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ユマと夢幻の治癒師  作者: 黒崎江治
8/10

-8- 対峙

 落ちる――


 恐怖で全身が総毛立ち、時間の感覚がどろりと鈍化する。物質世界と同じく働く重力によって、ユマの身体は抗いようもなく傾いていく。


「ユマ!」


 リリイの声が聞こえたが、その残響もすぐに遠くなった。


 ここは何階分の高さだろう。六階? 七階? 頭から落ちなかったとしても、死は免れないだろう。


 あるいは夢幻世界での死なら、なんとか発狂するだけで済むかもしれない。二、三度瞬きする間、ユマの頭に様々な思いが駆け巡った。


 それが諦めに変わる直前、身体をなにかが絡めとった。それはユマの全身を柔らかく包み、網にかかった獲物のように吊り下げた。そのまま勢いよく壁にぶつかったユマは痛みに呻いたが、とにかく地面に叩きつけられるのは避けられたようだった。


「え……?」


 一瞬、なにが起こったのか分からなかった。ユマを救った網は、闇の中で青白く光っている。頭上に目を遣ると、網の根元を掴むサルファの姿が見えた。彼が壁の内側から網を繰り出して、落下するユマを捕まえたのだ。


「おーい。大丈夫か」


 ずるりずるりと引き上げられたユマは、黒い壁に身体をこすりながら四角い窓のような場所から回収された。絡めとられたままのユマが見たのは、蝋燭の灯る石造りの部屋だった。


「あ、ありがとうございます」


 ユマの心臓はまだ痛いほど脈打っていた。彼がいなかったらどうなっていたことか。


「危ないところだったね。よかったよかった」


「なんでこんなところに?」


「早めに到着したから、君たちが追いついてくるのを待ってたんだよ。休んでたら窓の外から音が聞こえて、顔を出してみたら君が落ちてきた」


 どうやら偶然であったらしい。ユマは幸運に感謝しつつ、サルファに尋ねた。


「この場所はもう、終わりに近いんでしょうか。その、眠り病の原因に」


「僕の見立てではそうだね。とにかくベルも先に進んだみたいだし、我々も行こうじゃないか」


 サルファがそう言って指を鳴らすと、ユマに絡まっていた網は細かい粒になって消えた。身体をさすりながら立ち上がり、骨が折れていないことを確認する。ひとまず行動するのに支障はなさそうだ。


 これまでに見てきた場所に比べると、違和感の少ない場所だった。目前には蝋燭の灯りに照らされた木の扉がある。屋外に繋がっているようで、足元の隙間からわずかに光が漏れてきていた。


「……」


 扉自体はどこにでもあるようなものだ。しかしユマは、一旦これを通過すれば二度と引き返すことはできない、と強く意識した。


 それはユマにとって、元の場所に戻れないということ以上の意味を持っていた。知るべきでない事実を知ってしまうかもしれないという不安が、抑えようもなく湧き出した。


 それでもユマは弱気を振り払って把手を握り、扉を押し開けて外への一歩を踏み出した。降り注ぐ光が闇に馴れた眼を苛み、ユマは思わず顔を庇うようにした。


 次いで感じられたのは穏やかに吹く暖かい風と、太陽で熱を持った石畳の匂いだった。鳴り響く笛とラッパの音は、幸福を言祝ことほぐ儀式の調しらべだ。


 目をしばたたかせながら辺りを見る。そこはどうやら街中にある円形広場らしい。商店や公共の施設が、広場を囲むように立ち並んでいる。しかしその軒先に人影は見えない。代わりに広場の中央あたり、噴水の近くに人だかりができていた。音楽もそこから聞こえてくる。


「結婚式だ」


 ユマは言った。


「都会の結婚式は賑やかだねえ」


 人々は噴水の方を向いていて、今のところこちらを見ようともしない。接触するのは良いのか悪いのか、確信を持って判断するのは難しい。しかしこのまま遠巻きに様子を窺い続けても、事態は進展しそうになかった。ユマは緊張でやや胸を詰まらせながら、広場の中心に歩み寄る。


 人々の姿が近づくと、ユマはすぐに違和感を覚えた。音はすれども楽手がくしゅの姿は見えず、人々は騒ぐでも囃すでもなく、ただゆらゆらと左右に揺れているだけだ。


 情景がおかしいのは今更のことだが、なまじ見慣れた風景であるだけに、常識との差異がやけに不気味な印象を生んでいた。


 人垣を作っているのは六十人か七十人といったところだ。すぐ背後までやってきても、こちらに気づく様子はない。


「中心に誰かいるな」


 サルファが言った。ユマは彼より背が低いので、人々の肩越しにそちらの方を見ることができない。なにが起こっているのか詳しく知るには、人を押しのけて進むしかないだろう。


 ユマは人垣の外側に接触し、自分の身体を輪の内側にねじ込んでいった。その際に見た人々の頭には、顔がなかった。目や眉、鼻、口が存在せず、辛うじてその痕跡らしい切れ目や凹凸があるだけだった。


 完全に滑らかならまだしも奇妙なだけで済んだのだろうが、人為的にそぎ落とされ、細かく縫い合わされたようにも見える顔面には、なにか悪意のようなものが込められているような気がした。


 しかし今のところ、抵抗したり、こちらに害をなしてくる様子はない。押されれば押されるまま場所を譲る顔のない人間たちを慎重にかき分けながら、ユマは広場の中心に迫る。背後から同じようにしてサルファもついてきている。


 やがて人垣の向こうに噴水と、近くに佇む人影が見えた。それは飾り紐つきの赤い礼服を着て、腰に剣を帯びた一人の男性だった。


 トーレスだ。リリイの結婚相手となる予定の人物。これが結婚式なら彼がいるのは当然だが、肝心の姉の姿が見えない。


 最後の一人を押しのけて、ユマはトーレスと相対した。彼は大きな反応を示したわけではなかったが、招かれざる客を見る目でユマを見た。


 ユマもまたトーレスを見つめ返したが、すぐに目線はその傍らに吸い寄せられた。白く裾の長いドレスを着たリリイが、噴水の中に倒れている。


 彼女は顔を辛うじて水面の上に出しているだけで、ほとんど全身を水に浸していた。濡れて青白い顔は微動だにせず、完全に意識を失っているように見えた。


「姉さん!」


 ユマは大声で呼びかけながら、彼女のもとに駆け寄ろうとした。それを素早く遮ったのはトーレスだった。長剣の磨き抜かれた刃が、陽光に反射して十字の煌めきを放った。


おれの花嫁になにをする気だ?」


「お前こそ、姉さんになにをしたんだ」


「聞いているのはおれだ」


「僕の質問に答えろ!」


 場に不穏な空気が満ちた。サルファはなにも言わなかった。ユマはトーレスから放たれる粘度の高い殺気を感じたが、自身の内にある怒りでそれに抗っていた。


 しかし刃を押しのけて行こうとすれば、間違いなく背後から斬られるだろう。やむなく三歩下がり、長剣の範囲から外れる。それでもトーレスは切先をユマに突きつけたまま、断固とした態度を崩さなかった。


「お前が姉さんを困らせてるんだな」


 ユマは言った。その指先がバチバチと音を立てて電撃を纏いはじめた。


「それは勘違いというものだ。いつまでも姉離れできないお前にこそ、原因がある」


 相手が生身の人間ではなく、リリイの記憶や思考を核にした夢魔なのは分かっていた。それでもユマは彼を糾弾し、敵意を向けずにはいられなかった。相手もどうやら闘争が不可避であることを悟った様子で、いよいよ本格的に剣を構えた。


 ユマもまた雷光の杖を握ったが、傍から見れば有利不利は明らかだっただろう。トーレスの体格はユマよりも遥かに頑健で力強く、構えは明らかに堂に入っている。幼少より良く鍛えられた、生粋の戦士といった風だった。


 物質世界なら到底勝ち目はない。しかしここは夢幻の支配する世界である。姉を救おうという意思の強さならば、ユマは誰にも負ける気がしなかった。


「ユマ、うしろだ」


 そのとき、サルファの警告が聞こえた。トーレスにばかり気を取られていて、ユマは背後への注意を完全に怠っていた。気づけば顔のない群衆は興奮した様子で蠢き、サルファやユマを押し包もうとしていた。


 トーレスとの挟み撃ちになることを恐れ、ユマの対処が一瞬遅れた。髪の長い女に掴みかかられそうになる直前、頭上からスミレ色の火球が飛来した。


 ぼう、と音がして女の頭が火に包まれる。


「やっと見つけた~」


 上空から現れたベルナデットが火球で群衆を牽制しながら、噴水の近くに着地した。

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