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ユマと夢幻の治癒師  作者: 黒崎江治
2/10

-2- 夢の中へ

 サルファはリリイとその家族のことを話すよう父に求めた。病気の前後に起こったことを教えろということなのかと思ったが、どうも違うらしい。


 サルファは安楽椅子に腰かけ、父をもう一方の椅子に、ユマを近くの木箱に座らせた。そしてリリイが生まれてから今までのことを、一つ一つ細かく聞き取りはじめた。


 父の商売のこと、家族全員のこと、リリイは小さいころどのような性格であったか、ひどく恐れるようなことはあったか、人付き合いはどうだったか、婚約の経緯はどのようなものか、婿となるのはどんな人間か……。


 中には父やユマが首をかしげるような質問もあったが、サルファはそれを必要な質問だと言って憚らなかった。


「こんなところでしょう」


 半刻(一時間)ほど質問を繰り返したあと、サルファは言った。


「代金は金貨五十枚。これは後払いで結構」


「五十枚……」


 父は呟いた。それは治療費としてかなり法外な値段だった。高価たかい薬を出す医師でも、金貨三枚以上取ることはほとんどない。金貨五十枚というのは、普通の五人家族が三、四か月は食べていけるだけの額だった。


 しかし、症状が症状である。商人である父に払えないというほどの金額でもない。娘の命と引き換えならば、頷かないわけにはいかなかった。


「払います。必ず」


「それと、手伝いが必要です。……君は、ユマといったね」


 突然声をかけられて、ユマはどきりとした。サルファはオリーブ色の右眼でこちらの顔を覗き込んでいた。髪に隠されたスミレ色の左眼が垣間見えて、妙な迫力を放っていた。


「はい」


「お姉さんを助けたいか?」


「はい」


 ユマは若干気圧されながらも、力強く頷いた。


「多少の危険があっても?」


 一体なにをさせられるのだろうか、とユマは不安を覚えた。しかしユマにしても、姉の命を救うためならば、どんなことだってやる覚悟があった。


「……はい」


「よろしい。少し準備をしてから作業をはじめます。ラクロムさんには、明朝また来ていただきましょう」


◇ ◇ ◇


 父がピルムの市街まで戻り、その家にはサルファとユマだけが残された。そして今、サルファはリリイの周りに消し炭をこすりつけ、怪しげな魔法陣を作っている。彼が準備をする間、ユマにはなにもすることがなかった。手伝いを申し出ても、今は必要ない、とそっけなく言われるだけだった。


 自分の出番はいつ来るのだろう。ユマは安楽椅子にぎしりと腰を下ろして、ゆっくり進められる治療の準備――これが本当に準備なのだろうか?――を見守った。


 暇を持て余し、改めて部屋の中を眺める。先程から漂っている甘いにおいは、どうやら干された薬草のにおいであるようだ。はじめは気になったが、慣れればそれほど悪いものではない。


 そうするうち、ユマは自分の目蓋が重くなってくるのを感じた。一昨日の朝から目を覚まさない姉の看病を続けたことで、疲労が溜まっていたせいだ。治療の目処がついた安心感も手伝っていた。


 頭を揺らしながら、うつらうつらとする。しかしこのとき、ユマの意識に忍び寄ってきているのは、眠気と疲労だけではなかった。


〈こっち、こっち〉


 ふと、ユマはどこかから呼びかける声を聞いた。


〈こっちにおいで。顔を見せて〉


 はっと顔を上げ、あたりを見回してみても、声の主は見当たらない。はじめは鈴の音のようにかすかに聞こえていただけだったが、今やはっきりと耳に届いていた。どうやら、少女か若い女性のようだ。すぐ近くにいるサルファは反応を示さない。聞こえていないのだろうか?


 クスクスと笑う声の主。耳元で囁かれているような感じもするが、ユマはその気配が、窓際にある小さな机あたりから発せられていることに気がついた。安楽椅子から立ち上がり、そちらに目を向ける。


 黒い木で出来た丸い机の上には、大きな紫水晶アメジストの原石が置いてあった。こんなに目立つものに、なぜ今まで気がつかなかったのだろう?


 おいで、おいでと声が招く。不思議ではあったが、不気味ではなかった。ユマは原石に近づいて、それをまじまじと眺めた。


 原石は人間の頭ほども大きかった。下半分はざらついた黒っぽい岩石だが、上の部分には多角形の結晶が露出していた。透明な部分とスミレ色の部分が混じり合った結晶の中には、チロチロと光が揺らめいていて、声の響きに合わせてわずかに明滅している。


〈ほら、よく顔を見せて〉


「君は誰?」


 ユマは囁くように尋ねた。


〈ベルナデット〉


 声はそう名乗った。


〈あなたたちには夢魔って呼ばれるかな〉


「夢魔……?」


 夢魔。サキュバス、もしくはインキュバスとも呼ばれるその魔物の名は、寓話や説話で聞いたことがある。だが所詮は不貞や欲求不満の比喩や言い訳であって、ユマは現実にそのような存在がいると考えてはいなかった。


〈あなたの名前は?〉


「……ユマ」


〈ふーん。かわいい名前〉


 相手は明らかに非現実の存在だったが、ユマはそれと会話していることに違和感を持たなかった。あるいはこれは夢なのかもしれない、と思いはじめていた。安楽椅子の上で眠ったまま、このような夢を見ているのではないのか。


〈ほら、目を閉じて。私に触ってみて〉


 柔らかいスミレ色の命令は、地面に落ちた雨粒のように、ユマの理性を侵していった。さしたる抵抗もなく、行為の意味も考えないまま、ユマは両手で水晶を包み込むようにした。目を閉じれば目蓋の裏、銀色に翻るなにかが映る。


 その直後、背後から声がした。


「ベル。客人をからかうな」


 二度、手を打ち鳴らす音がする。その大きな音で、ユマは自分を包み込もうとしていた、茫漠たる夢の薄膜から引きはがされた。


「準備ができたよ」


「は、はい」


 なにか恥ずかしいものを見られたような気持ちになって、ユマは思わず目を伏せた。そんな様子を気にも留めずに、サルファはまたリリイに向き直った。ユマは紫水晶に目を戻したが、それはもう物言わぬ大きいだけの原石となっていた。


 リリイの様子は先程と大差なかったが、床に描いてある黒い文字は随分と増えていた。それは今やリリイの四肢やこめかみにも描き加えられ、あたかも彼女の身体が、黒い蜘蛛の巣に捕らえられているかのようだった。


「ここから、どうするんですか」


「寝る」


「え?」


「寝るんだよ。僕らが彼女の夢に潜り、原因に対処する」


「ええ……」


 それはユマが思っていた以上に風変わりな処置だった。しかし町医者からも信頼されるサルファが言うのだ。おそらくは気休め以上の効果があるのだろう。


「ただ寝るだけでいいんですか? 姉さんの傍で?」


「ひとまずはただ寝るだけでいいが、君の場合はこれを飲んだ方が早い」


 そう言うと、サルファはローブの懐から小瓶を取り出した。瓶には濃い紫色の、どろっとした液体が詰められていた。


「眠りの深さを調整して、夢を見やすくする薬だ。毒じゃないよ。ただ飲み過ぎると死ぬ」


 それを毒と言うのでは? 反論を飲み込んで、ユマは小瓶を受け取った。蓋を外すと、室内に入ったときに嗅いだような、甘ったるいにおいがする。飲むのをためらい、サルファを見る。


「全部?」


「そう、全部」


 量はコップ半分ほどあり、どんな味がしたとしても、一口で飲むことはできない。しかし姉を救うのならば、怪しげな薬くらいで臆してはいられない。ユマは覚悟を決めて目を瞑り、瓶に口をつけてそれを傾けた。


 舌先が痺れるほどに甘い。流れ込んだ液体は気道に入りかけ、むせそうになるのをこらえる。ユマは喉を絞るようにして、薬を胃の腑に流し込んだ。


「そこに寝て」


 何度も唾を飲み込みながら瓶をテーブルの上に置き、促されるままリリイの隣に身を横たえる。サルファもまた、リリイを挟んで反対側に寝転がった。


「目を閉じて、自分の息を数えるんだ。そのうち眠くなってくるよ」


 ユマは彼の言うとおりにした。身体の力を抜き、両手を結んで腹の上に置く。目を閉じ、ゆっくりと息を吸い、吐くことを何度か繰り返す。


 飲み薬の効果なのか、すぐに頭がぼうっとしてきて、身体が浮かび上がっていくような感覚があった。肉体と精神、自分と世界の境界が、徐々に曖昧になっていく。


 やがてそれと分からないうちに、ユマの意識は柔らかい混沌に包まれて、不可思議な眠りへと落ち込んでいった。

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