。
正直、気はすすまない。
しかし目が離せない。
何のための点検だと、清心は自身にいいきかせる。不安をはらすためである。後込みする気分をおさえて横目で廊下のガラス戸をさがす。
勇を鼓して鍵をあけ、後ろ手に戸をしめる。早く戻ろうときめる。
内履きのまま草地に降りた。キーを握りしめ、まっすぐ倉庫の入り口をめざした。
東向きの壁に、用具を出し入れするためのシャッターと、通用口がついている。東面の幅は三メートルもないだろう。他の面も大差ないはずである。
近くに立つと日陰にすっぽり覆われた。足もとは雑草がしげっているが、精々、膝にとどくくらいである。日射は十分、下は土で、誰も手入れしない場所にしては、少ない。
いやな予感を後押しされて、清心は独り顔をしかめる。
一応、シャッターを持ちあげてみる。音をたててゆれるばかりである。
かすかな期待をいだいて、左手のドアに向かった。
金属のノブにふれ、力をこめ、ひねった。
カチリと音がして奥へすべった。あけた手の意気込みを、まるで迷惑だといわんばかりに、素直に。
ドアがひらいて、薄暮ににじむ小屋の中が目に映った。
清心は外に立ったまま、息を殺して屋内に視線を走らせた。
左右の壁の、清心の頭の高さほどに小さな窓がある。明かり取りなのだろう。くもりガラスで、しめきられ、鍵がかかっている。透かして入る赤は淡く、闇になる前のうす青い光が水底のようにぼんやり中をうかびあがらせている。
狭い内部に人の気配はない。
一、二歩踏み入る。
床のコンクリートは、シャッター付近が僅かに傾斜している。床面のみえる部分は全体、白っぽい。ライン引きに使う石灰がこぼれて掃かれたようである。枯山水の砂地みたいに、均一な細い筋がえがかれている。
内部は意外に奥行きがある。正面の暗がりに目をこらす。綱引き用のロープ、平均台、大玉、玉入れかごなどが置かれている。
北の窓の下方、シャッターそばの片隅に、何かが乱雑にころがっている。
近寄ってみると空き缶だった。白や銀の塗装が目につく。ビールなど、アルコールの缶である。つぶされたり、放り出されたりして小山をなしている。
いくつかは灰皿代わりになって、白や梔子のフィルターと灰があふれている。
その下には黒い染みがある。濃く、遠のくにつれ薄く広がっている。
横倒しの缶のひとつ、飲み口の縁が、きらりと光った。
清心は息をのんだ。
後ろをふりかえる。南の窓辺は雑然としている。箒や塵取り、とぐろを巻いたホース、藁むしろ。
……床に広がったむしろが、ところどころほつれ、破れ、汚れた、真ん中辺りが、ちょっと縒れている。
ついいましがたまで、誰かがいたみたいに。
立ちすくんだ。動けなかった。こわばる体とは反対に、目が勝手に痕跡を追った。
酒の缶の山、吸殻、水が流れた茶色の跡。
缶のへりにたまった液が乾ききっていない。
粗末な敷物。日が傾くにつれ汚れはみづらくなる。
ドアには鍵がかかっていない。
これらが証拠だ。
ここだ。
――胃がむかむかした。清心は倉庫を飛び出し、逃げるように校舎へ駆けた。
夕飯と夜のミーティングをどう過ごしたのか、おぼえていない。浴室を出、廊下に立って、中庭をはさんだ北校舎をみわたした。
視聴覚室の明かりは消えている。久野は私室にいるのだろう。部屋へ戻ろうとあるきだすと、すぐ背後で硬い小さな音がひびいた。
かえりみる。マスターキーだと気づいて、あわててひろう。かかえている着替えのポケットに入れたままだったのだ。
清心は腰を曲げた姿勢で、しばらく動きをとめた。
手の中の鍵を握る。
金属と、それに付いた丸いプレートのプラスチックの感触がする。
マスターキーだ。この鍵があればどこでも入れるのだ。
所定の位置に戻した方がいい。なくしでもしたら大変だ。
元の場所、すなわち、久野のいる宿直室へ。
清心は上体を起こし、ぐずぐずとその場にとどまった。
迷う理由はないはずだが、会いたくなかった。
先のミーティングで久野に何をいわれたか、思いだせない。しかし自分が何もいわなかったことだけは確かだと思える。
必要以上のことも、必要最低限のこともである。
それを不審がらない人ではない。
問いただされて、うまくごまかしとおせる自信がない。
ごまかしが善い結果をうまないとわかっているから、なおさらである。
でも、一体、何とつたえるべきなのだろう。
考えようとすると、頭が重たくなる気がした。夕刻みたあの小屋の、暗い光景がよみがえってくる。
知利処の体に残った痕。関節近くについた痣。
あの倉庫が本当に現場だとしたら。
――あんなのは、むごい。
とてもでないが、話せる状態ではない。清心は口を押さえ、かたく目を瞑った。
だめだ。気持ちの整理というよりは、せめてあのなまなましさが薄らいでからでなくては。
ともあれ、マスターキーはかえそう。これは借りだした清心の義務である。
どのみち、浴室が空いたことをしらせなければならない。
久野に何かきかれたら、まだいえないと答える。それで逃してもらうほかない。
当面の予定だけ立て、清心は重い足取りで東校舎一階へ降りた。非常灯の二、三ともる廊下の丁度中ほど、暗闇にもれでる黄色い光をめざした。
宿直室のドアをたたくと、中から返事があった。廊下に面したドアは金属製で、あけると中に上がり口と襖の引き戸がある。襖はあいていて、和室にすわりこんだ久野の姿がみえた。
四畳半は古い蛍光灯に照らされている。久野が清心をみとめ、表情をやわらげた。
清心は言葉につまった。
「どうしたの?」
久野は手にしていた本を置き、上がり口まで出てくる。咄嗟にしりぞこうとした足を、ようよう清心はとどめた。
用件を思いだす。
「お風呂、あきました」
「あぁ、ありがとう」
「あと、マスターキー、かえします。ありがとうございました」
そうかと頷いて、久野は清心がさしだした鍵を手のひらに受けた。
それじゃと清心がいう前に、口をひらいた。
「異常はなかった?」
一瞬、肩がふるえた。
しまったと清心は思った。
ただでさえ不審がられているはずだ。
久野の問いは真っ当である。答えるべきだろう。
どこまでか。
点検の報告くらい、するべきかもしれない。校舎内には不審な点はなかった。それでいいだろうか。
「何かあったの?」
久野はサンダルをつっかけ、目の前に立っている。いつの間に下りてきたのだろう。清心はいまさら不思議に感じる。
「え、いえ……校内に異常はありませんでした」
そうと応じてからも、久野はそばを離れない。
「清心さん」
何かいっている。
呼ばれたのだとわかって、清心はいそいで応える。
「はい」
「大丈夫? 真っ青だよ」
指摘されても、言葉をかえせない。
会話に集中できない。
頭の中がいそがしい。さっき自分が口にした言葉の意味を、反芻している。
そう、四方の校舎に異常はなかった。
「湯当たりしちゃった? ちょっと、すわって御覧」
あの倉庫は校舎とはつながっていない。
そうだとすると――。
上がり口にすわらされ、隣には久野が腰かけた。入り口のドアはとざされている。
不意に怖気がはしって、清心は久野の片腕にとりついた。
久野の手が背中にふれる。横になるときかれ、反射的に首を左右にふる。
つかまっていないと、頭がおかしくなりそうだ。
……言うのは裏切りだという気がする。
でも、絶対に、清心一人の手には負えない。
「どうしたの?」
長い無言の後、久野はささやくように問う。
答える前に、清心はもう一度、鉄のドアがしまっているのをみた。
唾をのみこむ。
異常の報告だけは、ぎりぎり、ゆるされる範囲だと思えた。
「グラウンドの」
「うん」
「用具倉庫が、締まっていませんでした」
あぁと、久野は低く相槌を打った。
「それで?」
声は優しいが、言葉のえらびかたに容赦がない。
なんてひとだと清心は思う。
「中に、ビールの空き缶と吸い殻が沢山……誰か出入りしているようです」
久野はしばらく応えなかった。
この間に何をさとられているのか、清心にはそら恐ろしい。
「そうか。わかった。明日確認してみよう。鍵はかけてきた?」
はじめて気がついて、清心は頭をふった。
あまりはっきりおぼえていない。ドアをしめたかどうかさえ曖昧である。
「そっか。うん……いいよ、その方がいい」
その方が?
慰めにしてはそぐわない言葉だった。
まさか、確認するとき鍵が要らないから便利だとでもいう意味だろうか。久野ともあろう人が。
そんなはずはないと思うが、どうも思考がまとまらない。
久野はもっと大事なことをいっている。直感で、清心はそれを信じている。
また無言が続いた。
いえる限りの報告は終えた。このまま、切り上げればいいのだ。清心が安堵しかけたとき、次の問いがあった。
「どうして、見回りする気になったの?」
……塵ひとつ隠し立てできない。
清心は身を起こし、自力で上体をささえた。
久野の手が気遣うように肩をかすめるが、やんわりとそれを遠ざける。
これ以上は埒外だ。
いうのは、きっととてもひどいことだ。
でも清心の手には負えない。
久野の手を借りなければならない。
久野ならうまくやるかもしれない。
どうすればいいか、わからないのだ。
「清心さん?」
「……ここだけの、話にしてください」
しぼりだした声は、沈鬱だった。
うんと肯く久野のシャツの袖をみ、清心は目をふせた。
ひどいことをしている。
あの痣が、まぶたの裏に鮮明にうかんだ。
あんなこと、あってはならない。
声を一層低め、清心は少しずつ解く。
「知利処の、手や足に、乱暴の跡が……それで、知利処にきいても、おびえていて喋れないようなんです」
久野の気配が緊張するのを、清心は額の向こうに知覚した。
「詳しいことを、まだ言える状態ではないので……せめて戸締りだけでも確かめようと思って」
酷な言葉がすらすら出てくる。なんてことだと自虐したくなる。
久野にしられたとしったら、知利処は傷つくだろう。
回避しなければならない。たとえ、遠くない未来のことだとしても、できるかぎり先延ばしにしなければならない。
これは疑いなく清心の罪である。
「知利処には何もきかないでください。いつも通りに、していてあげてください。わたしだけが、偶然みてしまったんです。知利処は、言えるようになったら言うって、わたしに約束してくれました。だから……」
「……知り合いのしわざかもしれないと、思ってるんだね」
違うと、感情をふくまない軽い声音で問われて、清心は呼吸をわすれた。
ゆっくりと久野をみあげる。久野は一見、冷静な表情で、黒い眼が悲しそうな、憐れむような、それでいて底のない色をしている。
和室の黄色の光が、横合いから奇妙な影をつくっている。
「どうして」
なぜわかるのだろう。清心は呆然としてきいた。
ふと、己の首筋の辺りによぎった不安を、とらえられなかった。
知利処をかばう言葉しか、口に出していなかったのに、どうして。
「言ってたでしょう? 校内に異常はなかったって」
それだけで。
それだけで?
まだ納得のいかない清心の様子を読みとり、久野はさらにことわる。
「外から侵入されたんじゃなければ、知利処が自分で出ていった可能性がある。その上、誰なのかしゃべらないのは、言えない相手だからかもしれない。そう考えられる」
淡々と口にのせ、顔色は暗くしずんでいく。
このひとの賢さは不幸だ。
清心は久野のこちらがわの手をとった。
「わたしが悪いんです」
強くいうと、久野はおどろいて清心をみかえす。
「どうして?」
「わたしが悪いんです。いままで、あの子にたよりすぎてました。ほかの子たちの世話も、まかせっきりで、うまくいってると思いこんでた。あの子は頭がいい。落ち着いてるし、間違ったこともしない。そう思って」
清心は必死で息をついだ。もはや何をいおうとしているのか、自分でもよくわからない。それでもいわねばならない。
「――買いかぶってたんです。いえ、そうじゃない、期待しすぎてたんです。わたしの、怠慢です。あの子……知利処だって、まだ十一にもならない――」
急に気道がすぼまったのか、しゃべるのがままならなくなった。
「……放り出してたんです。あの子に、教えることを。教えなきゃならなかった。そのために、わたしが……そのためにここに」
みちびいてあげなさい。
父の教えの意味が、ようやく、遅すぎるいま、実感される。
おこたったのだ。
危険はどこにでもある。
読書でまなべないことも、山ほど。
それを教えるのが、清心の役目であったのだ。
涙が下まぶたにせりあげて、ぼろぼろと落ちた。
まただ。
また――否、今度はもっとまずい。
すくえる立場にいたのだ。
それなのに取り落としたのだ、みずから。
うちとけていない、心をゆるされていない、強いて踏みいるわけにはいかない。的外れな心配ばかりして、また結局すくえなかった。
人を救う。おこがましい。
それでも、すくいたかったのだ。
すくいたいと思うことすらいけないのだろうか?
ききたい。
きくべき相手は、もうなくしてしまった。
「わたし、あの子に、何を……」
なんてことをしたのだろう。
「何よりも、大事に……いて、ほしかったのに」
たすけられるのは、清心をおいてほかにいなかったのに。
「……っられなかった……!」
何をいっているのか、もうわからない。
久野の手が、やおら清心の手から抜け出し、この手の甲に重なった。
感情の波濤にたえきれず、清心は深くうなだれ、額を久野の腕にもたせる。
ゆるしてとくりかえす。脳裏で雨霰の懺悔をする。
ゆるして。
このひとに、嘘はつけない。




