泡水色
水の中を通った淡い光が、足元で青白くゆらめいている。ずっとこうしていると思わぬ時に足をすくわれてしまいそうで、時々かかとを上げ下げしてみたりする。
その格好が可笑しかったのか彼は、にやにやとしながら、
「なに、それ、背伸び?」と言った。
言い方が妙にむかついたわたしは、ばかまじめな顔で、水槽を向きながら言う。
「たまにこうしないとね、連れて行かれる気がするの」
「何処にさ」
「暗くて深い、底までね」わたしは終始、そっぽを向く。
彼がごそごそと厚いジャンパーを鳴らせて、こちらに向き直るのがなんとなく、分かった。
「どういう意味だい、それ」彼の声色は真面目そのものだ。そんな彼にわたしはわざと素っ気なくする。
「意味なんて、ないわよ。考えるんなら君もやんな」そう言って、尻のあたりを引っぱたく。彼は居心地が悪そうに、肩を揺らした。
背の高い彼のからだを、水のゆらめきがそっとさらう。その流れはゆっくりと、背の低いわたしの頭も、さらっていく。
ひやっと冷たい感触がわたしの猿みたいに真っ赤な耳を(たぶん。でもきっとそう)なでて、包む。くすぐったいのだか面白いのだかで、くすくすと音を立てて、わたしは笑った。
声はしだいに大きくなっていき、彼に止められる頃には、周りの空気すべてがわたしの笑い声に入れ替わってしまったかのように、なる。
「やめなよ、いつもいつもそんなこと」
「いいじゃないの、どうせ誰もいないんだから。」
「警備員さんがいるよ」
「聞こえやしないわよ」
どうにもわたしが聞く耳を持たないのを悟ったのか、それきり彼は黙り込んでしまった。
そんな時の、彼のわたしを見る目はひどいものだ。まるでキャベツかなにかの葉っぱの裏になめくじでも引っ付いていた時のような目で、気味悪そうに、わたしに一目くれるのだ。そんなでも、わたしは気にしない。
目の前をいわしの群れが横切った。きれいな銀色の肌で、いろいろなところの光を心地よいくらいにきらめかせるさまは、わたしを深く安心させる。思わずため息が洩れるほどに。
のぼっていく吐息は水色だ。
「いつだか、わたしもこういうとこで働いてたって言ったじゃない。」
彼は独り言のようにああ、と言った。 「そういえばそんなこと、言ってたかな。」
その時にね、とわたしは続ける。
「うちのとこでヘンなの飼ってたことがあったの。」
「へんなの?」彼は首をかしげる。
「うん。半透明でぬるぬるしてて、かしわ餅からヒモが生えたような形をしてるの。」
それはヘンだ、と彼は笑う。
わたしはなんだかばかにされたようで、眉間のうら側がちょっとばかりささくれる。
「すぐ死んじゃったんだけどね。よくみれば、ちょっときれいだったかも。」
わたしの言葉はいつも遠回りだ。
すると彼は、「それで?」だとか、「何?」なんて言って、 すぐ、次の言葉をうながそうとする。
これは彼のくせみたいなもので、わたしが話したいことがあるのを、わたしが言いたいことがそれではないことをすぐに見抜いて、わたしに核心を吐かせようとするのだ。
その鋭さと、面倒くささを気に入らない彼の性格は、あまり好きにはなれなかった。
「…まあ、そいつがね、来たときに聞いたんだけれど、グレープフルーツの匂いがするっていうのよ。」
「そのかしわ餅がかい?」彼はヘンな顔をして聞く。
「そう。粘液から柑橘の香りがするって、同じ課の人が言ってて。」
「それで、嗅いだのか。」顔を足元に向けた彼がつぶやいた。
「…いや。」
そういったわたしに、彼はますますヘンな顔をしていった。
「わからないな。」
何がよ、とわたしはきき返す。
「なんでそんな話をするのか、とか聞いたらダメなんだろうね。」
「もちろん。」わたしはのぼる泡を、目で追っている。
「仕事は?楽しい?」
彼は、ふせた目蓋をちょっと上げて、答える。
「まあまあ、さ。座ってるだけのことが多いから、退屈といえば退屈だね。」
「デスクワーク、ってやつね。わたしには、とても無理だわ。」
すると彼はクスクス笑って、わたしもまた、笑った。
青い空気は、わたしたちのすき間をゆっくりと、静かに流れてゆく。
「今は、どこに住んでるの。」彼が言った。
「ちょっと遠いところよ。窓から海が見えるの。」
へえ、と彼はつぶやいたきり、黙りこくってしまった。
わたしは水を見ていた。
青くて大きな岩は、海の切れ目をころがって、深く、暗い底の方へと沈む。
小さな水色の砂利は、岩肌のすき間にはさまって、いつか、沈んでいくときを待ち続ける。
わたしたちは砂利だ。
浮き沈みする泡をみて、いつまでもそんなことを考えていた。