-3- 巨樹の森
気づけば、ユマは白い闇の中にいた。
周囲にあるのは滑らかで濃い霧だった。細かい水の粒さえ見えない。鼻先に手を持ってきても、その輪郭がぼんやりと判別できるだけだ。肌にはわずかに冷たい風を感じる。少し寒いが、凍えるほどではない。
ここはどこで、今はいつだろう。ユマの思考にも、周囲にあるのと同じような霧がかかり、なにもかもがはっきりしなかった。
しばらくすると、意識が少しずつ清明になってきた。ユマはやがて、自分が寝ているのではなく立っていることを理解した。爪先さえ見ることはできないが、恐る恐る一歩を踏み出す。足元に感じるのは、やや湿った柔らかい土だ。鼻で大きく息を吸うと、新鮮な緑の匂いもした。
ゆっくり進むにつれ、霧は少しずつ薄く、空気は暖かくなってきた。遠くになにかが見える。形からして人間だろうか。
さらに近づいていくと、ユマにはそれが黒いローブ姿のサルファだと分かった。薄くなった霧の中、黒と白の髪と、彫りの深い不健康そうな顔と、オリーブ色の右眼が見えてきた。
「お、迷わずやって来られたね」
サルファは言い、ユマに手を差し出した。
「ようこそ、夢幻世界へ」
ユマはそれを握る。少しかさついた、大きな掌だった。
同時に強い風に吹き、霧が散らされて周囲の景色が明らかになった。
まずユマの目に飛び込んできたのは、一周が百歩も二百歩もありそうな、ひび割れた巨大な塔だった。しかも一つではない、同じような塔が、おおむね同じような間隔でいくつも建っている。
しかしユマはすぐ、自分の勘違いに気がついた。塔の地面に近い部分には、半ば埋まった根のようなものが見えたからだ。
これは樹だ。あまりに巨大なので、すぐにそうとは分からなかった。周囲に生えているのは、ユマが今までに見たことのない、それどころか想像さえしたことのない、途方もなく大きな樹々なのだった。
「ここは……どこですか」
ユマは尋ねた。
「言っただろう。夢幻世界だよ」
「つまり、姉さんの夢の中?」
「基本的には、そういう理解でいい」
「でも、この森は……」
「彼女の記憶から創られたものだ。誇大化されたり歪曲されたりはしているだろうが、似たような景色には、君も見覚えがあるんじゃないかな」
そう言われたものの、ユマにははっきりと思い出すことができなかった。仕方なく辺りの地面を見渡すと、これまた巨大な葉が落ちていた。人間が三人寝転がっても、まだ余るような大きさだった。
落ちている枝も、人間の腕より細いものはない。ただそれらの形からして、ゼントヴェイロやピルムの近くに生えているような樹と、似た種類のものであるように思えた。
「それで、どうするんですか?」
「どうって?」
「眠り病の原因をなんとかするんじゃないんですか?」
「ああ、もちろん。しかし焦ってもしょうがない」
サルファは佇んだまま動こうとしない。
「不安な顔をしなくてもいい。今、ベルが様子を見に行ってる」
「ベル?」
「さっき喋ってた彼女だよ」
ユマはほんの少し遠くなっていた記憶を手繰り寄せる。先程窓際で聞いた紫水晶の声が、確かベルナデットと名乗っていた。彼女は夢魔ということだから、きっと夢の世界の住人なのだろう。
ただ待つというのも退屈なので、ユマは朽ちて土に還りつつある巨大な葉を踏み、目の前にある巨樹へと近づいた。
近づくといっても、幹までたどり着くのがそもそも容易ではなかった。なにせ地表に露出した根だけでも、背丈ほどの高さがある。しかし全体が大きい分出っ張りも多く、身軽なユマはざらついた樹皮の表面を掴み、なんとか身体を引き上げていくことができた。
「元気だなあ。落ちるなよう」
背後にサルファの声を聞きながら、根の上までたどり着く。ユマは大きく息をついて、改めて自分の肉体を意識した。速まった鼓動も、筋肉の疲労も、手の痺れも、現実世界となんら変わらない。本当にここは夢の中なのだろうか?
それからユマは天に向かって伸びる幹を見上げた。焦げ茶色の樹皮の割れ目は一つ一つが深く広く、人ひとりがすっぽり隠れてしまえるほどだった。幹は靄の向こうで分岐して、枝葉による緑の天蓋を形成していた。一体どれほどの高さがあるのか、見当もつかない。
ユマは地表に目を戻した。葉が大きいため木漏れ日もまた大きく、地面には明るい部分と陰った部分がまだらに分布しているのが分かった。
少し高い場所に上っただけで、空間の途方もない広さを実感する。ユマが夢の世界の不思議さに心を打たれていると、サルファを挟んで反対側から、人影が滑り出てきた。それはサルファに近づくと、ユマにも気づいて手を振ってきた。
多分、あれがベルナデットだ。ユマは登りよりやや大胆に手足を動かし、巨樹の根の上から地面に降り立った。
「夢幻世界へようこそ~」
ベルナデットが両腕を広げてユマを迎えた。樹皮と同じような色の簡素なドレスは胸元が大きく開き、また太腿の部分には深いスリットが入っていてやけに扇情的だった。彼女は濃い銀色の長髪と白磁のような肌を持っていて、どこか非人間的でありながらも不思議な魅力を放っていた。
それからユマの目線は、ベルナデットの強く輝くような瞳に吸い寄せられた。彼女の右眼は透き通ったスミレ色で、左眼はオリーブ色。サルファの両眼とはちょうど逆なのが印象的だが、この対応がどんな意味を持つのか、ユマにはよく分からなかった。
なんにせよ、見惚れるような美しい女性であることは間違いなかった。これが夢魔という存在か、とユマは感心した。世の男たちがこの魅力に抗えないのも納得できる。
「ユマ。この場所はね――」
「ベル、そのくだりはもう済んだ」
「あ、そう」
ベルナデットはやや不満げに口を尖らせた。その仕草は少女のようだったが、決してあざとい感じはしなかった。
「周りはどうだったんですか?」
ユマは尋ねた。
「どうもなにも、ずーっと向こうまで同じ景色。一年歩いても森からは出られそうにない」
「それじゃあ、どうすれば……」
困惑するユマの肩に、サルファが手を置いた。
「物質世界と違って、森の果てまで行くことだけが脱出する手段じゃない。もちろん、眠り病の根本を見つけるまで、脱出はしないつもりだけどね。とにかく少し歩こう。そのうちなにかに出会うはずだ」
そう言って、サルファはおもむろに歩きはじめた。明確な目標がないのは不安だが、とりあえずは付いていくほかないだろう。ユマは巨樹を柱とした緑の天蓋を見上げてから、サルファの背中を追った。横を行くベルナデッドをちらりと見れば、その爪先は地面から少し浮いていた。
辺りを吹き抜ける涼しい風は、樹々の位置関係によって急激に強くなったり、また逆に弱くなったりする。陽の当たり具合も場所によって大きく違うので、そこに生える下草は目まぐるしくその様相を変える。
黄色い小さな花に覆われている一帯もあれば、鮮やかな赤い茸が群生している一角もあった。色とりどりの植物が、木漏れ日を分け合ったり奪い合ったりしながら、美しい森の下層を形成していた。都市で生活しているユマは、それらを飽きずに眺め、時折しゃがんでは触れてみたりした。
しかし、可愛らしい、のどかな情景だけが在るわけではなかった。ユマは風に交じって、ときおりなにかの鳴き声や気配を感じた。輪郭の曖昧な影が、近くを横切ることもあった。
「あの、あれは……」
犬ほどの大きさの黒い靄が樹の根元にうずくまっている。ユマはそれを指さして、サルファに尋ねた。
「夢魔だよ」
「夢魔?」
ユマは思わずベルナデットの方を見た。夢魔とは彼女のような存在を指すのではなかったか。疑問を酌んだサルファが説明を加える。
「夢魔とは人の記憶や感情、知識や思念を核として生成された存在の総称だ。核となるものは様々。言葉の断片から、大切な人との想い出まで。だから情景の記憶から創られたこの夢幻世界自体も、広い意味では夢魔だと言える」
「はあ」
「そして夢魔の力には、人間以上に大きい小さいの差がある。あそこに見えるようなのは力の弱い夢魔だ。存在が朧だし、夢に干渉する力もほとんどない。力の強いものははっきりと形を取るし、なにかしらの目的を持って周囲に働きかける」
サルファは独特な単語を大いに交え、饒舌に語った。
「じゃあ、ベルナデットさんは……」
「ベル」
彼女は耳元で囁き、自らをそう呼ぶよう釘を刺した。ユマはもごもごと訂正する。
「ええと、ベルはどういう存在なんですか」
「サキュバス、もしくはインキュバスと呼ばれている種類の夢魔は、人間の性的な欲求を核にしている。性欲は普遍的かつ強力なものだから、サキュバスの力もそれに比例して強い。まあ、コツを知れば単純で御し易いんだけどね」
「単純だなんて失礼な」
ベルナデットが抗議した。
大人ならば大抵の人間が性欲を持っている。だから人々はサキュバスの存在を現実にも持ち込み、物語に登場させたり、たとえ話に使ったりする。誰にでも知られているということは、確かにある種の力と解釈できなくもない。
「さて、眠り病についてだけど」
サルファはユマを振り返り、後ろ向きに歩きながら続ける。
「眠り病の患者の中で、重大な意味を持つものが核となる。それは夢魔の形を取ることもあれば、そうでないこともある。どちらにせよ、それによって本来無害であるはずの夢が変質してしまうんだ。患者は夢に囚われ、やがて衰弱死してしまう」
「重大な意味を持つもの?」
「人によって違う。恐怖や憎悪かもしれないし、もっと複雑な思念かもしれない」
「眠り病を治すには、その夢魔を倒せばいいんですね」
「もちろん、夢魔を消滅させればいいこともある。しかしそうでない場合も少なくない。なんにせよ、その人間が紡いできた物語を体験し、夢の深層へと潜っていく必要があるのさ」
それはなんとも複雑で、謎めいた治療法のように思われた。飲み薬を調合したり、患部を手術で除去したりといった手段とは大きく異なる。おそらくリリイが眠り病に罹った原因も、もっと夢を探索してみないことには分からないのだろう。
「君は考えが柔軟だ。見込みがある」
だしぬけにサルファが言った。
「どうでしょう。でも父さんにはあまり褒められないんです」
「なぜ?」
「気が優しすぎるから、商人には向いてないと」
「優しいというのも才能だし、次男坊なら気にしなくてもいいだろう」
「ええ。だから僕は将来〈学院〉に行って、医学の勉強をしようと思ってるんです」
「〈学院〉か。懐かしい響きだね」
〈学院〉とは、ゼントヴェイロから遥か北方の、キエスという王国にある教育機関だ。法学、医学、薬草学、農学、錬金術、そして魔術。ありとあらゆる学問を修めに、様々な国から若者がやってくる。
〈学院〉では十六歳になった若者を受け入れ、大抵の場合は四年間の教育を施す。そこで学び、故郷に帰った者は、一流の専門家として厚遇される。
ユマは十四歳。〈学院〉で学べるようになるにはあと二年かかる。もっともその前に、両親の許可や生活費のことなど、準備しなければならないことは山ほどあった。
「医学もいいが、君の場合もしかすると――」
なにかを言いかけたサルファのかかとに、小さな白い影が衝突した。その勢いで彼はよろめいて後ろ向きに転倒し、地面に頭を打ちつけて呻いた。
ユマは衝突してきたものに目を遣る。それは一見してどこにでもいる普通の鶏だったが、なぜだか首から先がなかった。首の断面とその付近は、羽根をむしったように地肌が露出していた。血は出ていない。元々首のない鶏なのだ。不気味だが、どこかユーモラスな姿でもあった。
「ちょっと、大丈夫?」
ベルナデットがサルファを助け起こした。彼は頭をさすりながら立ち上がり、ローブについた土を払った。一連の様子を見て、ユマはふと考える。夢の中で怪我をしたり、死んだりしたらどうなるのだろう?
ユマがそのことを尋ねようとした矢先、巨樹の陰からまた鶏が走り出てきた。今度は一羽でなく、もっと多い。二十羽か、三十羽か。首のない鶏たちが、どこか慌てた様子で走ってくる。こちらに向かっているというより、背後から追いかけてくるなにかから逃げているようだった。
少しすると、首なし鶏の波が途切れた。しかしユマは、騒ぎがそれで終わりでないことを直感した。
「来るよ」
サルファが言った。その声は落ち着いていたが、今までよりもほんの少し、緊張感を孕んだものだった。
一体どこから、なにが来るのか。ユマは首なし鶏たちが走り出てきた方に注意を向けながら、足元に落ちていた枝を拾い上げた。枝といっても巨樹のものなので、武器として振り回すにはあまりに大きく、重かった。しかし素手でいるよりは、幾分か心が落ち着いた。
やがておもむろに姿を現したそれを見て、ユマは背筋の寒くなる思いがした。
巨樹の根からその半身を覗かせたのは、一見して黒い塊にしか見えないなにかだった。それは素早く這うように根を乗り越え、ユマたちと同じ目線に立った。
家畜の豚と同じくらいの大きさとシルエットだが、似ているのはそれだけだった。目や脚の輪郭は朧げであるものの、道中で見た夢魔とは比べ物にならないほど強く、そして不穏な存在感を放っていた。弱々しい夢魔たちが日中にできる影とするなら、今見ているのは真夜中の闇にも等しかった。
「あれが、眠り病の原因……?」
ユマは恐怖にすくみそうな足を踏ん張り、精一杯の力で大枝を構えた。
「違うね。全然違う。あれは恐怖や不安といった負の感情を核にした夢魔だ。眠り病の原因にならないこともないが、今回の場合、あれしきの存在ではありえない」
「でも、襲ってくる」
ユマの声は今にもひっくり返りそうだった。闇色の豚はぞわぞわと身体を震わせたあと、弾けたように走り出し、真っ直ぐこちらに向かってきた。
「なら倒すしかない。ベル」
「はいはい。おまかせあれ」
ベルナデットがふわりと舞い上がった。同時にその身体の周囲で、拳ほどの大きさを持つ、スミレ色の火球がいくつも生成された。燃え上がる炎の色を反射して、彼女の髪や肌が煌めく。その姿は魔性そのものだったが、同時に息を呑むほどに艶やかだった。
ベルナデットが綿花を放るように軽く腕を振ると、生成された七つの火球が闇色の豚に殺到し、激しく燃え上がった。茫然とそれを眺めていたユマは、横からサルファに腕を引かれ、よろめいた。
「まだだよ」
ついさっきまでユマがいた場所を、豚が土煙と共に駆けていった。あと一瞬引っ張られるのが遅ければ、正面から衝突していただろう。
ユマは豚の動きを追うように振り返る。それはまだ動きを止めていなかったが、身体の所々がスミレ色の炎で焼かれ、一部では熾火のようになって、凝った闇の実体を崩壊させかけていた。
損傷によって速力が鈍り、豚はやがて立ち止まった。反転してもう一度ユマたちに突進するつもりのようだったが、サルファはその隙を見逃さなかった。
彼の手から、青白く光るなにかが迸った。それははじめ玉のように見えたが、すぐに違うものであると分かった。
網だ。狩猟罠や漁に使うものとは違う。網目の形は、どちらかといえば蜘蛛の巣に似ていた。サルファの手から離れた球体はある程度の距離で一気に拡散し、動きの鈍った夢魔を絡めとった。もがけばもがくほどその身体は自由を奪われ、地面にへばりつくような形で拘束される。
「ほうら。怖くない、怖くない」
誰に話しかけているのか、サルファは小さく呟いてから足を踏み出した。その手にはいつのまにか、網と同じ青白の、牙のような形の短剣が握られていた。サルファはゆったりと、しかし滑るような足取りで夢魔に近づくと、その短剣を眉間――と思われる場所――に突き立てた。
まああああああああああああ、と甲高い声で闇色の豚が叫ぶ。それはどこか人間のものに似て、聞く者の背筋を凍らせる、不気味で恐ろしげな断末魔だった。
サルファが刃を引き抜いた。その場所から、豚の身体にひび割れが広がる。そして乾いた土人形が砂へと還るように、身体全体がぼろぼろと崩れ落ちていく。それらはスミレ色に燻る破片となり、シュウシュウと黒い煙を上げながら、完全に消滅してしまった。あとには骨の一片さえ残らない。
「ちょっと火が弱かったかなあ……?」
ベルナデットが反省するような調子で言う。
「いや、乙女の恐怖を焼き尽くすのは、見た目ほど簡単じゃない」
サルファの短剣はいつのまにか消えている。彼はユマを一瞥してから、にっと笑ってこう付け足した。
「といっても、あの程度の夢魔にやられるようでは話にならないけどね」