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ラーメン編『麺を作ろう! 終わった誰かの物語』‐12





 彌生は僕を地面に叩きつけたその手で僕を起こすと、僕の頬を撫でた。


「鵺を無事に討伐されたようですね」


 よく頑張られました、と彼女は言う。

 僕はその手を振り払って、睨みつけた。


「亜理紗はどこですの……!?」

「さあ。今頃はもう、東京を出られたころかと。旦那様も今回は自動車をお使いになられていますし、そうそう追いつけるものではないかと思いますよ。それに、」


 彌生はゆるりと頭を下げた。


「私もおりますので」

「それはつまり――邪魔をすると?」

「そうなりますね。ええ。わかりやすく言わせていただきますと……ここを通りたければ私を倒してから行くのですね、と。そういう物言いになるでしょうか」


 ――無理ですわね。

 僕の中の冷静さが、そう告げる。

 彌生は強い――僕よりもはるかに強い。

 地味な袴に小袖、その上にエプロンを付けた女中姿だけれど、その服の下に秘めた力は達人のそれだ。

 ――魔力を持たない平民ですけれど、体術だけでわたくしに戦闘術を教え込んだ人ですもの。

 なんの強化(バフ)もなく【陽炎舞】を使った僕を平然といなす傑物だ。鵺との戦いで力のほとんどを使い果たした僕が勝てる相手ではない。


「……彌生。お風呂の用意をお願いします」

「賢明な判断、ありがとうございます」

「……ひとつだけ聞かせなさい。亜理紗に傷を負わせたりはしていませんわよね?」

「それはご安心ください。亜理紗様は聡明なお方ですから、抵抗なく旦那様について行かれました」





 ☆





 ざば、と手ですくったお湯を湯船に落とす。

 温かい。擦り傷や痣はエドガーのおかげでほとんどないけれど、魔力の消費や精神の疲労までは癒せない。


「……亜理紗」


 猫足のバスタブだ。これを初めて見た亜理紗がたいそうはしゃいでいたのを覚えている。

 ――抵抗なくついて行かれました、と。

 彼女は戦闘には向かない。けれど、向かないだけであってできないわけではない。彌生や玲王・暁之宮を敵に回して勝てるわけはないけれど、それでも逃げに徹すれば――いや。

 逃げられない理由があったんだ。

 父は言った。


『奈良で術式が見つからなかったり、キミがもしも他になにかを隠しているなら――そのときは、わかっているね?』


 父はそう言ったのだ――僕を見ながら。

 ――わたくしのせいですわね。

 父は、言外にこう告げていたのだ。

 もしも亜理紗が父に不利になるようなことをしていれば――僕を害すると。

 あの父は、僕を、娘であるリリィ・暁之宮を人質に取っていた。


「亜理紗……!」


 彼女は。

 僕の騎士は。

 身を呈して僕を守ったのだ。

 彼女を意気地なしと罵った僕を。

 こんな僕を。

 失ってから大切なものに気付く愚か者を。


 風呂を出る。

 もうすでに朝だけれど、学校へ行く気にはなれなかった。

 厨房へ行く。

 冷蔵箱から寸胴鍋を取り出す。氷屋――氷属性の術者が定期的に氷を作りに来てくれるので、それを冷蔵箱に入れて、物を冷やす仕組みだ。

 そこに入っているのは、スープ。

 僕と亜理紗が作った、豚骨と鶏ガラのダブルスープ。

 火を起こして、熱する。

 ゆっくりとスープの温度が上がっていくのを、ぼうっと見つめる。

 ――そうですわ。

 麺があった。亜理紗と共に作ったものだ。まだ試作段階で、茹でる前の生麺を玉に纏めて冷蔵庫で寝かしてあったのだ。

 もうひとつのかまどで湯を沸かして、そこに麺を放り込む。

 どんぶりを用意して、タレとスープ、鶏油を入れる。

 自家製麺のゆで時間の目安がわからないので、10秒ごとに麺の端をかじってみる。

 中太麺。

 ――このくらいでしょうか。

 いい感じだと判断したので、湯から麺を上げる。

 竹を編んで作った平ざるがあったので、それで湯切りをして、どんぶりへ。

 黄金色に輝くスープに浮かぶ中太麺。

 具がないのは寂しいけれど、それはそれで我慢することにした。


「いただきます」


 麺を箸で摘まんで、啜る。

 まず熱。次に麺の食感と塩辛さ。コクのある豚骨の旨み。まろやかにまとまった味。

 中太麺は、少しぼそぼそしているものの、十分中華麺として食べられるものだ。

 は、と息を吐く。

 美味い。

 美味いけれど。


「……ダメですわね」


 なにかが足りない。なにが足りないんだろう。


「ねえ、亜理紗。一味足りないと思うんですけれど――」


 と。

 声を上げてから、気づく。

 ――恥ずかしいことしましたわね。

 でも、誰も見ていない。ここには僕一人しかいないのだ。

 お目付け役の彌生も、厨房の中までは入ってこない。屋敷から脱走しても、すぐに捕まえられる自信があるのだろう。

 だから、僕は今一人で、誰にも見られていなくて。

 誰も見ていないなら――いいかな。

 ――いいですわよね。


「……く……うぅ……!」


 ぽた、とどんぶりの中に雫が落ちた。

 嗚咽が抑えられない。

 箸をおいて、両手で顔を抑えてみたけれど、一度溢れ出した感情は――僕の中には戻らない。


「亜理紗……亜理紗ぁ……!」


 寂しいよ。

 一緒にいたいよ。

 ともに食卓を囲もうって言ったじゃないか。

 なのに、どうして。

 どうして、僕の騎士はここにいないのか――。


「ふ、う――……!」


 不甲斐なさとか。

 悔しさとか。

 寂しさとか、後悔とか。

 いろいろなものがあって、僕の頭の中はもうぐちゃぐちゃで。

 どうして、なんで、僕の、僕は、なにを、どうして――。

 僕は。僕は。僕は。

 否。

 ――僕が。

 僕が、悪いんだ。

 あ、と喉の奥から声が漏れた。かすれた声だ。

 両手で一層顔を強く抑える。抑えているのに、雫と声がこぼれ出る。


「ぅぁ……!」


 僕は泣いた。

 子供のように、泣きじゃくった。





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