-9- 秘めたる想いは
「遅いぞ、ベル」
「ちょっと迷子になっちゃって」
ベルナデットの本気がどの程度か、ユマは知らなかった。しかし今このとき、彼女はそれに近いものを出したように思えた。
一瞬無風が訪れたあと、ベルナデットを中心とした狭い円の範囲に、炎の壁が噴き上がった。超高温を発しながら回転をはじめたそれはすぐに暴風となり、群衆を焼き尽くしながら天高くまで昇る竜巻となった。スミレ色の灼熱の中で、人影が黒い粒子に分解され、消滅していくのが見えた。
ユマとトーレスがそれに圧倒されている隙に、サルファはするりと噴水まで到達し、リリイを水の中から助け出した。それに気づいたトーレスが、サルファに刃を向ける。
「こっちだ!」
トーレスの注意が逸れるのと同時に、ユマが躍りかかる。杖とそこから迸った電撃に肩を打たれ、トーレスは苦痛に呻いた。それでも踏みとどまり、剣を横薙ぎにして杖を振り払う。そして憤怒を感じさせる形相でユマを睨み、襲い掛かってきた。
そこからの攻撃は激しかった。最初の一刀で両断されていてもおかしくなかった。ユマがそうならなかったのは、防いだ杖が衝撃で雷を生じ、自動的にショックと損傷を与えたからだ。
しかし度重なる痛みを与えられてなお、トーレスは食い下がった。騎士の息子らしい正統な、そして力強い剣に晒されたユマは、致命傷を避けるのが精一杯だった。しかし全てを防御することは叶わず、二度三度と傷を負った。どれほどの深手なのかを確認する余裕はなかった。
もしこのときユマが冷静であれば、サルファやベルナデットの援護がないのを不思議に思っただろう。しかし興奮し、攻撃に晒されている状態で、そこまで考えることはできなかった。
決着までの時間は、それほど長くなかった。あるタイミングで大雑把になった一撃をしゃがんで躱したユマは、相手の膝を杖で突いた。
一瞬、トーレスの脚が萎える。
彼が体勢を整える前に、ユマは残った力を振り絞って彼に体当たりを食らわせた。二人はバランスを崩して転がったが、ユマはなんとか馬乗りになってトーレスを抑えつけた。
全身が熱かった。特に肺は焼けるようだ。腕の力もほとんど残っていない。ただそれは、相手もおおむね同じような有様だった。
ユマは再び杖を生成した。これをトーレスの顔に突き立てれば、勝負は決まる。
しかし、それが本当に正しいのだろうか? ここに来てユマは戸惑いを覚えた。
「――呑まれてはいけない」
気づけば、サルファが噴水の縁に腰かけていた。水を吸った黒いローブが、ずっしりと重く垂れ下がっている。その横ではベルナデットに支えられたリリイが、目を閉じたまま座っていた。
「この場合、彼を排除するだけで、病が治癒することはないだろう」
「どういう、事ですか」
ユマは肩で息をしながら言った。組み伏せられているトーレスは少しの間抵抗していたが、すぐに抵抗の意思を失い、固く目を閉じたままぐったりとした。
「眠り病の原因についての話だ」
「姉さんは、結婚が嫌なんじゃ?」
「望まない結婚をする人間はこの世にごまんといるさ。しかしその多くは自分にかかる期待や役割を受け入れ、しぶしぶであってもそれを承諾する。眠り病になることはないわけだ。しかしリリイの場合は違う。彼女は決してトーレスを嫌っているわけではない。むしろ好ましいと思っている」
サルファはユマに語りかけていたが、半ばリリイに囁くようにもしていた。彼女にも話を聞かせたいようだったが、今のところ反応はなかった。
「なら、どうして」
「素晴らしい、望まれた婚姻。しかし彼女がそれを選んだ場合、切り捨てなければならないものがあった」
「姉さんには、他にも好きな人がいた?」
ユマが言うと、サルファはなぜか非常に満足そうな顔をした。
「やはり君は賢い」
「でも、僕に心当たりはありません」
「例えばの話、家にいる使用人とか、近所の幼馴染とか、よく顔を合わせる兵士とか、あるいは家格の釣り合わない旅の芸人とか、リリイがそういう人間に恋をしているのであれば、まだしも事態はややこしくない。周囲の人間も、許すかどうかは別として納得し、場合によっては同情してくれるだろう」
饒舌に話すサルファの、髪に隠れた左眼がきらりと光る。彼の姿は内なる欲望を囁き、人間を唆す悪魔のようにも見えた。
「しかし、それ以上に許されざる相手に恋をしてしまったなら?」
「なにを言ってるのか分かりません」
「ユマ、君はこの夢の中で気づかなかったのか? それとも、君自身も考えないようにしているのか?」
サルファの表情に凄絶さが加わる。ユマは不安を通り越して、恐怖を感じ始めた。
「兄ではなく、君がピルムまでついてきたのはなぜだ? はじめての夢幻世界で、君がこれほどまでに影響力を行使できるのはなぜだ? 今まで通ってきた場所が、君との想い出から創られているのはなぜだ?」
ユマはその先を聞きたくなかった。しかし耳を塞いだところで、サルファが語るのは止められない。
「リリイが恋しているのは君だよ。ユマ」
予期していた言葉だった。しかしそれでも、ユマは大槌で頭を打たれたような気分になった。
「……そんな。だって僕は、実の弟なのに」
「だからこそさ。少なくとも、今の常識では許されざる恋だ。リリイ自身もそれは間違っていると考えていた。だから心の奥底に秘めた。そうすれば当面は安全。ユマとは普通の姉弟でいられる」
「……」
「しかし最近になって縁談が舞い込んだ。条件は申し分なく、断る理由はない。自分から見ても、トーレスは十分以上に魅力的だった。この男性と結婚出来れば、きっと幸福になれるだろう。ごまかしではなく、そう信じた。
けどね、秘めた想いは自然に消えたりしないんだ。結婚という人生の岐路に立ったとき、君への恋心は封印を破り、心の奥底から這い出してきた。それはずっとそこに在って、いつか再び認められることを望んでいたんだ」
「もうやめてください」
ユマは懇願するように言ったが、サルファはきっぱりとそれを却下した。
「いや、やめないね。これは必要なことなんだ」
もはやサルファを制止することは不可能だった。ユマは項垂れ、彼の言葉を受け入れるしかなかった。
「これがもっと他愛無い問題ならば、彼女は弟に相談しただろう。でも、もちろんそうはできない。なぜなら彼女が恋をしていたのは、まさにその弟だったからだ。誰にも言うことはできない。彼女は自分一人で、どうしようもなく湧き出し、膨張し続けるその想いと対峙しなくてはならなかった。
再び抑え込むのはもはや不可能。しかし認めてしまえば身の破滅だ。彼女は引き裂かれるような苦痛を味わっただろう。その耐え難い苦しみが夢の核を作り、この夢幻世界を創った。彼女に逃げ場所を用意したんだ。そして彼女は眠った。苦痛から逃れるため、覚めない眠りに落ちるしかなかった」
サルファが語ったことと、それを聞いて感じたことが、頭の中でぐちゃぐちゃに混じり合って地獄のようだった。ユマは混乱し、ショックを受け、しばらく茫然自失だった。
それが多少なりともおさまったとき、リリイの苦しんでいた原因が自分にあるのだという考えが、思考の大半を占めていた。もはやトーレスのことは完全に意識から締め出されていた。
「それじゃあ、姉さんは、僕のせいで……」
「誰が悪いというわけでもないさ。ただ起こるべきことが起こったというだけだ。だけどそれは確かに病であり、僕はその治癒を目指す者だ。
だから夢の作業をおこなった。そして夢の作業の目的は、苦しみを取り除くことではない。むしろその人間が自らの内にある苦しみを認め、正しく苦しめるようにすることだ」
「……」
「言い換えれば、死に向かう夢幻世界での安らかな眠りから、苦しみ多き物質世界での人生を、再び歩んでもらうということだ。リリイ、君は」
サルファはリリイの耳元に口を寄せ、一層低い声で囁いた。
「ユマを愛しながら、トーレスの妻になるんだ。その苦しみを抱えて生きていくんだ。さあ、目を開けて」
そう呼びかけられると、リリイにわずかな反応があった。それまでベルナデットに支えられていた身体に力が戻り、閉じられていた目蓋がゆっくりと開かれた。栗色の瞳に光が宿り、ユマをはっきりと見つめた。
「姉さん」
ユマは立ち上がり、リリイのもとに歩み寄った。彼女もまた噴水から立ち上がった。その双眸からは涙が溢れて、赤みの戻った頬を伝っていた。
「ごめん、姉さん、僕はなにも……」
なんと言葉をかけていいのか分からなかった。言葉は不要なのかもしれなかった。二人はそのまま固く抱き合ってお互いの存在を確かめた。
「どうか、幸せになって」
ユマはリリイの濡れた身体から、確かな温かさを、力強い命の熱を感じた。
「ありがとう」
リリイは小さな声で、しかしはっきりと言った。
「大好きよ、ユマ。あなたを愛してる」
最後の言葉が彼女の口から紡がれるのと同時に、情景のすべてが白く煙りはじめた。それはユマが夢幻世界にやってきたときと同じ、乳のように滑らかで濃い霧によるものだった。
ああ、夢が終わるのだな、とユマは直感した。辺りの風景が見えなくなり、サルファとベルナデットの姿が見えなくなった。肌で感じていたリリイの体温もやがて曖昧になっていき、ユマの意識はまた柔らかな混沌の中に吸い込まれた。