スプーン一杯のリモンチェッロとレードル一杯のミネストローネ
「紅の秋」企画参加作品です。
パルコ、ほぼ初めてのファンタジー作品でございます。
後半は勢いで書いております。
月も見えない永遠の夜。だだっ広い洋館の隅で分厚い本を読んでいたアウジリオは、堂々としたヒールの音に顔を上げた。
「よう」
「あら」
アウジリオを振り返った女、リアは今さっき気づいたように声を零した。
アウジリオは自分の側に置いていたグラスからきらきら輝く紅色のキューブを口に入れた。甘いシロップのような味ともっちりした食感を真顔で楽しむ。リアはそれを眉を顰めて見ていた。
「ん? 食う?」
「いらない。あたしそういうの好きじゃないの」
「ふーん、街で盗みやってたかわいいバンビーノの血なのに」
宝石のような血のゼリーを摘まんで見つめるアウジリオにリアはありったけの嫌悪感を込めて「ペド野郎」と吐き捨てた。
「人間に媚びて残飯貪ってるやつよりマシじゃねぇの?」
アウジリオの嫌味にリアは何も言わなかった。ただ自分が持っている墨の川を靡かせ、苛立たしげにヒール音を立ててアウジリオから離れていった。
この館で最古参の吸血鬼だったアンナリーザがハンターに殺されて、リアがこの館に来たのはコイツが吸血鬼の中でも階級が高くて、十字架も陽の光も効かない異端ともいえるヤツだからだ。アンナリーザはリアが来ることを予見してたのか「もし館に仲間の女の子が来たら面倒を見てあげて」と俺に兄貴役を任せて館を出て行って、そして殺された。
アイツはあくまで血を抜かれて死んでいく人間を見るのが好きで、血を食料として見ていない。俺の好物を否定するし人間の真似事をして動物の肉や果物を食って生活してるから圧倒的に価値観が違う。だが彼女に任されたとはいえ、妹分が飢え死ぬんじゃないかと心配もしている。アンナリーザのように上手く決まらなくて、自然すぎるくらいに舌打ちが出た。
街からかなり離れた田舎に、あの人が住んでいる。こぢんまりとした家は誰も住んでいない地域にポツンと寂しそうに佇んている。
「おかえり、チカコ」
ドアを開けた彼の目皺が深くなった。彼は私に会ってから、現世にいない妻のいる夢を見始めた。
「……ただいま、あなた」
「今日はミネストローネにしたんだ。今日は寒いからね」
「ミネストローネ? 大好き」
暖炉もない小さな家にあがった。
アウジリオ曰く、私は乞食らしい。
吸血鬼の主食ともいえる人の血を吸わず、行き倒れた私を彼―――カルロが見つけてくれた。カルロは70年近く生きた人間で、決して裕福ではなくむしろ切り詰めた生活をしているようだった。
「何か手伝うことは?」
「いや、いいんだ。チカコは座っていてくれ」
「でもあなた足が辛そうだわ。それにちゃんと眠れてるの?」
「うん……けど今日は君がいるから安心して眠れそうだよ」
カルロは小さな歩幅で、狭いキッチンを歩き回っている。
ここに来た理由なんて取るに足らない。ただ、吸血鬼を死んだ妻に見立てて随分と幸せそうにしたものだから少しの間からかってやるつもりだった。
あの時、カルロは私を見て名前を呼んだ。
『チカコ! ああ、チカコ……!』
『え……?』
『なんてことだ、こんなに窶れてしまって……』
さあ家に入ろう、これから夕飯にするんだ。全く誰なんだ「チカコが強盗に襲われて殺された」なんて笑えない冗談を言ったのは。
私はそんな名前じゃない。ましてや人間でもないんだ。それを言う前に手を引かれてしまった。
ミネストローネは、あの時も出してくれた。レードルに一杯、スープ皿に注がれて湯気を立てている。
「いただきます」
「ああ、おあがり」
オレンジ色のスープを口に運ぶ。舌が温かい。
「美味しい」
味はわからない。でも美味しいミネストローネだった。ベッドテーブルにポツンと立った写真に目を向ける。
「笑い方が似てるのかな……?」
「? どうしたんだいチカコ?」
「ううん、なんでもないわ。あなた」
本物のチカコは、モノクロの世界で、ボートのような口で笑っている。
月が見えない空の下、アウジリオはテラスで水タバコを吸っていた。煙突のように厚い煙を口から吐くと、後ろに立つリアを振り向かずに声をかけた。
「あの耄碌した人間はどうしたんだ?」
リアはアウジリオの声を気に入っている。純度の高いチョコレートのような、パキッと苦甘い声は聴覚の暴力とさえ思う。きっと色事を知らない少年たちは耳を溶かされて、まんまとこの吸血鬼の餌になってしまったに違いない。
リアは華奢なテラスチェアを引いてアウジリオから離れて座った。
「あたたかいリモナータを飲んだからぐっすりよ」
肩をすくめてリアが言った。
「リモンチェッロを少しだけ入れたの。だから身体を温めるのはお湯じゃなくてウォッカ。……少し熱いくらいに体温が上がるのは…………きっと人間の番が抱き合った温もりに似てる。普通のリモナータよりも、彼はそっちの方が安心するのよ」
つらつらと語るリアに「ワリーオンナ」とアウジリオは心底嫌そうな顔をした。
「どっちがよ」
「なんか言ったか?」
「いいえーアウジリオ兄さぁん」
リアは話を逸らして白を切った。リアは眠らせるために魔力を使ったくせにリモナータのせいにした。この異端児が詩的な何かを並べて優等生ぶっている姿に、アウジリオは混乱した。まあ、自分も女の血は吸わず、世に生を受けて十数年の少年の血ばかりに食指が動く時点でかなり異端ではあるが。
風が、アウジリオの白銀の前髪とリアの黒く長い横髪を煽った。石で木の幹を掻いたように18と刻まれた額が露わになってもアウジリオは何も気にしなかった。
「それより、豚どもはもうここに入ったの?」
リアは髪をかきあげて気取るように息を含んだ声で訊ねた。
この館に棲む吸血鬼は美しい顔貌で人間を誘惑し、森に引き寄せて吸血する。しかし、狙うのはただの人間ではなく、犯罪を犯した者や理不尽に財を搾り取る悪徳な首長ばかりだった。大した理由はない。2人はただ、アンナリーザの矜持を継いでいるだけだ。
アウジリオはマブサムを静かに置くとリアを振り向いた。
「お前自分でやっといて知らねえの? もう奥の部屋で眠ってたぞ」
終わったらちゃんと掃除しろよ、と平然と水タバコを片付けるアウジリオの言葉に目を丸くした。
「あたしがやるの?」
「俺はね、目がぎらついた可愛い~バンビーノの血しか飲めないんだよ」
「はいはい、じゃあ貧乏舌のあたしが行ってくる」
リアは自虐と嫌味を混ぜたような口調で言った。
今夜は豚どもの命乞いとリアの高笑いを背景音楽にしながら楽しもう。今夜はどうするか。先週ベーコンにした豚夫婦の息子の血にするかな。親は醜かったが、あの子は美しい男だった。白い肌はなめらかで、ペリドットのような瞳と朱色の髪は戦場の騎士のように輝いていた。
保存庫から出したボトルに軽くキスを落としてグラスに注ぐ。全てを染め上げてしまうような重たい赤色の体液。光にあてても透きとおることのない、この色が好きだ。舌先で舐めると脂肪味が広がる。貧民街から出て来た少年の血とはまた違う味で面白かった。
食堂の窓から外を眺めていると、人影が見えた。
「誰だ……?」
新参者か、あるいはリアの新しいおもちゃか―――
「!? ……っ!」
眩暈が酷い。頭が重い。突然のことに戸惑いながらゆっくり視線を上げ、改めてその人影を見ると、黒い姿の胸元に十字架が下げられていた。
ハンターに見つかった。
長い廊下を走り抜ける。もしかして嗅ぎつけられたのか!? いや、ハンターとはいえ人間がここに辿り着くのはおかしい。この森は奥に入れば位置を把握するための道具は狂うようになっている。魔力は落ちていない筈なのに。
洋館の重い扉を開けた。目の前にあるのは、生い茂る木と水が出ない噴水だけだった。気のせいだったのか……?
ア゛ア゛アアアアアアア!!!!
甲高い断末魔。
「!?」
急いで館の中に戻る。ブーツが重い。バタバタ羽ばたく蝙蝠が鬱陶しい。リアは奥にある血抜き部屋で悪徳商人たちをいたぶっているはずだ。リアが誘い込んだやつらの中に女はいただろうか? 今だけは血抜き部屋までの長い距離が憎い。
「リア……」
この距離を駆け抜けるのはさすがに息が切れた。バンビーノたちを捕まえるときもこんなに体力を消耗することはなかっただろう。
「ふぅ……」
大丈夫だ。この扉を開ければ顔に人の血をべったりつけたいつもの楽しげなリアがいる。
アウジリオはこの館で一番重い、血抜き部屋の扉に手をかけた。ギイイと音を立てて部屋が現れる。脂臭い血の臭いが襲い来る。
「リア?」
しかし、そこにリアはいなかった。あるのは血を抜かれて生き物ではなくなったいくつかの肉塊と、アウジリオが一番気に入っている透明感のない赤色だけだった。
う゛っ……かはっ……!
声が聞こえた。この部屋の外からだ。アウジリオは裏庭に通じる血抜き部屋の扉を開けた。
裏庭は花どころか雑草一つない。アウジリオの目には、黒ずくめの小柄な人影。足音を立てずに歩こうと努めるもブーツが小石を擦る。
「ああ、アウジリオ」
掠れた男の声がアウジリオの足を止めた。男はアウジリオを振り向いた。背筋が伸びていて、白髪を撫でつけた老人だった。老人の胸元には十字架、右手はリアの首にかかっていた。
俺は飛びかかってリアの首にかかっていた右手を弾いた。男は不愉快そうな顔をして右手を払った。リアは呼吸がまともに出来なかったのか目が虚ろで、男の足元にはスプーンが落ちていた。リアは首に銀製のスプーンを当てられていたんだろう。
男が口端を上げた。
「弱点を目にしても気丈なのは流石だなアウジリオ。アンナリーザが死に際に自慢していただけある」
「はっ…! アンナリーザといい、女を嬲るのが趣味かよ」
イイ趣味してんな色欲ジジイ。見つけたなら一発で殺せばいい。このジジイみたいに腕の立つやつなら出来るだろ。それをじわじわ苛め抜いて殺すのか。
さっきから息がまともに出来ない。魔力を持っているとはいえ、俺は普通の吸血鬼だ。十字架から目を逸らしながらリアを支えることしか出来ない。
「リア、起きれるか?」
小さく首を振ったリアに「そっか、わかった」とそのままリアの頭を支える。
「吸血鬼とはいえ女性をいたぶるなど、そんな残酷なことはしないさ。ただ、私は彼女に訊きたいことがあったんだよ。それなのにベラベラ喋り出すから少し静かにしてもらおうとね」
「は? 訊きたいこと?」
「ああ」
なぁリア、
「ミネストローネはどんな味がした?」
綺麗な声が、頭の中に響いた。もう随分昔に死んだ弟分が、勝手に館を飛び出した時のこと。
『アウジリオ。見ていたなら止めなさいよ』
『止めたよ』
『あなたは止め方が弱すぎるのよ。もう少し遅かったらハンターに見つかるところだったわ』
ああ、貴女の言うとおりだアンナリーザ。
俺はいつだって、止め方が弱すぎる。
ありがとうございました。
続きを書くことも考えましたが元気がなくなりました……。