-5- 眼下を泳ぐ影
「いや……! 来ないで!」
ユマは身体をねじって声の方を向いた。たった今、巨樹の陰から滑り出てきた葉の上に、先程と同じリリイの姿があった。彼女もまた洪水を逃れ、漂流していたのだ。
「姉さんだ」
周囲に怯えの原因となりそうなものは見えない。いや、水中になにかがいる。
ユマは目を凝らした。それは蛇のようにうねる、巨大な灰色の生物だった。渦を巻くように動いているため全長は分からないが、少なくともその頭と顎は、小さな家なら丸呑みにしてしまえるほどだった。
もちろん、水上の頼りなく浮かぶだけの人間などひとたまりもない。捕食される、という原初の恐怖を思い起こさせるような、圧倒的な大きさだった。
灰色の生物はリリイが怯えて泣き叫ぶのを楽しむように、くるくると水の中を泳ぎ、ときおり水面に尾や身体の一部を出しては葉を弄んでいる。それは猫が死にかけの虫や小動物を弄ぶ様子にも似ていた。
「どうにかしないと」
ユマは焦った。リリイがこちらに気づき、助けを求めるような表情をしたのが分かった。しかし両者はあまりに遠く、手を伸ばすことはおろか、泳いでいくのも間に合いそうになかった。
「中々の大物だ」
後ろで大枝に跨るサルファが言った。
「少し荒っぽくやろう。ベル。アレを引きつけてくれ」
「はいはい」
ベルナデットは手から大きな火球を出現させ、それを上空高くまで放り投げた。火球は高い位置で止まり、それから落下して勢いよく水面に衝突した。爆発が起こり、派手な水柱が立ちのぼる。乗っている葉を揺らされたリリイが小さな悲鳴を上げた。
衝撃は水中まで届いたのだろう。それまでゆったりと泳いでいた長い身体が激しくくねった。その動きは水面にも影響を与えて、ゆらゆらと不規則な波が広範囲に伝わった。
灰色の生物が、水中から敵意を持ってこちらを窺う。そのときはじめて――分厚い水の層を通してではあるが――ユマは生物の顔を正面から見た。
その顔は蛇や魚には似ておらず、もっと陸上の獣に近かった。灰色の体毛は濃く、鼻面が長い。その造形は、ユマに強い恐怖を思い起こさせた。
それは狼だった。狼の頭に、長く太い蛇の身体がついている。
狼頭の蛇は身体を伸ばして水中を進み、ユマたちの直前で急浮上した。水面から出て鎌首をもたげ、その鼻面に皺を寄せて威嚇する。
ずっと昔、ユマが幼かったころの記憶が鮮明によみがえってきた。
あれは六歳か七歳のときだった。ユマとリリイは父にせがみ、馬車に便乗してゼントヴェイロ近郊の町まで行ったことがあった。そして商談がまとまるまでの暇を持て余したリリイが、ユマを町はずれの森に誘ったのだ。
さして深くも、危険な森でもなかった。むしろ腕白な子どもが探検するのには、似合いの場所とさえ言えた。だからユマもリリイも大して警戒することなく、森の散策を楽しんでいた。
二人にとって不運だったのは、偶然そのとき、そのあたりに、老いた狼が徘徊していたことだった。
普通の大人ならば、遭遇してもそれほど脅威にはならない存在だった。群れからはぐれ、眼は白く濁り、爪牙は鈍り、もはや自分で獲物を狩ることもできなかったはずだ。しかしだからこそ飢えており、非力な二人にとってはこの上なく危険な獣だった。
狼に遭遇してしまったユマとリリイは、掠れた唸り声に追われながら走った。生まれてはじめて感じる、差し迫った死の恐怖だった。悲鳴を上げ、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら逃げた。
ようやく森の端までたどり着いたとき、リリイが樹木の根に足を取られてしまった。彼女は転倒し、動けなくなった。そこに狼の牙が迫った。
姉を守らなければならない。その一心で、ユマは転がっていた木の棒を手に取り、狼に躍りかかった。傍から見れば甚だ弱々しく、滑稽にも映るような攻防だったろうが、当時のユマにとってはまさに死闘だった。
最終的には、振り抜いた棒が狼の足をへし折り、なんとか立ち上がったリリイとともに、逃走に成功したのだった。
その後、泥だらけ傷だらけの姿で見つかり、父にしこたま叱られたのは言うまでもない。そのとき以来ユマの心には、狼への恐怖が強く根づいたのだった。
ユマは追想から覚める。目の前に在る顔は、そのときの狼にそっくりだ。両目は白く濁り、牙は黄色く欠けている。ユマに与える恐怖の大きさも、以前と同じだった。
耳の奥が冷たくなり、喉が狭窄する。手足が強張って、細かく震える。怯えるなと念じても、それがさらに焦りと緊張を生んだ。
「ユマ、呑まれたらダメ」
励ますベルナデットの声さえ、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。
一度もたげた鎌首を翻し、狼頭の蛇は素早く水中に潜った。目前から姿が消えると、ユマの恐怖も若干収まる。
「真下から来そうだな」
サルファがユマの様子を一瞥して言った。その視線はどこか意味ありげだったが、今のユマにそれを察する余裕はなかった。大枝を強く握りしめすぎて、ユマの両手は白くなっていた。
狼頭の蛇は深い場所まで潜ったが、ユマたちを諦めたわけではなさそうだった。サルファが危惧した通り、真下からほとんど一直線に浮上してくる気配があった。
その直後、周囲の水面が急に盛り上がり、激しい水飛沫とともに、ユマたちの乗る大枝を強い衝撃が襲った。狼の頭か、蛇の尾か、ともかく身体のどこかでぶつかられたのだろう。
ユマはその勢いで枝から投げ出され、木端のように空中を舞った。痛みはそれほどでもなかったが、このまま樹の幹にでもぶつかれば、全身の骨が折れてしまうだろう。
死の恐怖に翻弄され、支配されつつあるユマだったが、上下の不確かな視界の端にほんの一瞬、泣き顔でいるリリイの姿を捉えた。
もしそれがなければ、ユマは自身の目的を見失い、心を闇に捕らえられてしまったかもしれない。あるいは夢魔の力に屈して、これ以上前に進むことを諦めてしまったかもしれない。
しかしユマはそうならなかった。リリイの顔を見たからこそ、そうしなかった。老いた狼に立ち向かったときと同じように、意志の力で恐怖に抗った。
空中に跳ね上げられたユマは当然の結果として落下し、激しく水に叩きつけられた。視界が一瞬真っ白になり、遅れて全身を痛みが襲った。それでもユマは、自分の意識と握っていた大枝を、死んでも手放すまいとした。
視界を覆っていた細かい泡が消えると、目前に迫った狼の頭が見えた。牙の列が大きく開き、臓腑に繋がる暗闇が、ユマの視界一杯に広がった。
お前なんかに、大切な姉さんを喰わせるものか。
普段温厚なユマがおよそ抱くことのない、激しい感情が湧き上がった。
狼の口に吸い込まれ、上下の顎で挟まれる瞬間、ユマは持っていた大枝を柱のように突き立てた。とはいえ相手は家さえ丸呑みにできるほどの怪物である。この大顎に対しては太さも硬さも大した意味はなく、小枝と同じようにへし折られてしまうはずだった。
しかしそうはならなかった。ユマの身体はへし折られも圧し潰されもせず、牙に囲まれた狼の咥内に在った。手元を見れば持っていた大枝が薄ぼんやりと光り、パチパチと小さく爆ぜるような音を立てはじめていた。
ユマは息苦しさに耐えながら、自らの意志を込めるようにして、大枝をさらに強く握った。
大枝から発せられる音がバチバチと大きくなり、光は白く激しくなった。ユマの掌には熱が伝わってきたが、それは火傷を招くような高温ではなく、どこか優しさを感じさせる柔らかい熱だった。
その直後、激しい雷光が迅った。
周囲は真昼のように明るくなり、辺りを不規則に踊る気泡が、黒とピンクがまだらになった舌や粘膜が、苔や腐肉が貼りついた牙がはっきりと映し出された。
同時に枝から放たれたエネルギーの奔流が、狼頭の蛇の咥内を、頭を、筋肉やそれに覆われた神経網を焼き焦がした。
致命の電撃に晒された狼の顎は動かなくなった。しかしユマにとって不都合だったのは、顎が閉じられたままになってしまったことだった。水を掻いてなんとか牙に取りつき、大枝を差し込んでみても中々開かない。
怪物を斃したのはよかったが、このままでは溺死を待つだけとなってしまう。再び絶望しかけるユマだったが、そのとき外側に差し込まれる、白く細い指先を見た。
ベルナデットだ。彼女が外側から顎を開こうとしている。ユマはそれと力を合わせるようにして、残り少ない空気を吐き出しながら、必死で手に力を込めた。
重たい顎がわずかに開かれると、その隙間からサルファのものらしき手が伸びてきて、ユマの腕を掴んだ。ユマはその力を借りて口の中から這い出す。幸運にも水面は近く、すぐに浮上することができた。
自ら頭を出し、胸一杯に空気を吸い込む。全身をふいごのようにして、何度も深呼吸を繰り返した。喉や鼻が焼けつくように痛んだが、とにかく窒息は免れることができた。水面下を見れば、狼頭の蛇は早くも黒い粒子に分解されつつあった。
いつのまにか浮かんできたベルナデットが背中に触れる。彼女もまた余裕なさげに息を切らせていた。ユマはぐったりしながら、束の間その柔らかい腕に身体を預けた。
「まあ色々あったけど、なんとかなったね」
「なんとかなったんですかね……?」
素直な疑問を口にしてから、ユマはリリイの姿が近くにないか確かめようとした。夢魔に襲われたときは、まだ辛うじて無事だったはずだ。
消耗した身体に鞭を打って泳ぎ、木端にしがみつきながら辺りを見る。すると、先程より少し離れてはいるが、水面に浮かぶリリイの姿が確かに在った。
「あそこにいる。行きましょう」
時間はかかるが、向こうが逃げなければなんとか泳げる距離だ。しかしユマがそうしようとしたとき、服が誰かに引かれたような感触があった。そのままずるずると、身体が背後に流れてしまう。
先程まで、風で水面がざわめくことはあっても、流れというほどのものはなかった。しかし今やユマたちは、逃れ難い力でどこかへと運ばれていく。
「これ、流されてます?」
「そうかもねえ」
サルファはあくまで呑気だ。どうやらこのあたりにある水が、どこかに流出しているらしい。
考えたところで分かるはずもなかったが、その答えはすぐに知れた。水流が徐々に強くなり、ある一点目がけて落ち込むようになっていたからだ。
「吸い込まれる……!」
ユマは悲鳴を上げたが、もうどうにもならなかった。ベルナデットの力を借りても、脱出することは至難だろう。
「落ち着きなさい。夢が我々をより深い場所へと導いているんだ。ここは流れに身を任せておくといい」
「溺れろっていうんですか」
「水を飲むのは構わないけど、恐怖には呑まれないようにね」
ユマはなにか反論しようとしたが、そのときにはもう、身体の自由が利かなくなっていた。強烈な力で巨樹の幹に引き寄せられる。どうやら幹に洞のような穴が空いていて、大量の水がそこに流れ込んでいるようだった。
覚悟を決めて、息を止める。その直後、巨大な手で下半身を掴まれたような感覚があり、全身が一気に水中へと沈められた。ユマは片手で鼻をつまみ、もう片方の手で胴体を抱くようにして、そのまま昏く深い穴の中へと吸い込まれていった。