-2- 夢の中へ
サルファはリリイとその家族のことを話すよう父に求めた。病気の前後に起こったことを教えろということなのかと思ったが、どうも違うらしい。
サルファは安楽椅子に腰かけ、父をもう一方の椅子に、ユマを近くの木箱に座らせた。そしてリリイが生まれてから今までのことを、一つ一つ細かく聞き取りはじめた。
父の商売のこと、家族全員のこと、リリイは小さいころどのような性格であったか、ひどく恐れるようなことはあったか、人付き合いはどうだったか、婚約の経緯はどのようなものか、婿となるのはどんな人間か……。
中には父やユマが首をかしげるような質問もあったが、サルファはそれを必要な質問だと言って憚らなかった。
「こんなところでしょう」
半刻(一時間)ほど質問を繰り返したあと、サルファは言った。
「代金は金貨五十枚。これは後払いで結構」
「五十枚……」
父は呟いた。それは治療費としてかなり法外な値段だった。高価い薬を出す医師でも、金貨三枚以上取ることはほとんどない。金貨五十枚というのは、普通の五人家族が三、四か月は食べていけるだけの額だった。
しかし、症状が症状である。商人である父に払えないというほどの金額でもない。娘の命と引き換えならば、頷かないわけにはいかなかった。
「払います。必ず」
「それと、手伝いが必要です。……君は、ユマといったね」
突然声をかけられて、ユマはどきりとした。サルファはオリーブ色の右眼でこちらの顔を覗き込んでいた。髪に隠されたスミレ色の左眼が垣間見えて、妙な迫力を放っていた。
「はい」
「お姉さんを助けたいか?」
「はい」
ユマは若干気圧されながらも、力強く頷いた。
「多少の危険があっても?」
一体なにをさせられるのだろうか、とユマは不安を覚えた。しかしユマにしても、姉の命を救うためならば、どんなことだってやる覚悟があった。
「……はい」
「よろしい。少し準備をしてから作業をはじめます。ラクロムさんには、明朝また来ていただきましょう」
◇ ◇ ◇
父がピルムの市街まで戻り、その家にはサルファとユマだけが残された。そして今、サルファはリリイの周りに消し炭をこすりつけ、怪しげな魔法陣を作っている。彼が準備をする間、ユマにはなにもすることがなかった。手伝いを申し出ても、今は必要ない、とそっけなく言われるだけだった。
自分の出番はいつ来るのだろう。ユマは安楽椅子にぎしりと腰を下ろして、ゆっくり進められる治療の準備――これが本当に準備なのだろうか?――を見守った。
暇を持て余し、改めて部屋の中を眺める。先程から漂っている甘いにおいは、どうやら干された薬草のにおいであるようだ。はじめは気になったが、慣れればそれほど悪いものではない。
そうするうち、ユマは自分の目蓋が重くなってくるのを感じた。一昨日の朝から目を覚まさない姉の看病を続けたことで、疲労が溜まっていたせいだ。治療の目処がついた安心感も手伝っていた。
頭を揺らしながら、うつらうつらとする。しかしこのとき、ユマの意識に忍び寄ってきているのは、眠気と疲労だけではなかった。
〈こっち、こっち〉
ふと、ユマはどこかから呼びかける声を聞いた。
〈こっちにおいで。顔を見せて〉
はっと顔を上げ、あたりを見回してみても、声の主は見当たらない。はじめは鈴の音のようにかすかに聞こえていただけだったが、今やはっきりと耳に届いていた。どうやら、少女か若い女性のようだ。すぐ近くにいるサルファは反応を示さない。聞こえていないのだろうか?
クスクスと笑う声の主。耳元で囁かれているような感じもするが、ユマはその気配が、窓際にある小さな机あたりから発せられていることに気がついた。安楽椅子から立ち上がり、そちらに目を向ける。
黒い木で出来た丸い机の上には、大きな紫水晶の原石が置いてあった。こんなに目立つものに、なぜ今まで気がつかなかったのだろう?
おいで、おいでと声が招く。不思議ではあったが、不気味ではなかった。ユマは原石に近づいて、それをまじまじと眺めた。
原石は人間の頭ほども大きかった。下半分はざらついた黒っぽい岩石だが、上の部分には多角形の結晶が露出していた。透明な部分とスミレ色の部分が混じり合った結晶の中には、チロチロと光が揺らめいていて、声の響きに合わせてわずかに明滅している。
〈ほら、よく顔を見せて〉
「君は誰?」
ユマは囁くように尋ねた。
〈ベルナデット〉
声はそう名乗った。
〈あなたたちには夢魔って呼ばれるかな〉
「夢魔……?」
夢魔。サキュバス、もしくはインキュバスとも呼ばれるその魔物の名は、寓話や説話で聞いたことがある。だが所詮は不貞や欲求不満の比喩や言い訳であって、ユマは現実にそのような存在がいると考えてはいなかった。
〈あなたの名前は?〉
「……ユマ」
〈ふーん。かわいい名前〉
相手は明らかに非現実の存在だったが、ユマはそれと会話していることに違和感を持たなかった。あるいはこれは夢なのかもしれない、と思いはじめていた。安楽椅子の上で眠ったまま、このような夢を見ているのではないのか。
〈ほら、目を閉じて。私に触ってみて〉
柔らかいスミレ色の命令は、地面に落ちた雨粒のように、ユマの理性を侵していった。さしたる抵抗もなく、行為の意味も考えないまま、ユマは両手で水晶を包み込むようにした。目を閉じれば目蓋の裏、銀色に翻るなにかが映る。
その直後、背後から声がした。
「ベル。客人をからかうな」
二度、手を打ち鳴らす音がする。その大きな音で、ユマは自分を包み込もうとしていた、茫漠たる夢の薄膜から引きはがされた。
「準備ができたよ」
「は、はい」
なにか恥ずかしいものを見られたような気持ちになって、ユマは思わず目を伏せた。そんな様子を気にも留めずに、サルファはまたリリイに向き直った。ユマは紫水晶に目を戻したが、それはもう物言わぬ大きいだけの原石となっていた。
リリイの様子は先程と大差なかったが、床に描いてある黒い文字は随分と増えていた。それは今やリリイの四肢やこめかみにも描き加えられ、あたかも彼女の身体が、黒い蜘蛛の巣に捕らえられているかのようだった。
「ここから、どうするんですか」
「寝る」
「え?」
「寝るんだよ。僕らが彼女の夢に潜り、原因に対処する」
「ええ……」
それはユマが思っていた以上に風変わりな処置だった。しかし町医者からも信頼されるサルファが言うのだ。おそらくは気休め以上の効果があるのだろう。
「ただ寝るだけでいいんですか? 姉さんの傍で?」
「ひとまずはただ寝るだけでいいが、君の場合はこれを飲んだ方が早い」
そう言うと、サルファはローブの懐から小瓶を取り出した。瓶には濃い紫色の、どろっとした液体が詰められていた。
「眠りの深さを調整して、夢を見やすくする薬だ。毒じゃないよ。ただ飲み過ぎると死ぬ」
それを毒と言うのでは? 反論を飲み込んで、ユマは小瓶を受け取った。蓋を外すと、室内に入ったときに嗅いだような、甘ったるいにおいがする。飲むのをためらい、サルファを見る。
「全部?」
「そう、全部」
量はコップ半分ほどあり、どんな味がしたとしても、一口で飲むことはできない。しかし姉を救うのならば、怪しげな薬くらいで臆してはいられない。ユマは覚悟を決めて目を瞑り、瓶に口をつけてそれを傾けた。
舌先が痺れるほどに甘い。流れ込んだ液体は気道に入りかけ、むせそうになるのをこらえる。ユマは喉を絞るようにして、薬を胃の腑に流し込んだ。
「そこに寝て」
何度も唾を飲み込みながら瓶をテーブルの上に置き、促されるままリリイの隣に身を横たえる。サルファもまた、リリイを挟んで反対側に寝転がった。
「目を閉じて、自分の息を数えるんだ。そのうち眠くなってくるよ」
ユマは彼の言うとおりにした。身体の力を抜き、両手を結んで腹の上に置く。目を閉じ、ゆっくりと息を吸い、吐くことを何度か繰り返す。
飲み薬の効果なのか、すぐに頭がぼうっとしてきて、身体が浮かび上がっていくような感覚があった。肉体と精神、自分と世界の境界が、徐々に曖昧になっていく。
やがてそれと分からないうちに、ユマの意識は柔らかい混沌に包まれて、不可思議な眠りへと落ち込んでいった。




