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ユマと夢幻の治癒師  作者: 黒崎江治
4/10

-4- 水が満ちるとき

「そういえば、夢の中で死んだらどうなるんですか?」


 闇色の豚に襲われる前尋ねようと思っていたことを、ユマは尋ねた。


「死んだあとどうなるかみたいな話かな。ベル、どう思う?」


「んん、虚無みたいな?」


「そうじゃなくて、ここは非現実の世界なんでしょう? ここで死んだら、現実の身体はどうなるんですか」


 サルファは少し考え込むような様子を見せた。


「夢幻世界における死については、二つの世界を股にかける僕を以てしても、今は推測に頼るほかない。おそらくすぐさま肉体の死を迎えることはないだろう。それから一つ訂正しておくと、ここは非現実の世界じゃない。物質世界が現実であるのと同様に、夢幻世界も人間の心的な現実だ」


「はあ」


「一例ではあるが、以前、僕と同じように夢に潜った魔術師がいた。あるとき、彼は極めて錯乱した状態で覚醒した。夢幻世界でどんなことがあったのかは分からないけど、正気に戻るまでは丸一年かかった」


 夢幻世界がそんな危険なところだとは知らなかった。しかし姉を救うという決意を固めた以上、サルファに対して抗議はしたくなかった。自分の存在が少しでも治療の助けになるなら、ユマがこの場所にいる意味はあるのだ。


「つまり、死んだり怪我をしたりしないに越したことはないんですね」


「身の安全を考えるなら、そうだ。しかしそこが夢の作業の難しいところでね。出来事に対してあまりに超然としているだけでは、夢に潜った意味がないんだ。巻き込まれていかないといけない。ときには傷ついても、夢に関わっていかないといけないときがある」


「……よく分かりません」


「きっとそうだろうね」


 サルファは笑った。とにかく、夢の治療が危険なものであるということは分かった。しかしどうやら、危険を避けてばかりでも意味がないらしい。財宝を手に入れるため、怪物の潜む洞窟に挑むようなものだろうか。


「ねえねえ、あそこに誰かいる」


 先頭を行くベルナデットが、左斜め前方を指さした。ユマが物思いから覚め、そちらに目を向けると。百歩ほど離れた場所、隆起した巨大な根の上に、白いチュニックを纏った少女が座っていた。それは一行がここで目にするはじめての人間だった。


 齢はせいぜい九歳か十歳。ユマと同じ栗色の髪は背中までの長さがあった。まだこちらに気づいていない様子で、素足をぶらぶらと動かし、なにか歌のようなものを口ずさんでいた。


 音色が風に乗り、途切れ途切れに聞こえてくる。


 ユマはその歌に聞き覚えがあった。いつだったか、寝物語が終わっても眠らない自分に、リリイが歌ってくれた歌だ。


「姉さん!」


 ユマは思わず呼びかけていた。あそこにいるのはリリイだ。今よりもずっと幼い姿だが、間違いなかった。


 少女はこちらに気づいたが、その様子には驚きが見て取れた。


「姉さん、僕だよ! ユマだ!」


 大きく手を振ったが、リリイは応えなかった。根の背後に飛び降りて、姿を消してしまう。


「待って!」


 ユマは反射的に彼女を追った。軽率な行動なのは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。手に持った大枝と、柔らかい地面とで時折バランスを崩しながら、ユマは走った。


「あんまり離れるなよう」


 背後からサルファの声が聞こえたが、ユマの耳にはほとんど入っていなかった。


 夢幻世界でも息は切れる。姉を追って巨樹の裏に回り込んだユマは、早くもぜいぜいと喉を鳴らし、膝に手をついていた。


 懸命に走ったにも関わらず、リリイまでの距離はまったく縮まっていなかった。それどころか彼女は遥か先におり、今また別の巨樹の根を乗り越えたところだった。ユマはそれ以上追いかけることができず、去り行くリリイを見送るしかなかった。


「ほら、焦らない焦らない」


 後ろからふわりと飛んできたベルナデットが、ユマの肩にやさしく触れた。息を整え、身を起こしたユマの後頭部に、豊かな胸がぽんと当たった。


「姉さん、怖がってた」


 息を整えながら、ユマは肩に置かれた手をゆっくりと外す。ベルナデットの掌は滑らかで柔らかく、ひんやりと冷たかった。


「怖がってた? なにを?」


「分からない。でも、僕に怯えるはずはないんだ。前に見たことがあるような気がする。あんな感じで逃げる姉さんを――」


 そのときユマの背後で、ばしゃあん、という音がした。思わず振り返った二人が見たのは、たった今弾けたばかりの、巨大な水の塊だった。飛沫しぶきの勢いは、それがかなりの高さから落ちてきたことを示していた。少し離れたところにいたユマでさえ、桶一杯分の量を顔に浴びた。


 思わず手で顔面を拭う。痛みも妙な臭いもない。幸い、毒汁や粘液の類ではなかったようだ。


 やがて森のあちこちから、同じような音が響いてきた。ユマは少し遅れて、なにが起こっているのかを理解した。


 雨だ。巨樹の森に雨が降っている。


 元の雨粒がどれほど大きいのかは分からないが、巨樹の葉が漏斗じょうごや注ぎ口の役割を果たし、地表に落ちる水の塊を巨大なものにしているのだろう。


 雨が降り始めてすぐ、ユマの足首までもがぬるい水に浸かった。降る水の量が、地面に吸い込まれる水の量より遥かに多いのだ。だから雨が止まない限り、水位も下がらない。どうしようかと考えているうちに、膝、臍、胸まで水が迫った。


「うわ、わ」


 根の上によじ登っても、避難は十分でなかった。ユマは泳げないわけではないが、服を着たまま長く浮いているのは難しかった。それに頭上から水に直撃されれば、泳ぎの達人でも簡単に溺れてしまうだろう。ついさっき夢幻世界での死について話したせいで、余計にその危険が意識される。


「ほら、掴まって!」


 激しい雨は止まず、ユマの全身はすぐ水に浸かった。持っていた大枝は多少水に浮いたので、ユマは片方の手でそれを掴み、もう片方でベルナデットの手を握りながら、なんとか水の上に顔を出していた。


 飛ぶことのできるベルナデットは水に浸かっていないものの、ユマを引っ張って飛ぶことまではできないようだった。水飛沫で濡れた髪や服が、白い素肌にぺったりと張りついていた。


「これ、どうなるの?」


 ユマは尋ねた。


「う~ん、分かんない」


「このままだと溺れちゃう」


「大丈夫だから。手を離さないで」


「おうい。無事か二人とも」


 どこかから、呼びかける声がした。ユマが水を掻きながら声の主を探すと、大きな丸太のようなものに跨ったサルファが枝で水をかきながら、ゆっくりとこちらに向かってきているところだった。ベルナデットに引っ張られ、なんとか合流する。


「乙女心は急に変わるから困る」


 サルファはそう言って、ユマを水から引き揚げた。三人して丸太のような枝に乗り、しばし漂流する。櫓もまともな櫂もないので、どこへ行くかは水流と風に任せるほかなかった。


 雨の訪れは突然だったが、止むのもまた突然だった。ふと気づけば小さな水滴が落ちてくることさえなく、樹冠の緑を反射した水面には、風によってわずかなさざ波が立つだけである。すっかり様変わりした巨樹の森には、透き通った静寂が横たわっていた。


 少しばかり気を落ち着かせたユマは、足が浸かっている水の中を覗き込んだ。地表に溜まった大量の雨水は、今やまるで千年前から在ったかのように穏やかで、遥か下の景色をほとんどそのまま見通すことができるほどに澄んでいた。


 そこでは道中にいたのと同じような夢魔が、大小の群になって泳いでいた。よく見れば、先程の首なし鶏もいる。夢幻世界の住人たちは溺れることなく、文字通り降って湧いたような変化を、呑気に楽しんでいるようでもあった。


 ユマは夢魔たちほど呑気に過ごすことはできなかったが、だからといってなにかができるわけでもない。やむなくぬるい水にぼんやりと浮かんだまま、なるようになるまで待つしかなかった。濡れた身体が徐々に冷えはじめて、ユマはぶるりと身を震わせた。

 

 周囲にはユマたちが乗っているのと同じような枝や、巨大な葉が浮かんでいた。さらに上を見ると、緑の天蓋が先程よりも近くなっている。いつのまにか、巨樹の高さの半分ほどまで水位が増しているようだった。


「ベル、なんとか姉さんを探せないかな?」


 しばらくして、ユマは浮いているだけの状況に焦れてきた。ベルナデットなら、高いところから遠くまで見渡すことができる。


「樹さえなければ楽なんだけど」


 ベルナデットはユマたちから離れて水面を滑り、ふわりと舞い上がって空中に静止した。大げさな仕草で四方を見渡し、周囲に人影がないかを探している。


 彼女はしばらくそうしていたが、結局はなにも見つけられなかったらしい。ゆっくりと下りてきて、大枝に着地する。


「一筋縄ではいかないねえ」


 サルファがのんびりとした口調で言った。


「夢の治療はどれくらいかかるんですか」


「半刻もせず終わるときもあれば、二、三日夢の中を彷徨うときもあり……」


「僕らの身体は大丈夫なんでしょうか? そんなに放っておいて」


「意外と腹は減らないもんだよ。ジョフィが守ってくれてるはずだし」


「ジョフィ?」


「到着してるときに見ただろう。狼だよ」


「ああ……」


 ユマは思わず顔をしかめた。


「どうしたの」


「僕は狼が怖いんですよ。子どものとき、近くの森で襲われて……」


 そう言った矢先、ユマは静寂を破るリリイの悲鳴を聞いた。

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