-1- 夢幻の治癒師
その一風変わった魔術師は、ピルムの町はずれに居を構えている。
町医者の言葉を思い出しながら、ユマは商売に使う馬車の荷台で、眠ったままの姉を見つめていた。車輪が街道の凹凸を踏むたび、その寝顔がわずかに揺れる。
姉のリリイは今年で十七歳になる。その可憐な容姿は近所で評判になるほどだった。形の良い眉と、つんと通った鼻筋と、血色のよい唇が笑顔を作れば、虜にならない男はいないとまで言われていた。
姉は商家の娘にありがちな勝気さや計算高さを持たず、誰にでも優しく丁寧に接した。三歳下の弟であるユマも、幼いときから随分甘やかされた記憶がある。今となっては少々気恥ずかしいが、自慢の姉であるのは間違いなかった。
しかし今、彼女の顔は青白く、頬はこけて肌は乾き、瞳は長く閉じられたまま、いつもの可憐な笑顔を作ることはない。リリイはこの三日間、眠り続けているのだった。
◇ ◇ ◇
ユマの父は都市の商人で、行商や交易商ではなく、通りに店を構える形の商売をしていた。普段商うものは食料や衣類などの日用品、雑貨の類である。富裕というほどではないが、家や店で働く使用人を何人も雇っていたし、日常生活で金銭に不自由することはなかった。
家族は父、母、兄。姉のリリイ、そしてユマの五人だった。取引や買い付けで父が家にいないことも多かったが、そうでないときは、家族全員なるべく揃って過ごすのが習慣だった。
朝食を全員で摂るというのも、家族が持つ習慣の一つだ。最近はそうでもないが、昔は時間に遅れると、躾のために食事を抜かれることさえあった。
リリイに異変が起こったのは二日前。その端緒は、彼女が朝食の席に顔を出さなかったことだった。リリイが寝坊することはまずなかったので、まだ事情を知らなかった家族は、ただ珍しがるだけだった。
父に頼まれ、ユマがリリイを起こしに行った。彼女は部屋のベッドに横たわり、安らかに寝息を立てていた。しかしユマが声をかけても、揺すっても、軽く頬を叩いても、リリイは一向に覚醒しなかった。無理やり目蓋を開けたところで、瞳が小刻みに動くだけで、反応を示すことはなかった。
これはおかしいと思ったユマが両親に告げ、すぐに町医者が呼ばれた。使いの尻馬に乗ってやってきたのは、近隣に住む腕の確かな医師だったが、長い時間診察しても、リリイが目を覚まさない理由は判明しなかった。
彼女には熱も、斑も、腫脹もなく、長く目を覚まさないことを除けば、眠っているのとほとんど変わらない状態である、とのことだった。
覚醒作用のある香を焚いても、頭のうしろを熱した鉄粉で温めてみても、リリイの様子は一向に変化しなかった。結局、口に湿らせた布を含ませ、わずかに水分を摂らせたり、身体を拭って清潔にしたりしておく以外に、できることはほとんどなかった。
両親は激しく狼狽した末、医師を追い返し、また別の町医者を呼んだ。どの者の処置も似たり寄ったりだったが、リリイが目を覚まさなくなってから一日半、四番目に呼ばれた老齢の医師が、これは〈眠り病〉かもしれない、と家族に告げた。
ユマはその病の名をはじめて聞いたが、医師は二、三年に一度、この病に罹った患者を診ることがあるという。
「どうすれば治るんだ」
父は医師に詰め寄った。リリイの病気が難しいものであるということのほかに、焦る理由がもう一つあった。彼女は二か月後に婚姻を控えていたのだ。
相手は領主が抱える騎士家の次男坊である。家督を継ぐ予定はないが、武官としてそれなりの地位には就くことになっているはずで、商家の娘が嫁ぐ家の格としては申し分ないものだった。
性格は高潔にして容姿も端麗。ユマに一抹の寂しさはあるものの、両者ともどうか幸せになってほしい、と心の底から願えるような結婚だった。
しかしリリイの病気が長引いたり、不健康な花嫁であるという悪評が立ったりすれば、まとまりかけた縁談に影響しかねない。もちろん、このまま死んでしまうなどということは、家族の誰にとっても耐え難い不幸だった。
「一人だけ、この病を治せる者を知っています。ピルムの町に住むサルファという魔術師です」
医師は言った。
「魔術師だって? 怪しげなまじないに頼るのか」
父は声を荒げた。普通の人間であれば、無理もない反応だった。魔術師という人種は今の世間で一定の地位を占めているが、それでも大多数の人々にとっては、謎めいた、得体の知れない、気味の悪い存在だった。
困りごとを魔術師に相談し、問題の解決を求めるという行為は、領主から農民まで階層を問わず見られるものだったが、やはり大っぴらにそれをするのは憚られるような雰囲気があった。
「彼はまだ若いが、魔術師としてだけではなく医師としても優秀です。サルファならばこの病の治療を、そうでなくとも有益な助言をしてくれるでしょう」
白く長い髭を蓄えた老齢の医師は父の大声に気圧されることもなく、低く穏やかな声で言った。
「変わった人物ではあります。特別に高潔で誠実というわけでもない。しかし私が聞くところによると、サルファはかの〈学院〉で学び、夢に潜る術を身に着けたといいます。
庭園を逍遥するかのように夢の世界を歩き、病の根を摘むことができるとか。一部の者は彼のことを、〈夢幻の治癒師〉と」
「〈夢幻の治癒師〉……」
その評を聞いた父は椅子に腰を下ろしてうなだれ、言われた通りにその怪しげな魔術師を頼るべきか、しばし考え込む様子を見せた。
このままでいてもリリイは衰弱するばかりで、対処のしようもなく死を待つばかりである。商人らしく不確かなことを嫌う父だったが、結局、サルファを訪ねるため、ピルムの町へと向かうことを決めた。
そして母親と兄を家に残し、父、御者、ユマ、そして眠ったままのリリイで、ゼントヴェイロを出発したのだった。
◇ ◇ ◇
揺れる馬車の荷台の上で、リリイは眠り続けている。ユマはその額にそっと手を乗せた。彼女の肌は昨日よりも張りと滑らかさを失っていたが、まだわずかな熱を掌に伝えた。胸は穏やかなリズムで上下している。苦しんでいるようには見えない。
ユマも両親と同じように、姉のことを強く心配していた。なにかと厳しい両親に叱られるとき、姉はいつも自分を庇ってくれた。家族の誰より特別な存在だとさえ言えるかもしれない。
このまま永遠に目を覚まさないのだろうか。本当に死んでしまうのだろうか。そんなことになれば、とても耐えられそうになかった。ユマはなにもできない自分が悔しく、酷く虚しい気分にもなっていた。もし代わることができたなら、間違いなくそうしただろう。
ユマが顔を上げると、荷台のうしろから見える景色が、いつのまにか田園に変わっていた。ゼントヴェイロの西門を出たのが夜明け前のことで、今は正午に近いから、もうそろそろ目的地であるピルムに到着する時間だった。
普段はぼうっとしたり突飛な空想をしたりして時間を潰すのが得意なユマだったが、このときばかりは時間の流れが普段の数倍も遅く感じた。
待ちきれなくなったユマは荷台で膝立ちになり、馬車の前方に目を向けた。田園を吹き抜ける風が、栗色の髪を揺らした。馬が歩く先には初夏の収穫期を迎えた広い麦畑があり、黄金色の表面を波打つように揺らしていた。その向こうには、遠くピルムの町と思しき建物群が見える。
「もうすぐだよ、姉さん」
ユマは傍らの姉に声をかける。答えは返ってこなかったが、その表情がほんの少しだけ、和らいだようにも見えた。
◇ ◇ ◇
魔術師サルファの家はピルムの町はずれにあるとのことだったが、実際に到着してみると、そこは町の一部と言えるかどうかさえ微妙な辺縁だった。
通りはおろか最寄りの民家からも遠く離れ、すぐ近くは鬱蒼とした森になっている。そこに建つ家はさながら、人界と未開の境を示す標のようだった。
石造りの家屋はしっかりした職人の手によるものだったが、補修はあまり行き届いていなかった。壁には葛が這い、軒下には雑草が生い茂っていた。
家屋の脇には小さな薬草園があって、そこは辛うじて最低限の手入れがされているようだったが、それでも木桶や柄杓が無造作に投げ出されていて、持ち主の粗雑な性格が垣間見えた。
馬車を停め、父が座席から降りかけたとき、森から突然なにかが飛び出してきて、鋭く大きな声で吠えた。父が驚いて声を上げ、馬も怯えて何度もいなないた。ユマも意表を突かれて、思わず荷台に座り込んでしまった。
現れたのは灰色の狼だった。毛並みや体格からして、完全な野生ではなさそうだった。狼は一度だけ吠えたあとは別段襲い掛かってくるわけでもなく、家の軒下で行儀よく腰を下ろした。
しかしユマはその姿を見てすっかり動転してしまった。ユマにとって狼は、竜よりも恐ろしい生き物だったからだ。死んだ狼の毛皮を見るだけでも恐ろしかった。人に馴れた犬でさえ苦手だった。小さいころ、森で狼に襲われたことがあるのだ。
狼を特に恐れる人間でなくとも、大きな獣に見つめられながら家を訪ねるのは、相当な勇気が要ることだった。誰かに飼われているのだとしても、噛まれない保証はない。
しかしもちろん、このままサルファを訪ねず帰ることはできない。どうしたものかと一行が思案していると、家の玄関扉が開き、黒いローブに身を包んだ男が顔を出した。
「おや、お客さんかな」
狼が立ち上がり、男に頭を擦りつけた。来客を告げるという仕事を果たして、褒められたいようだった。男が頭を撫でると、狼はその尾をぱたぱたと振り、また裏手の森に戻っていった。ユマはほっと胸を撫で下ろした。
「ご用件は?」
ユマと父は馬車から降り、男の前に立った。背丈は高くも低くもない。ローブから覗く首や腕は白く、細く、不健康そうだった。髪は黒と白が入り混じっており、年齢を測りづらくしていた。
顔の彫りは深く、オリーブと同じ色の右眼には力強い輝きが宿っていた。そういう点では精悍と言えなくもなったが、下ろされた前髪に隠れた左眼と、病的なほどに白い肌とが、全体の雰囲気を陰鬱なものにしていた。
〈夢幻の治癒師〉サルファ。いかにも魔術師然とした怪しげな人物、というのがユマの抱いた第一印象だった。
「ゼントヴェイロから参りました、商人のラクロムと申します。こちらは息子のユマです。魔術師のサルファさまとお見受けしますが……」
「ええ、そうです」
サルファの態度は超然としていて掴みどころがなく、普段は交渉事が得意な父も若干やりづらそうだった。思い出したように懐から書状を取り出し、サルファに手渡す。
「トウカ医師からの紹介状を持参しました」
「ああ」
サルファ巻かれた古い羊皮紙を開き、内容を一瞥した。
「娘さんはここに?」
「ええ、荷台におります」
「屋内まで運びましょう」
父がリリイを背負い、家の中へと運び込んだ。サルファがきしむ扉を開け、一行を中に招き入れる。屋内に入った瞬間、妙に甘ったるいにおいがユマの鼻腔をくすぐった。嗅いだことのないにおいだった。
家の中は薄暗かった。東向きの小さな窓から光が差し込み、空中に浮かぶ埃を照らしていた。
ユマは物珍しげに辺りを見回した。今いる場所はかなりがらんとしている。かまどの近くには、干されたり瓶に入れられたりした薬草類、あるいは調味料があり、部屋の中央には大きなテーブルがあり、その傍らには大きな安楽椅子が二つあった。
しかし調度らしい調度はそれだけで、ほかには内容物の分からない木箱や壺が置かれているくらいだった。部屋の奥には、また別の部屋に繋がっているらしい扉が二つあった。
ユマたちはリリイを玄関近くの床に寝かせた。その場所の木材は、やけに黒ずみ、すり減っていた。なにかで汚しては、それを拭き取ったり削り取ったりした跡のように見えた。
サルファはリリイの傍らでしゃがみこみ、左眼にかかっていた前髪を上げた。彼の左眼は、右眼と同じオリーブ色ではなく、深く透き通ったスミレ色だった。ユマはそんな不思議な色の瞳を持った人間を、今まで見たことがなかった。
サルファは髪を上げたまま、見えにくいものを見るように目を細めた。リリイの額に触れ、目蓋を開いて瞳の動きを確認し、首筋で脈を取り、胸の上下で呼吸を確かめた。ユマはサルファの所作がどのような意味を持つのか考えながら、その様子をじっと見守った。
「トウカ老の言う通りで間違いないでしょう。いわゆる〈眠り病〉です」
やがてサルファは髪を下ろし、ユマたちに告げた。
「では、治るのですね」
「うまくいけば」
「今はリリイにとって、大事な時期なのです。二か月後に嫁入りを控えている。お金は払いますから、どうか――」
興奮してまくしたてる父を、サルファは手で制した。
「まず、患者のことを聞かせてください。夢の作業はそれからです」