-7- 出口はどこに
二体の巨人が歩き回り、自分とリリイを探している。あまりにぞっとしない状況の中、ユマは口に手を当てて静かな呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けようとしていた。
大丈夫だ。人間が足元のアリをすぐには見つけられないように、あの巨人もきっと、自分たちを簡単に見つけることはできない。
ユマが気を取り直そうとしたとき、首筋に冷たいなにかが触れた。
「うっ」
どこからともなく、腕ほどの太さを持つ触手のようなものが何本も伸びてきて、ユマの首を絞め、手足に絡みついた。思わず声を上げてしまったが、叫ぶのはどうにか我慢できた。目線を落とせば、その黒い触手は粘液で覆われ、わずかな光をヌラヌラと反射している。これも夢魔なのだろうか?
近くに隠れているサルファかベルナデットに助けを求めたいが、巨人はまだ遠くへ行っていない。大声を出せば気づかれてしまう。
躊躇っている間に、触手の一本が伸びてきてユマの口を塞いでしまった。四肢を拘束する力も徐々に強くなる。
恐怖に駆られたユマは思わず身体を前に傾け、背後から伸びてくる触手を力任せに振り切ろうとした。触手たちはそれぞれが大人の腕ほどに力強かったが、掴まる力はそれほどでもないのか、一本一本、ずるりと滑っては解けていった。
しかし顔に絡みついている最後の一つをはぎ取ろうとしたとき、ユマは自分の迂闊さに気づいた。触手の根本――あるいは反対側の先端――にあった棚のバランスを崩してしまったのだ。
対処しようにも既に遅かった。棚はそこに乗っている物品の重さでさらに傾き、床に倒れて大きな音を立てた。
ユマ自身は棚板と棚板の間で無事だったが、周囲には色々なものが取り返しのつかないほどに散乱していた。思いがけず目にしたそれは、ユマの想像を遥かに超えて奇怪で、悍ましい光景だった。
陶器の壺や古びた木箱に入っていたのは、どろりとした半固形の生臭い液体、切断された手足のようなもの、人間の目玉や、歯の混ざった大量の髪の毛などだった。そのどれもが、ついさっき人間からもぎ取ってきたかような瑞々しさを保っていた。
「――うわぁっ!」
ユマは思わず叫び声を上げてしまった。慌てて口を押えたときには、もう遅かった。
「……そおおおぉぉぉぉおおこおおおおぉぉぉかあああぁぁぁああ!」
巨人の声が響いた。まずい。身を隠さなくては。
しかしユマにその時間は与えられなかった。グロテスクな瓦礫に阻まれているうちに、途方もなく大きな手で全身を掴まれた。抵抗虚しく高い場所まで持ち上げられる。
ユマは握り拳の中に閉じ込められたまま、太い指の間から覗く巨大な目と対峙した。瞳の直径だけでも、人間の背丈と同じほどの大きさがある。それは辺りを覆う闇よりもなお暗い、淵を思わせる光沢のない黒色だった。
「んぬぅぅぅぅううううううう!」
突然巨人が叫んで、身体を激しく揺さぶった。拳の内側で転がるユマは、遥か下の方に、スミレ色と青白の光が瞬くのを見た。サルファとベルナデットが巨人を攻撃しているのかもしれない。
しかし二、三度巨人が地団駄を踏むと、それっきり辺りは静かになってしまった。まさか、殺されてしまったのだろうか? 巨人は再びユマを覗き込んだ。
「おおしおぉおおきしてやあぁるううううぅぅぅぅ」
拳に力が込められ、ユマのいる空間が狭くなる。このままでは握りつぶされてしまう。
なんとかしなければならない。ユマは巨樹の森で夢魔を退けたときのことを思い出そうとした。意志の力を再び形にするため、雷を纏った白い杖を強くイメージする。
サルファやベルナデットにばかり頼ってはいられない。自分で状況を切り開かなくては。焦りを押さえ、揺らめく蝋燭の灯を見つめるように精神を集中させる。
するとユマの指先がじわりと温まり、白く光る棒状のものが出現した。パチパチと雷光を纏い始めたそれは、やがて渦巻くエネルギーの奔流を束ねた長い杖となった。
ユマはそれを握りしめ、巨人の指の隙間から突き出した。杖の先から雷が迸り、見開かれた巨大な眼球を撃つ。
「おぉおおおおぉぉあああぁぁぁぁあああっ!」
名状しがたい声を上げながら巨人が仰け反り、その手がユマを押しのけるように突き出された。当然、ユマの身体は空中に放り出され、地面に向けて落下しはじめる。
高所からの墜落――物質世界なら無残な死は避けられないが、夢幻世界ではどれほどの衝撃を受けるのだろうか。もがくだけしかできないユマは、せめて心の中で強く念じる。死にたくない。死ぬものか。辺りを飛ぶ青白い光が、流れ星のように視界を通り過ぎた。
ユマはその中に一つ、遠くから迫るスミレ色の光を見た。光はゆるやかな弧を描きながら飛翔し、勢いよく落下しつつあったユマの身体を抱き留めた。
「ベル!」
「うわわわわ」
しかしベルナデットの力で勢いを殺し切ることはできず、結局は二人して地面に落下することになった。着地した先は幸運にも、なにか――あまり深くは想像したくない――柔らかいものが入った布袋の山だったが、ユマは衝撃で頭がぐらぐらするのを感じた。
しかしとにかく、熟れた果物のように潰れてしまうことは避けられた。
顔の上にあるのはベルナデットの胸か。ユマがもごもごと身体を退けてくれるよう言うと、彼女はケロリとした顔で身を起こした。
「あの、サルファ……先生は?」
馬乗りになられたまま、ユマは尋ねた。
「蹴っ飛ばされてはぐれちゃったんだけど、多分それほど遠くには行ってないと思う。死んでも死なないような人だし、平気平気」
「そう……」
ユマは身をよじって太腿の間から這い出し、遠く暗闇の向こうを見つめた。どうやらかなり遠くまで飛ばされたようで、巨人の姿は見えない。
しばらく虚空を眺めていると、不意に背後から声をかけられた。
「あの……大丈夫?」
リリイの声だった。ユマは振り返り、暗がりの中に浮かび上がるその姿を見た。先程よりは成長しているが、やはり顔が少々幼い。今度はユマと同じくらいの年齢だろうか。
「姉さん」
ユマは積み上げられた布袋から飛び降り、リリイのもとに駆け寄った。
「ユマなの? ダメじゃない、こんなところに来たら。お父様に怒られるわ」
「でも、僕は姉さんを助けに来たんだ。一緒にここから出よう」
「出る? そう……、そうね。出ましょう。でも、あそこの人は誰?」
注意を向けられたベルナデットは、布袋の山からひらりと舞い降りた。二人の傍に音もなく着地し、芝居がかった挨拶をする。
「はじめまして、リリイ。私の名前はベルナデット。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします……」
ベルナデットが差し出した手を、リリイがおずおずと握る。その顔には明らかな困惑の色が見て取れた。ベルナデットの容姿からすると、その反応も無理はない。
さて、これからどうしよう。自分で考え、行動を決めなくては。ユマはリリイの手を取り、棚の間を縫って歩きはじめた。
「姉さん、ここがどこだか分かる?」
「ううん。でも、すごく大きい巨人がいて、私とユマを探してるの」
「出口は分かる?」
「……分からない」
リリイの手にぎゅっと力が込められた。ユマは彼女を励ますように、その手を握り返した。そして気分が停滞して沈みこまないよう、必死に考えを巡らせた。
この夢幻世界は記憶から創りだされたものだ、とサルファは言った。そして入口で見た巨樹は、天を突くばかりに大きかった。それはまるで自分が虫になったかのような、圧倒的な光景だった。
しかし、考え方を反転させてみるとどうか。自分たちが小さかったから、ああいう風に見えたと考えることもできる。森で狼に出会ったのはユマとリリイが幼いころのことだから、その記憶から創られた森では樹が大きく、自分たちが小さく見えるのだろう。
「うーん……」
それを踏まえて今の景色を解釈する。ユマは改めて辺りの棚やそこに並べられている物品を眺めた。これらが大きいのも、見た当時のユマ……ではなくリリイが今に比べて幼かったからだ。あのときの倉庫は不慣れな場所だったから、この場の不気味さも増幅されているのかもしれない。
雰囲気はともかく、棚やそこに並ぶ物品は、ユマがここに来たときより幾分か小さくなっているように思えた。周囲の物が段々小さくなっているということは、自分たちが段々大きくなっているということだ。これは一体、なにを意味する?
もしかすると自分たちは、過去から現在に向けての道筋を辿っているのかもしれない。それがユマの辿り着いた結論だった。
ならば、自分たちが大きくなる方、周囲の色々なものが小さくなる方へ進めばいい。森で見たリリイは九歳か十歳、今は大体十四歳。次はどのくらいか分からないが、実年齢である十七歳まではそう遠くないはずだ。
「――と、思うんだけど」
ユマはリリイとベルナデットに意見を求めた。リリイは話がさっぱり理解できない、というようにきょとんとするばかりだったが、ベルナデットはユマの仮説を支持した。
「じゃあ、冒険の旅に出発~」
やり方は一つでないのかもしれないし、明確な正解不正解もないのだろうが、ユマはとにかく、物が小さい方小さい方へ移動していくことに決めた。
◇ ◇ ◇
「姉さんは、ずっと眠ってるんだ」
棚と壺、箱と袋の迷路を行きつ戻りつしながら、ユマはリリイに話しかけていた。彼女を説き伏せて、一緒に起きよう、と物質世界に連れ戻せればいいのだが、もちろんそこまで単純ではないだろう。
それでも、今リリイの身体になにが起こっているかを話さずに、彼女と行動を共にし続けるのも妙な話だ。
頭上では数十数百の小さな光が舞い、ベルナデットの火球も辺りを照らす。それらにぼんやりと、幽玄に照らされるリリイの顔は、深く物思いに沈んでいるように見えた。
「みんな心配してるよ」
「どうやったら起きられるか、私にも分からないの。もしかしたら、起きてたくないような、辛いことがあるのかも」
「辛いこと?」
ユマは尋ねたが、リリイはそれ以上説明できないようだった。
眠り病は、夢が変質することによって起こる。ユマはサルファの言葉を思い起こした。眠り病の核となるのは、患者の記憶や感情だ。恐怖、不安、もっと複雑ななにか。リリイにも、きっとそういう類のものがあるのだろう。
「姉さん。もしかして、結婚するのが嫌だった?」
リリイは二か月後に婚姻を控えていた。相手は騎士家の次男坊で、名をトーレスといった。年齢はリリイより少し年上の二十一。ユマも一度相手と対面したことがある。品格の確かな、誠実そうな男性だった。
親が持ってきた縁談だが、強いられたわけではない。お互いに魅力を感じて、納得した結果の婚姻。少なくとも、ユマはそう思っていた。
しかしもし、ユマの知らない理由があり、リリイが婚姻を嫌っているのだとしたらどうだろうか。その事実から目を背け、病に付け入る隙を与えてしまっていたとしたら。
「分からない」
問いに対して、リリイはどこか寂しげな様子で言った。本当に分からないのかもしれないし、話したくないだけかもしれない。あるいは話したいけれど、できないのかもしれない。ユマはそれ以上聞けなかった。
理由さえ知っていれば、彼女の味方ができたかもしれないのに。両親から口うるさく言われてきたユマを、リリイが庇ってくれたのと同じように、ユマもリリイを守ってやれるかもしれなかったのに。
「大丈夫」
悔しさをこらえて、ユマは言った。
「僕が頑張って、姉さんを助けるから」
それからユマたちは長い時間をかけ、ときには黒いナメクジのような夢魔に脅かされながら、正しいと思われる方向を探り続けた。疲れたときは広い場所に座り込み、少しの間体を休めた。周囲には食べ物と思しきものも見つかったが、とても食べてみる気にはなれなかった。
行程は長かったが、やがてユマたちは目当てのものを見つけた。無限の広さを持つと思われた空間は、ほとんど前触れなく、巨大な黒い壁で途切れた。それは滑らかな石に似た素材でできていて、そのままでは登ることも壊すこともできそうになかった。
「あそこに梯子がある」
しかし壁の左右に火球を飛ばして探っていたベルナデットが、少し離れた場所で梯子を見つけた。出口に繋がるものだろうか?
「やっと出られる……」
自分たちはこの場所で、一体どれくらいの時間彷徨っていたのだろう。確かなことは分からないが、体感で考えると、ゆうに半日以上は経っているように思われた。
ほっと安堵の息をついたユマは梯子の下まで移動し、その終端を見極めようとした。建物数階分を上らなければいけないのは確実だったが、どこまで行けばいいのかは分からなかった。
梯子の木材はかなり古びているものの、ユマとリリイを支えるだけの強度は残っていそうだった。どのみち、ここで諦めるという選択肢はない。ユマはベルナデットに灯りと先導を頼み、リリイを先に上らせて、自らもささくれ立った横木に手をかけた。
少し高い場所に上がってから、背後を振り返る。青白い光の群と、それに照らされた歪な棚の列がユマの視界一杯に広がった。それはまるで地底に埋もれた魔法の都市が、滅びてなおその存在を主張しているような光景だった。
「もうちょっとで出口!」
かなりの高さまで上ったところで、ベルナデットが言った。それを聞きながら、ユマは遥か遠くにぼんやりと巨人の姿を見た。まだユマたちを探して歩き回っているようだが、もう脅威にはならないだろう。
しかし、危機は別の形で訪れた。
梯子の隙間から、例の黒い触手が伸びてきたのだ。それはヌメヌメした気色の悪い質感を伴って、ユマの手足に絡みつこうとした。
頭上のリリイも、小さく叫んで身をよじる。振りほどこうにも、ここは長い長い梯子の途中。両手を離せば遥か下まで墜落してしまう。しかしこのままでは進むどころか、全身を触手に巻かれて窒息するのを待つだけになる。
気づけばベルも壁面に火花を放りながら、黒い触手を忙しく追い払っていた。
出口と思しき場所まではもう少し。こんなところで落ちるわけにはいかない。ユマは精神を集中させ、掌の表面に走るぴりぴりとした小さな雷をイメージした。あとは夢幻世界の不可思議な力が意志に実体を与える。
一呼吸あと、ユマの手には前のものより少し短い雷光の杖が握られていた。
「あっちにいけ!」
ユマは右手に握ったそれを、触手の生えた目前の黒い壁に突き刺した。
効き目は確かだった。しかしこのときは状況がまずい方に向かった。
電撃を浴びた黒い触手は、ミャアアアアアアアアアアアア、と甲高い音を上げて激しくくねった。それはしなやかさを失って、やたらめったらに辺りを叩きはじめた。
「きゃっ?!」
驚いたリリイが、梯子から足を踏み外す。
がくん、と彼女の身体が下がり、ユマはその踵で強く額を打たれた。衝撃で視界が揺らぎ、梯子を掴んでいた手の力が弱まる。
さらに暴れる触手の殴打が肘に命中し、ユマは握力を一瞬失ってしまった。雷光の杖を離して梯子を掴み直そうとしたが、もう遅かった。伸ばした指先が、ほんの少し梯子の横木を撫でた。