エピローグ
ユマが目を覚ました直後に見たのは、こちらを覗き込む狼の鼻面だった。
「うわっ!」
声を上げて咄嗟に身を起こす。狼は素早く飛び退り、抗議するように小さく吠えた。
ユマは狼から距離を取りながら、辺りを見回す。薄暗い部屋の中央にある大きなテーブルと、二つの安楽椅子が目に入った。自分は夢から覚め、物質世界に、サルファの家に戻ってきたのだ。
気持ちを落ち着けたとき、ユマの胸に去来したのは喪失感だった。それは今まで浸っていた夢を失ってしまった悲しみであり、先程まで感じていたリリイの体温が離れてしまった悲しみだった。
リリイを見る。彼女はまだ静かに眠っていた。その目の端からは涙が流れ、頬を伝って床を濡らしていた。
サルファもたった今夢から覚醒したようだった。呻き声を上げてから大きく身体を伸ばし、ひょいと起き上がった。
「ああ、おはようジョフィ。無事に帰ってこられたよ。今は何時くらいかな」
ジョフィと呼ばれた狼はサルファに頭をこすりつけると、その身体で玄関の扉を押し開けた。白い陽光に照らされた地面が見え、やや涼しい風が吹き込んできた。ジョフィはそのまま、するりと屋外に出て行った。見張りの役割を終え、これから休むのかもしれない。
「朝か」
サルファはもう一度伸びをするとリリイににじり寄り、額や手首を触って状態を確かめた。そうするうちに、彼女もゆっくりと目蓋を開いた。
「おはよう、リリイ。気分はどうかな」
「あの、私……」
リリイは掠れた声を出した。まだ意識が朦朧としていて、状況がうまくつかめていないようだった。
「姉さん」
ユマもまたリリイの傍に寄り、その手を握った。栄養失調と水分不足のため随分とやつれて見えたが、その顔にはほんの少しだけ赤みが戻っていた。
「よかった。姉さん、よかった……」
「ユマ……。私、随分長く眠った気がするわ」
「姉さんは病気だったんだ。でも大丈夫。もう治ったよ」
「夢を見てたの。悲しくて、でも少し嬉しいような」
リリイは涙を拭いながらゆっくり身を起こそうとしたが、まだ調子が戻らないようで、酷くふらふらしていた。倒れそうになったところを、ユマが支える。
「ベッドを貸すから、そこで休むといい。そのうち、父君が迎えに来るだろう」
それから二人でリリイを担ぎ、奥の寝室へと運んだ。一仕事終えて安心したところで、激しい喉の渇きを覚えたユマは、水瓶から何杯も水を飲んだ。少し空腹でもあったが、それはなんとか耐えられそうだった。
部屋の一角、小さなテーブルの上に置いてある紫水晶が、窓から差し込む朝日を反射してキラキラ光っていた。それに歩み寄り、上にそっと手を置く。
「ベル、ありがとう」
答える声は聞こえなかったが、水晶の中でわずかに光が瞬いた。あるいは気のせいだったかもしれない。振り返ったユマは、鍋でなにかを煮はじめたサルファに声をかけた。
「あの……、僕はこれから、どうすればいいでしょう」
リリイの眠り病には、自分の存在が大きく関わっていた。誰も悪くない、とサルファは言ったが、それはユマに原因がないことを意味しない。リリイの想いを知った今、彼女とどんな風に接すればいいのかも分からなかった。
「多分再発はしないから、そこまで気を付けることはないと思うけど、離れられるなら家を離れた方がいいだろうね」
かまどの方を向いたまま、サルファは言った。
「ただ、〈学院〉に行くとしてもあと二年ありますから、すぐというわけには……」
薬草らしきものをちぎって鍋に投げ入れてから、サルファはようやくこちらに振り返った。
「そのことについて、僕から一つ提案をしよう――」
◇ ◇ ◇
ユマの父は前日にした約束の通り、午前中の早い時間にやってきた。寝室でリリイと面会し、彼女の治癒に涙を流して喜んだあと、用立てた金貨五十枚を、早速代金として払おうとした。
しかしサルファはそれを受け取ろうとせず、一旦寝室を出てから、父にある申し出をした。
「ユマから話を聞きました。彼は〈学院〉で医学の勉強をしたいとか」
「ええ、それは私も知っていますが、まだ詳しくは話し合っておりません」
「少し本人と話したのですがね。もしお父様がよろしければ、どうでしょう、彼がここで手伝いをしながら、医学の入口を学ぶというのは」
それは父にとってかなり意外な提案だったようだ。少しの間言葉に詰まり、ユマとサルファを交互に見る。
「もし医学の適性ありとなれば彼を〈学院〉に送り、今回浮いたお金を、学費の足しにするといいでしょう。勘違いしないで頂きたいのですが、代金のかたに彼を奉公させる、ということではありません。生活の面倒は見ますし、若干の給金も出すつもりです」
多分、リリイの眠り病が治っていなければ、父はその提案を考慮することすらしなかっただろう。しかし諦めかけた病の治癒を目の当たりにして、サルファを見る目は明らかに変わったようだった。
「ありがたい申し出だと思います。ただ、家族と相談しなくては……」
「もちろん、そうでしょう。こちらは急ぎませんよ」
そう言ったあと、サルファはユマに目線を送り、にやりと笑った。
リリイの体調が少し戻るのを待って、ユマたちはゼントヴェイロへの帰路についた。父はサルファが一体どんな治療をしたのかと尋ねてきたが、ユマにはうまく答えられそうもなかったので、それは固く口留めされている、とごまかしておいた。
リリイとは結婚についての話をした。彼女は婿となるトーレスがどんな人物であるかを、改めて詳しく語った。その口調からは、リリイが心から彼を好意的に思っているのだということが分かった。
ユマはそれをどう解釈するべきか悩んだが、どのみち、彼女の幸せを願う気持ちはいささかも揺るがなかった。
しかし結局のところ、サルファがどのような思考であの結論に至ったのか、ユマにはっきりとは理解できなかった。
夢幻の治癒師として経験を積んできたからなのかもしれないし、あるいは、彼だけしか持たない特別な適性があるのかもしれない。彼と過ごすうちに、一端でも理解する機会はあるだろうか?
サルファと手伝いについて話したとき、彼は医学だけでなく魔術にも触れるべきだと言った。夢幻世界についても学び、もし興味が出るようなら、それを深めていくといい、というようなことを。
夢幻世界で体験したことを思い出してみれば、ユマの心に浮かぶのはまず恐怖だ。しかしそれとは別に、うっとりするような、惹かれるような感情も、小さいながら確かにあるのだった。今まで想像だにしていなかった未知を探検することに、湧き立つような興奮がなかったと言えば嘘になる。
これから自分は、夢幻と物質両方の世界で様々なものを見るだろう。馬車に揺られて初夏の陽光が降り注ぐ平原を眺めながら、ユマはこれから待ち受ける、不確かだが魅力的な世界に想像を巡らせた。
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